秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

大和三山が見守ったわが国最初の都・藤原京

2015-01-05 | おでかけ・近畿
関西で生まれ育つと学校の遠足は奈良や京都へ出向くことが多い。
しかし当時はあまり興味もなかったので、行った!というだけ。
確か中1の秋の遠足で飛鳥を歩き、石舞台の上に乗った記憶があります。

やがて年を重ね歴史の知識も増えてくると、
藤原京ってどこにあったんだろう、
天の香具山に干した衣ってどんな風に見えたんだろう、
などなどフィールドワークしてみたくなりました。

ちょうどそれらの希望を満たしてくれるウォーキングツアーを昨秋見つけました。
毎年お参りする大神(おおみわ)神社に初詣してから、大和三山の全てに登るというコースです。
お弁当付いて5980円。
自分の車で行ったらもっと安いけど、3つの登山はどう考えても無理なので早速申し込みました。
いつものお連れはお正月松の内で皆出にくいため、初めてのドキドキひとり参加です。

朝7:20梅田集合。
観光バス1台、33名の参加でした。
西名阪の香芝で休憩後、天理で高速を降りて桜井市の大神神社へ。
まだ朝早いのにすでに駐車場満杯でエライ人出です。
1日2日が雪だったので初詣の人がこの4日に集中したらしいです。

自由参拝は一時間の余裕があり ちゃんと狭井神社のお水も賜ることができました。

参詣後またバスに乗車し耳成山のふもとの住宅地で下車。

10:40登山開始し降りてきたのは11:20
約3300歩ぐらい歩きました。

標高139mのお椀のようななだらかな小山をぐるっと周回するコースはなだらかで快適でした。


山頂でスタンプ押しました。
 ←クリックで拡大します
(新しいアウトドアデジカメからWiFiで画像取り込めるようになったもののサイズが小さくできなかったので)

三角点にデンして、少し降りた地点に耳無山山口神社。
下りは階段参道で降りたのであっという間。
登山口の鳥居右下の石柱に天神山と彫られてあり、天神社と呼ばれるみたい、です。




耳成山から住宅地などを約30分歩いて 藤原宮跡へ。


説明立て札の左側に木立が見え、その後ろに耳成山。


地図をお借りしたサイトは→こちら

振り返ると、最後に登る畝傍山が見えます。
 ←クリックで拡大します


そして発掘現場越しにこれから向かう天の香具山
 ←クリックで拡大します




藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。
持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。
新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都です。
藤原京時代には大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。

橿原市のサイトより引用


4 コメント

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Unknown (TM)
2015-01-06 21:50:05
日本古代史の舞台がつぎつぎと出てきますね。この地は古代のさまざまなドラマを見てきたんですね。

それにしても、古代日本の女帝はどなたも凄い実力者で、能力がありました。女帝たちが古代日本の国つくりに果たした役割は大きいと思います。
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TMさんへ (ulala)
2015-01-08 08:56:16
飛鳥白鳳時代って女性天皇のイメージありました。
コメント頂いてから、よくよく調べてみれば、藤原宮は694-710年平城京遷都までの16年間でした。
天武時代に着工し、実際は持統・文武・元正三代。
何故そんなに早く遷都したんだろうと思いますよね。
Wikipediaには、
問題点の一つは、南東が高く北西が低い地形は、汚物を含む東南部からの排水が宮の周辺を流れることであり、また、都を囲む城壁や正門が存在しなかった。

持統天皇って吉野で過ごされて回数多いので納得できました。
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訂正します (ulala)
2015-01-08 10:57:05
先のコメントお返事で
藤原宮では、
>実際には持統・文武・元正三代。
最後の元正は元明の間違いでした。
文武天皇の母が 第43代元明天皇
文武天皇の姉が第44代元正天皇

ややこしいですね。
時間たったらまた忘れそう
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ちょっと閃いた (りひと)
2017-09-05 08:35:35
奈良に行って地図とにらめっこ、例の髪の神社の辺りを。そして姉母の古墳もありましたね。あれがまたややこしい。ナラズヒコ神社から谷マタギの古墳になるのなら地形的にも太陽の動きも関係しそう。

で中心人物は文武天皇ですね。この方って新潟とか越か富山辺り縁ないのかなあと。
以前あちらの方で母と姉と嫁とが祭神にいる神社があったように思います。で、巫女的特徴を継承出来るのは母と姉であり、また本人の男性は娘生まないとあまり現れてこないはず。という事で文武天皇を挟むところの女帝がいる事でなんとなく文武さんではうまく行かなくて姉が繋いだ感じがするんですよね。

奈良で二人お古墳並べて調べた時ちょっとどちらかに違和感感じたんですよね。もしかしてどちらか嫁じゃないかなあ?で黒髪の方が姉でね。
本来巫女になれる姉と嫁も仲良いはずなのに黒髪さんはそういう風には思えずです。嫁も二人いて文武に後妻が入っているのかな?

文殊菩薩と忍性さんの般若寺、どうも新潟富山と接点ないか?気になりました。
文武天皇のお父さんも大事なはず、後妻さんは結構歴史では逆になっているパターンもあるのでこのお母さんがすでに後妻ってパターンもあるかも?ただ繋ぐには巫女的特性がないと無理なはず。
佐保川のあたり、少しずつ何か分かってきそうに思います。8328
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