質屋には記念コインや切手、小判などもよく持ち込まれます。
1964年の東京オリンピック銀貨など、コインショップへ持っていっても、
1200円ぐらいでしか買い取ってくれません。
平成天皇のご成婚記念100円銀貨なども、銀行でそのまま100円です。
お宝のような気分で引き出しに貯まっていた昭和時代の銀貨や切手、
テレフォンカード、以前すべて売りに行きましたが、がっかりしました。
今回持ち込まれたのは、江戸時代の天保小判です。
昭和30年(1955年)大丸大阪店貴金属売場で購入された鑑定書付でした。
まず日本貨幣カタログで調べます。
ネットでみたら20万円前後で取引されているようです。
大吉というものは100万円を超えてたりします。
微妙に種類があって、どこが違うのかさっぱり??
はていくらで買い取ったらいいものか悩みますわ。
マニアで流通するお値段は別として、
めちゃくちゃ興味深いことがわかりました。
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幕末の1859-60年の一年間で、米英の商人により日本から海外に流失した小判は約50万両と言われています。
1858年日米修好通商条約を締結後、
1859年6月横浜・長崎・函館の三港が開港すると、野心に燃えた外国人が来日し貿易が始まった。
アメリカのある青年が大商人の父から1万枚の洋銀を借り、生糸やお茶を輸入し
日米間の貿易を行うため、洋銀を日本の通貨と換えることにした。
当時の公定レートは「天保一分銀3枚=洋銀1枚」
1000枚分の洋銀を天保一分銀3000枚と交換しようとすると、
両替商は天保一分銀の持ち合わせがなかったので、「4分=1両」の割合で天保小判750枚(750両)と交換したいと申し出た。
アメリカ青年は喜びをかみ殺し冷静に取引を続け天保小判を持ち帰った。
日本では銀と金の交換比率が5対1、世界標準の銀と金の交換比率は15対1。
なんと3倍も異なる比率だった。
秘密裏に全洋銀を7500枚の天保小判に換え、
上海に行きイギリス商人と交渉し小判を2万7000枚の洋銀と交換。
横浜に戻り、またも両替に走り回り再び上海へ。
四度目に横浜へ来たときは、洋銀は15万枚に膨らんだ。
やがて日本人が天保小判の価値に気づいたころ、
彼は黄金の国ジパングから戦利品の10万両の天保小判を祖国アメリカへ持ち帰った。
天保小判の金の含有量は、品位は57%、6.4gもの黄金が小判には含まれていた。
1860年(安政7年)2月、幕府は「直増通用令」を公布し、天保小判の対銀レートが3倍に引き上げ、
さらに同年(万延元年)4月、金の含有量が3分の1に減らされた万延小判が発行された。
やっと日本の金銀交換比率が、国際標準に一致した。