一昨日ヘアメイクぽみえさんとこへカットと毛染め行きました。
ぽみえさんは去年夏に竹生島いったよと話がはずみました。
彼女はスピリチュアリストなので琵琶湖の湖中に青い龍を感じたと言ってました。
気脈が通じると湖の色がかわったそうです。
トップ画像はパナソニックの古いデジカメ撮影で、
アイフォンで撮影したものはクリックで拡大します
同じときに撮影してもレンズによって色が変わるから、
人間の目もフィルター次第で異なって当然ですね。
島の南側の龍神拝所を船からみると
現在修理工事中のため白い養生布で覆われていて、
四角い窓から「かわらけ(素焼きの小皿)投げ」でお願いごとができます。
2枚のかわらけに、1枚目に名前、2枚目に願いことを書きます。
鳥居向かって投げて、うまく鳥居の間を通過すれば聞き届けられるそうだ。
風が強かったにもかかわらず、1枚目無事通過。
しかし2枚目は風に流されてあさっての方向へ。
龍神さんは、名前はちゃんと聞いたけど、何の御用かわからんかったことでしょう。
かわらけ授与所の右側に、招福弁才天
(日本本五弁天/安芸の厳島・大和の天川・近江の竹生島・相模の江ノ島・陸前の黄金山のひとつ)
弁才天のお使いである白蛇を祀った白巳大神社がありました。
狛犬ならぬみ~さんの狛巳阿吽像はちょっと不気味です。
さらに進むと、黒龍を祀る神社
右側の太い木をつたい湖から龍神さんが昇ってこられたという言い伝えがあるそうです。
先の宝厳寺の記事でコメントしてくださった吉田一気さんは、
この黒龍さんに鳥居脇の瑞祥水を所望され、
もう少しで帰路の船に乗り遅れるところだったとのこと。
私も帰りの船を待つ間に、200ccほどためるのにずいぶん時間がかかりました。
DIVAさんからいただいたコメントには
都久夫須麻神社で奉納演奏をさせて頂いたことがあり、お陽さまのまわりに虹の輪ができて「日輪」になりました。
大自然に連動して、共演の方々のより良き思いや、奉納を観賞するお客様の心が合わさると、こんな現象が現れるのかなと、いまだにあの時の景色が鮮やかによみがえります。
都久夫須麻神社の社殿は写真撮影禁止と書かれてあったので1枚も画像残ってません。
竹生島の一連の記事、3回目にしてやっと気づいたことあります。
これまで、ちくぶじまと入力すると「築無事間」と表記されるので
竹島と書いてあいだに生きるを挿入するか、竹生島をコピペしてました。
いやさかの木さんへのコメント返しにも書きました。
最後の記事書くときにになって、やっと「ちくぶしま」と認識。
するとちゃんと竹生島と変換できるのでした。
竹生島は「ちくぶしま」で、島は「しま」と濁らない。
去年のNHK大河ドラマはお江は浅井家の三姉妹、
その浅井氏は、あさいではなくてあざいとよむそうだ。
地名としての浅井(あざい)は、この浅井家に由来するのかと思いがちだけれど、逆だった。
浅井という地域名は律令制の時代からあり、以前は浅井郡と言われた。
東西に分かれ東浅井郡と西浅井郡となり、西浅井郡は伊香郡に編入され西浅井町になりました。
この旧浅井郡の地域は竹生島信仰を支えた地域であるそうだ。
弁財天を新規に作造し、竹生島に奉納する行事
「竹生島の頭(とう)がさす」をつとめる頭人と言われる役は旧浅井郡から選ばれる
竹生島の都久夫須麻神社の祭神は
・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)(弁財天)
・宇賀福神(うがふくじん)
・浅井比売命(あざいひめのみこと)
・龍神(ちくぶしまりゅうじん)
浅井姫命は、戦国時代の浅井家よりも古くて、こちらが先です。
社伝では、雄略天皇3年(420年)に浅井姫命を祀る小祠が作られたのに始まると
古代から神域とされ5世紀頃にはすでに神社があったのです。
『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が
姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、
負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、
湖に落ちた首が竹生島になったという記述があるそうです。
民話でたどる滋賀の風景 / 竹生島の話
浅井姫命って誰って気になるところです。
雄略天皇時代に何があったんだろう?
西浅井町岩熊に、式内矢合神社があります。
昔、浅井姫命と気吹雄命が争った時、
気吹雄命が浅井岡を襲い、浅井姫命は当地まで退き、防矢を射たという。
むかしむかし、浅井地域とその東南の伊吹地域で争いがあった。
伊吹山は、息を吹く=ふいご=金属精錬=製鉄の関連を指摘されていて、
金糞は精錬クズという意味もあり
この地域に古代の製鉄跡やそれに因んだ地名もあるそうで、鉄を巡る争い?
浅井地域が負けて、その長またはその一族の姫君や女性も皆殺し。
征服者側が浅井地域を治めるため先の支配者を竹生島に祀った?
その後、水に縁の深い弁才天が祀られ、人々の篤い信仰を集めるようになっていきます。
この風光明媚な竹生島は、信仰心なくとも感じるものがあります。
能では、そんな竹生島と琵琶湖の醸すゆったりと穏やかな春の景色のなかで清々しい神の物語が展開されます。
「延喜帝(醍醐天皇)の臣下が、竹生島の弁才天の社に詣でようと、琵琶湖にやって来る。
臣下は湖畔で出会った老いた漁師と若い女の釣り舟に便乗し湖に浮かぶ竹生島を目指す。
湖春のうららかな景色を眺めるうちに竹生島へ着き、老人は臣下を社に案内。
連れの女も一緒に来たので、臣下は老人に、竹生島は女人禁制ではないのか、と問いかける。
するとふたりは、竹生島は女体の弁才天を祀り、女性をお隔てにならないと返し、島の由来を臣下に語り聞かせる。
その後女は自分は人間ではないと明かして社の御殿に入り、
老人は湖の主であると告げ、波間へ消えていった。
臣下が社人に宝物を見せてもらい時を過ごしていると、御殿が鳴動し光輝く弁才天が現れる。
壮麗な天女の姿で弁才天が夜の舞楽を奏するうちに、
やがて月が湖上に澄み輝く頃を迎え湖中より龍神が現れる。
龍神は金銀珠玉を臣下に捧げ祝福の姿をあらわす。
そしてある時は天女となって衆生の願いをかなえ、ある時は下界の龍神となって国土を鎮めるのだ、
と衆生済度の誓いを現した後、天女は社殿に入り、龍神は湖水の波を蹴立て龍宮のなかへ飛び入る。」
月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積む心地して
巌金山(がんこんさん)宝厳寺(ほうごんじ)
ぽみえさんは去年夏に竹生島いったよと話がはずみました。
彼女はスピリチュアリストなので琵琶湖の湖中に青い龍を感じたと言ってました。
気脈が通じると湖の色がかわったそうです。
トップ画像はパナソニックの古いデジカメ撮影で、
アイフォンで撮影したものはクリックで拡大します
同じときに撮影してもレンズによって色が変わるから、
人間の目もフィルター次第で異なって当然ですね。
島の南側の龍神拝所を船からみると
現在修理工事中のため白い養生布で覆われていて、
四角い窓から「かわらけ(素焼きの小皿)投げ」でお願いごとができます。
2枚のかわらけに、1枚目に名前、2枚目に願いことを書きます。
鳥居向かって投げて、うまく鳥居の間を通過すれば聞き届けられるそうだ。
風が強かったにもかかわらず、1枚目無事通過。
しかし2枚目は風に流されてあさっての方向へ。
龍神さんは、名前はちゃんと聞いたけど、何の御用かわからんかったことでしょう。
かわらけ授与所の右側に、招福弁才天
(日本本五弁天/安芸の厳島・大和の天川・近江の竹生島・相模の江ノ島・陸前の黄金山のひとつ)
弁才天のお使いである白蛇を祀った白巳大神社がありました。
狛犬ならぬみ~さんの狛巳阿吽像はちょっと不気味です。
さらに進むと、黒龍を祀る神社
右側の太い木をつたい湖から龍神さんが昇ってこられたという言い伝えがあるそうです。
先の宝厳寺の記事でコメントしてくださった吉田一気さんは、
この黒龍さんに鳥居脇の瑞祥水を所望され、
もう少しで帰路の船に乗り遅れるところだったとのこと。
私も帰りの船を待つ間に、200ccほどためるのにずいぶん時間がかかりました。
DIVAさんからいただいたコメントには
都久夫須麻神社で奉納演奏をさせて頂いたことがあり、お陽さまのまわりに虹の輪ができて「日輪」になりました。
大自然に連動して、共演の方々のより良き思いや、奉納を観賞するお客様の心が合わさると、こんな現象が現れるのかなと、いまだにあの時の景色が鮮やかによみがえります。
都久夫須麻神社の社殿は写真撮影禁止と書かれてあったので1枚も画像残ってません。
竹生島の一連の記事、3回目にしてやっと気づいたことあります。
これまで、ちくぶじまと入力すると「築無事間」と表記されるので
竹島と書いてあいだに生きるを挿入するか、竹生島をコピペしてました。
いやさかの木さんへのコメント返しにも書きました。
最後の記事書くときにになって、やっと「ちくぶしま」と認識。
するとちゃんと竹生島と変換できるのでした。
竹生島は「ちくぶしま」で、島は「しま」と濁らない。
去年のNHK大河ドラマはお江は浅井家の三姉妹、
その浅井氏は、あさいではなくてあざいとよむそうだ。
地名としての浅井(あざい)は、この浅井家に由来するのかと思いがちだけれど、逆だった。
浅井という地域名は律令制の時代からあり、以前は浅井郡と言われた。
東西に分かれ東浅井郡と西浅井郡となり、西浅井郡は伊香郡に編入され西浅井町になりました。
この旧浅井郡の地域は竹生島信仰を支えた地域であるそうだ。
弁財天を新規に作造し、竹生島に奉納する行事
「竹生島の頭(とう)がさす」をつとめる頭人と言われる役は旧浅井郡から選ばれる
竹生島の都久夫須麻神社の祭神は
・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)(弁財天)
・宇賀福神(うがふくじん)
・浅井比売命(あざいひめのみこと)
・龍神(ちくぶしまりゅうじん)
浅井姫命は、戦国時代の浅井家よりも古くて、こちらが先です。
社伝では、雄略天皇3年(420年)に浅井姫命を祀る小祠が作られたのに始まると
古代から神域とされ5世紀頃にはすでに神社があったのです。
『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が
姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、
負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、
湖に落ちた首が竹生島になったという記述があるそうです。
民話でたどる滋賀の風景 / 竹生島の話
浅井姫命って誰って気になるところです。
雄略天皇時代に何があったんだろう?
西浅井町岩熊に、式内矢合神社があります。
昔、浅井姫命と気吹雄命が争った時、
気吹雄命が浅井岡を襲い、浅井姫命は当地まで退き、防矢を射たという。
むかしむかし、浅井地域とその東南の伊吹地域で争いがあった。
伊吹山は、息を吹く=ふいご=金属精錬=製鉄の関連を指摘されていて、
金糞は精錬クズという意味もあり
この地域に古代の製鉄跡やそれに因んだ地名もあるそうで、鉄を巡る争い?
浅井地域が負けて、その長またはその一族の姫君や女性も皆殺し。
征服者側が浅井地域を治めるため先の支配者を竹生島に祀った?
その後、水に縁の深い弁才天が祀られ、人々の篤い信仰を集めるようになっていきます。
この風光明媚な竹生島は、信仰心なくとも感じるものがあります。
能では、そんな竹生島と琵琶湖の醸すゆったりと穏やかな春の景色のなかで清々しい神の物語が展開されます。
「延喜帝(醍醐天皇)の臣下が、竹生島の弁才天の社に詣でようと、琵琶湖にやって来る。
臣下は湖畔で出会った老いた漁師と若い女の釣り舟に便乗し湖に浮かぶ竹生島を目指す。
湖春のうららかな景色を眺めるうちに竹生島へ着き、老人は臣下を社に案内。
連れの女も一緒に来たので、臣下は老人に、竹生島は女人禁制ではないのか、と問いかける。
するとふたりは、竹生島は女体の弁才天を祀り、女性をお隔てにならないと返し、島の由来を臣下に語り聞かせる。
その後女は自分は人間ではないと明かして社の御殿に入り、
老人は湖の主であると告げ、波間へ消えていった。
臣下が社人に宝物を見せてもらい時を過ごしていると、御殿が鳴動し光輝く弁才天が現れる。
壮麗な天女の姿で弁才天が夜の舞楽を奏するうちに、
やがて月が湖上に澄み輝く頃を迎え湖中より龍神が現れる。
龍神は金銀珠玉を臣下に捧げ祝福の姿をあらわす。
そしてある時は天女となって衆生の願いをかなえ、ある時は下界の龍神となって国土を鎮めるのだ、
と衆生済度の誓いを現した後、天女は社殿に入り、龍神は湖水の波を蹴立て龍宮のなかへ飛び入る。」
月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積む心地して
巌金山(がんこんさん)宝厳寺(ほうごんじ)
生物、化学、物理の他に地学があって、地質とかはわかるんですけど、天文分野が私の頭脳を超えてました。
高1の1年間その授業を受けたのですが、夏休みにカメラのシャッターを解放して天体の星の動きを撮影するという宿題ありました。
我が家は父親がカメラ好きでレベルの高い一眼レフみたいなのがありました。
三脚だっているし、どこのお家にもあるとは思えないけど、みんなどうしてたんだろう。
私私立ではなく公立高校ですからね。
今から思えば、この課題はアウトちゃうかな〜
第二次ベビーブームの頃のせいか受験等も激しい時代だったのか?受験で使える物しか学ばない高校だったんで世界史と日本史と地理しかやらなかった。
今大学受験でも学部よってではありますが、地学はセレクト出来ない事も多いし、受験に使う人が少ないから学校も予備校でも講座ないですよ。
という事は自力でやる教科になってますね。
いい先生に出会えたら好きになるような分野でしょうね。日本の教育って満遍なく出来る方に偏るんでしょうね。だから地形にも天体にも興味ないというか接点がない子が多いのでしょうね。それじゃあその先み期待出来ない。
もっともっと子供に興味あるような授業やる先生はいないのかな?常勤職員ではなくなりそうなので非常勤でもいいので楽しく学べるような先生と出会いたいですよ。探してみようと思います。
そう別件で、間宮林蔵さん出てきましたよ。伊能忠敬の関係ある地には2回ほど出会いました。
間宮さんの系統もササっぽいみたいですよ。不思議っdすね。
でもわからなくても空を見上げ、昼は雲、夜は月や星を眺めるのは好きです。
それだけに天文や暦強い人は文句なくリスペクト、気になります。
鴨と溝杭、血縁的にもずーっと昔にご縁があったのかもしれません。
濁音つながりで、守口に八雲という地名あるのですが、やぐもでは漢字出ません。
やくもと濁らないということに気づくまで長くかかりました。
耳から聞こえる音ではその違いに気づけなかったのでしたが、多くの人がそうかもよ。
なんか辿ってるヒントも貰えるんですね。
伊豆の葛城神社のあたりって初めてこの前行ったんですけど凄い地形でした。大仁ですね。
なんで葛城がそこにって思いますね。
それよりもみーさん二ついますね〜!
頭に入れておきます。
あともう一つなんだったかな?
そう別件で八重姫探ってます。源氏系で政子さんよりも何か知ってる方です。この前鎌倉も行ってきたんでなんか現世やらなくても進めてくれてそうな気がしますよ。頭痛もなくなりました。
けど昔のパズルのピースが揃って来てます。
で今日は山の日。お山の神の日は何もしちゃダメかな?
木は切っちゃダメみたいですよ。
浅井姫も切られちゃったのかな?
紹介ありがとうございます。三嶋と美保か三保って嶋と保の違いですよね。これって鴨とミゾクイ姫の方との違いかとも思いました。久保っていう名前の凄さを感じてまして穂と保の違いを感じています。火と水の違いくらい違うようにも、弥生と縄文の違いでもありそうで。
なので三嶋と書いちゃうと鴨になっちゃう。けど大事なのは三保の方の女系です。少しそれちゃってそうですね。
保科さんが北極星との話ありましたけど、保の方は相当地形の知識がありそうですね、星からの計算になるならば。北極星信仰といったら妙見とかですから東北もありですよ。島根鳥取のあたりも美保ありますけどあそこも溝杭系、神奈川も溝杭系、東北も多分、北極星の関係で暦が大昔からならさらに知識ありそうで。
鴨と溝杭とが連携(政略結婚というよりは子孫繁栄の為の提携)のどちらに比重を持つかで三嶋と三保との違いになるのかもしれませんよ。
まあ不思議に古墳の前に支えていた一族は今はひっそりしか見えない。困ったもんですね。どちらも水神でもあるのは確かです。日本の水神はナンバー1じゃないといけないとも思いますね。
地域で分断しちゃうと多分思う壺なので広く考えてみます。青森まで。9609
いろいろあったスマップ、いつロケしたのかなとかいらんこと考えてました。
葛城神社写ってたのは知りませんでした。
伊豆の三島って、大阪の茨木に三島鴨神社ありまして、数年前にフィールド調査行きました。
三島暦との記事残してます。
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/2d71d0bd3d767e3101cd950031594453
いつか伊豆も行こうと思ってました。
いよいよトランプ大統領の就任式。
選挙前のマスコミのトランプたたきはすごかったけど、今もその状況に似てますね。
東芝の驚愕の負債に私はもっと驚きおののいています。
婿貰ったのかなあ?
伊豆って父が好きだったんですが、天城山は私も縁があり行ったりして頼朝と八重姫の神社とか最近調べ始めたらですよテレビで香取くんと草薙くんが行ったロープウェイがありそこに神社があったのが葛城神社です。あの二人楽しそうでしたね。
八重姫の事で地図見ていたのがあわしまだったか湾に島があり三面大黒さんがいたような?その島の近くで猫さんと出会ったなあ。そこから家族でいった修善寺のあたりで大仁が超気になっていましてあの辺りは河や崖と山で天城山までたどったけどまさか葛城神社が頂上にあるとは分からずでした。びっくり。もう一方テレビでは新潟旅しているグループもいて気になりましたがさすがにじっと見ていれなかったですけど葛城神社をテレビ見ただけでも嬉しかったです。そして近江ですね。姫系が葛城なのはずっと妄想していますけどリンクしてきましたよ。みーさんは信貴山の上にも。なんかみんな繋がってきましたよ。
で問題は何か謎を孕む磐之姫ですね。仁徳さんはカモさん?
仁徳さんは始め好きなのですけど後は嫌いでして人格も二人くらいいるのでは?と思っています。
伊豆の大仁と仁徳さん関係ないのかなあ?とも。
伊豆と奈良大阪と近江やっぱりかなり古い時代のお付き合いがありそうですね。4.5世紀の空白が埋まってくると面白く繋がってくるのではないかと過去の記事もとても大事ですね。
今日はトランプさんの日、激動です。9053
であることを今年春知りました。
長年よつで検索してもわからなかったのにね。
記事エントリーするまでにフィールド調査しないと。
秋分の日までに行きたいと思ってますので、またご覧いただくとうれしいです。
芭蕉も又フィールドワークの折に心がけます。
仁徳皇后の磐之媛のお里、葛城高宮は、
秋に入り美しい季節を迎えますね。
よつのおだいっさん、聞いたことあるかも…。
検索すれば何でも出てくる時代だけれど、
うららさんリポートを楽しみにしていますね。
こんなにお話がはずんだのも、
ご縁を取り持って下さった、
いやさか様のお陰と感謝いたします。
葛城の姫君の血が脈々と流れているのでしょうね。
土蜘蛛、葛城、由来を見てると葛という漢字が気になります。
藤井寺の葛井寺、藤と葛。
葛藤という単語、なんか意味ありげだと思われませんか。
清盛も秀吉も神社仏閣にかかわりふかい歴史的人物ですね。
松尾芭蕉もまた違った面でかかわってるようです。
行く先々で松尾芭蕉の句碑にお目にかかります。
芭蕉が訪れて句を残しているということは、なんか芭蕉の琴線に触れる何かがあったんだと。
全然迷惑どころか、知らないこと教えていただいてなるほど~と次の興味へとつながります。
お時間ありましたときは、是非是非爆裂トークおまちしております。
お母様のの「高鴨神社からお嫁さんもらいはった」話。
興味深く読ませてもらいました。
天皇家、ひいては戦国大名さながらに、庶民下々に至るまで家柄保持のために心を砕いていたと話はあちこちにあるようです。
うちの実家でもそうしたエピソードを聞いて驚愕したことあります。
春から書こうと思っている内容で、河内長野の「よつのおだいっさん」があります。
次々興味あることが出てきていまだ取り掛かってないのですけど。
よつのおだいっさん、チラッとでも耳にされたことおありでしょうか。
いろんな運河計画あったのですね。
平面的な地図で見てると見逃してしまいがちなことたくさんありますね。
話は飛びますが、8月中旬の豪雨で店のわりと近くでも冠水があったようです。
近くの市民会館は地下に機械類が設置してあり、これらが浸水のため使用不可となりました。
なんとかつて淀川のまっただなかで、実際あちこちに凹凸のある地域で坂もあります。
秀吉が大阪城と京都を結ぶ京街道を整備した時の淀川堤防の道、文禄堤は京阪電車とあまり距離をあけない所で平行してます。
今は市役所がある国道1号線沿いも淀川だったなんて、
現在の建物の建ち並びをみてたら、とてもそんな川の中だったことは想像できません。
定期的に、大阪・奈良・京都のベタな三都物語を、声楽のお仕事で巡ります。先日も電車に揺られ、もと河内湖を車窓に眺めてきました。ビューポイントは、家々の光る屋根が海原で、高津宮の幻が岬の先に見えるかのよう。
上町台地、平城宮跡、京都駅ビル。人の流れに沿う三都移動は、エネルギーの交差点で神社やお寺にめったやたら行き当たります。京都へ「ハイ、ちょっとそこから…」と琵琶湖近辺の方達が気軽にやってきて、古代人のダイナミックな往来を実感です。
…うららさまのおっしゃった鴨神と一言主っさん、そして高天さん。奉祭するはカモと葛城、この二つは同氏族とも別とも言われます。
幼い頃から、夏のバカンスは母のお里の葛城…。なんとなく鴨神なんて地の果てのように感じていました。でもね、亡くなった母が言うに「里のだれやらさんが、高鴨神社からお嫁さんもらいはったんよ。」と。あ~!何処ぞの誰やらさんやったんか、もっとしっかり昔の話を聞いておくべきだった。…と後悔しても遅いのですが、婚姻や交流は古来より、氏族間では必至のようです。
調べれば調べるほど気が遠くなります。気絶しないうちに「ええい!オヨメさんもらいはってんて!!」とケリをつけ(ここがS高校でしょ)母から聞いた生身の言葉を、伝承・口伝としようと思います。
どちらの土蜘蛛塚も、勢力抗争に敗れた縄文人が封じ込められたのですね、きっと。時代の波に呑み込まれてしまったのだなあ。
高天さんへの昇り口の極楽寺のまん前は、ヒビキ遺跡。都夫良意富美の館が焼き討ちにあった古事記のシーンが出土、焼け焦げ跡が確認されました。橿考研でこの居館跡の特別展がありましたが、その時代の太古奈良盆地の湖がパネル展示されていました。
さて、大河ドラマ平清盛。
三都物語の日は、四天王寺を通り抜けます。ある日はここで、雅楽と舞にラッキーに遭遇。別の日は五重の塔に昇って遠くを見はるかす。文化と芸術の本物が、なにげに解放されています。
ドラマは、色鮮やかな色彩に変わり、舞楽や歌を詠む場面が、今はてんこ盛りです。厳島神社の舞楽は、清盛が、この四天王寺より伝えたのだとか。西洋音楽にあけくれ、あまりに日本の伝統文化に関心を持たなかった自身への反省とともに、目からウロコがポロリ状態で、芸術としてのTV画面に見入っています。
以上、エイヤっと送信しますが、もう、おとなしくしますね。高天の御祭神のひとつは、竹生島神社と同じ市杵嶋姫命だったんですね!
~頭に、M高校…その下にトグロ巻く畏敬の念をのせているDIVAより~
琵琶湖からの水路(海路)が敦賀まであったとしたら
驚愕の事実ですね。
余呉湖というのも初めて知りました。
これをきっかけに少し勉強してみたいと思います。
太古には琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていたという話もありますし
本州縦断の運河計画である「阪敦大運河計画」を彷彿させます。
http://homepage2.nifty.com/tsuruga/unga1.html
これによると平重盛の運河計画なんていうのもありますね。
2投目は鳥居の手前でカキ~ンと90度曲がり、右下の木々の中へ。
一気さんの興味深い説から類推して、ひょっとしたら木々の下から湖に落ちたとしたら
黒龍さんの元へ届いたでしょうか。
先に大津近辺の遺跡発掘の蛇の撒きついた土器のリンク貼ってくださってました。
そのつながりで琵琶湖の遺跡をなるほどと読みました。
神功皇后や応神天皇がどのようにして敦賀へいったのだろう
琵琶湖の北まで船で行ったとして、上陸して日本海まで陸路というのも納得いかんと以前より思ってました。
余呉湖のことで以下ページ見つけました。
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/archive/2012/04/26
石山寺や瀬田川、行った時も、この筆者と同様の疑問を持ちました。
きっとこの方の推理であってるのではないかと。
葛城の山々の西側の大阪平野で生まれ育ち、
子供の頃から、なんで古代は奈良が先にひらけたのか不思議でした。
年齢を重ねて、やっと河内湖の存在を知りました。
日本各地で想像以上に海岸線はずっと内陸部に入りこんでいたのでしょう。
川の流れを変えただけでもずいぶん風土は変化しますしね。
合併などで古い地名がどんどんなくなって行く前に、することいっぱいありますね。
土器を湖底に沈めるという祭祀が
なんと1万年も続いているという話があります。
真偽は分かりませんが葛籠尾崎湖底遺跡と呼ばれています。
遺跡ではあっても水深が深く地盤沈下とは考えられずに
そこに人が住んでいた訳ではないようです。
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2205/index.html
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/tsuzurakotei.html
きっと黒龍の姿を見た人が恐れて祭祀として
土器に食べ物を入れて湖に沈めたんだと思います。
どなたかなぁ~
ブログ投稿あまりに持ち上げてもらって恐縮です。
ただ単に仕事がちょっと人より早いだけですねん。
そのかわりに内容は雑だったりします。
子供時分も、いつも妹に添削とか修正してもらってました。
ところで先だって葛城のところで、まだ記事にしてないことあると書きました。
高天彦神社の参道手前の山中に土蜘蛛の墓があるのですが、行き着くまでに柵が作られ通行止めになってました。
その道は、もっと山すその一番最初の鳥居らしきところと繋がってる様子。
下から歩いた方が参道手前で行き止まりとなったというブログ発見しました。
この参道は、高鴨神社から高天彦神社へと繋がる葛城古道です。
これが途中で柵が設けられ通行止めとなっているのです。
うちらは歩いてないけど、なんとなくもう一度フィールド調査する必要あるなと感じたのでした。
葛城坐一言主神社の土蜘蛛塚といい、これら二社は葛城の有力な古社ですけど鴨神とは異なるのでしょうか。
なんかよくわからないけど、なんとなく違和感感じます。
阿遅志貴高日子根神、下照姫、いろいろわからないことだらけです。
うららさまは、パワフルに活動され、どこにブログ更新の余力が残ってるんだろうと思うのに、いつも新鮮な記事をアップされていて素晴らしい!!
S高校の私の頭には、あのおっちゃんの顔ではなく、M高校がずっしりとのっかってるんです。尊敬と畏敬の念とともにね!?人生を楽しんでいらっしゃるお姿に、心よりの拍手を・・・。
そしてうらやましいです。
今度近場で奉納演奏会あれば教えてくださいね。
ぜひとも同じ空間で波動とか感じてみたいです。
ご主人の弟さんがM高校だとすると同級?
いえいえたぶん一回り違うのではないでしょうか。
だって私は来年暦が新しくなりますから。
私は、楽器は自身の体…つまり声楽です。
専攻で日本歌曲やオペラのアリアを研究しました。アリアって、もともとの意味は空気。空間を震わせて「歌」が届くとでも申しましょうか。それを、強く感じたのが竹生島神社での歌唱で、青い空と青い水の空間にただ一人。音源が自身であることは、広い宇宙をさえ、感じさせてくれました。
夫や息子達はサイエンスの世界の人間で、神社大好きな私は、彼らの理系の思考の影響も受けました。虹の輪っかに「エレガントな宇宙」や「宇宙の理や秩序」といった、スマートな科学の感覚をも覚えました。
たまたま通り道の、先日お参りした神社は、摂社の阿遅志貴高日子根神と宇賀御魂命がお隣同士…。高鴨のアジスキをはじめとして、葛城は御存じのように出雲系神社の宝庫。出雲といえばみぃさんで、奈良盆地から山城、さらに近江へと続く古道に、古代を重ね合わせると「市杵島姫の頭にのっかってるおっちゃん」には、はっは~んと、わからないなりに実感が持てたような…地の人間の感覚です。
妹様は酉でしたか。ザンネン!そのかわり…といっちゃあなんですが、我夫は卯ですよ。そして、夫の弟が巳。共にM高校です。ここに集うとは不思議です。あ?!ワタシ?うららさまの嬉しい誤解のままに、ズ~っと若いと、しらばっくれておきましょう。いよいよ、来年は巳、年女になられますね。
お母様がおっしゃっていた戎町、堺のえべっさんで御多幸をお祈りしておきますね。ツクツクホーシも鳴き出して秋の気配も漂います。厳しき残暑、皆さま御身たいせつに。