色川氏の自分史の一冊。『昭和へのレクイエム』へと続く戦後編の第一冊目だ。
『昭和へのレクイエム』はおもしろかった。だがこの本はいけない。なぜか、筆が走っている。色川氏は、若い時代を振り返りながら、筆も若い時代に戻っているようだ。
まず自分のことを「谷一郎」とし、客観的に自分自身を見ようとしているのだろうが、しかしこれが成功していない。『昭和へのレクイエム』のほうが、まだ客観的な叙述になっている。
ここには、色川氏の1945年から48年までの個性ある歴史的体験が書かれているのだが、内容は主情的だ。色川氏は若いときから日記を書いているようで、それをもとにしているようなのだが、若い頃の血気盛んな主情的な日記に引っ張られてしまっている。
やはり「谷」ではなく、色川大吉が主語になるべきだ。読者は、歴史家であり行動の人であり、組織者である色川大吉の生きてきた軌跡を知りたいのだ。同時に、色川氏の歴史研究を生み出したさまざまな条件、たとえばいろいろな研究者との出会い、本との出会い、影響を受けた政治社会状況など・・・こういうものが知りたいのだ。
昨日図書館から借りたが、あまりおもしろくないので斜め読み。今日返却するつもりである。(1月20日 記)
【追記】この本は、『カチューシャの青春』へと続く。図書館でみたら、同じように「谷一郎」が登場していたので借りるのはやめ、『若者が主役だったころ』(岩波書店)を借りた。内容は1960年代を対象としている。これが1970年代を対象とした『昭和へのレクイエム』へと続く。
さて『若者が・・・』を読み始めたら、『廃墟に立つ』について言及があった。色川は、「主観的であり、感傷的であり、苦いことばにみちてい」た日記や草稿などをもとにしてこれを書いたのだが、「あまりにも痛切な記録すぎて、「私」という第一人称で書くに耐えなかった」ので、「谷一郎」に託したのだそうだ。「一般読者にとっては事実なのか虚構なのかが判明せず、違和感をおこさせた。結果は歴史書として不評におわった」と記されてる。
その通りである。色川の本は、ぐいぐいと読ませるのだが、これだけは読んでいて辟易した。失敗作だと思う。(1月21日 記)
『昭和へのレクイエム』はおもしろかった。だがこの本はいけない。なぜか、筆が走っている。色川氏は、若い時代を振り返りながら、筆も若い時代に戻っているようだ。
まず自分のことを「谷一郎」とし、客観的に自分自身を見ようとしているのだろうが、しかしこれが成功していない。『昭和へのレクイエム』のほうが、まだ客観的な叙述になっている。
ここには、色川氏の1945年から48年までの個性ある歴史的体験が書かれているのだが、内容は主情的だ。色川氏は若いときから日記を書いているようで、それをもとにしているようなのだが、若い頃の血気盛んな主情的な日記に引っ張られてしまっている。
やはり「谷」ではなく、色川大吉が主語になるべきだ。読者は、歴史家であり行動の人であり、組織者である色川大吉の生きてきた軌跡を知りたいのだ。同時に、色川氏の歴史研究を生み出したさまざまな条件、たとえばいろいろな研究者との出会い、本との出会い、影響を受けた政治社会状況など・・・こういうものが知りたいのだ。
昨日図書館から借りたが、あまりおもしろくないので斜め読み。今日返却するつもりである。(1月20日 記)
【追記】この本は、『カチューシャの青春』へと続く。図書館でみたら、同じように「谷一郎」が登場していたので借りるのはやめ、『若者が主役だったころ』(岩波書店)を借りた。内容は1960年代を対象としている。これが1970年代を対象とした『昭和へのレクイエム』へと続く。
さて『若者が・・・』を読み始めたら、『廃墟に立つ』について言及があった。色川は、「主観的であり、感傷的であり、苦いことばにみちてい」た日記や草稿などをもとにしてこれを書いたのだが、「あまりにも痛切な記録すぎて、「私」という第一人称で書くに耐えなかった」ので、「谷一郎」に託したのだそうだ。「一般読者にとっては事実なのか虚構なのかが判明せず、違和感をおこさせた。結果は歴史書として不評におわった」と記されてる。
その通りである。色川の本は、ぐいぐいと読ませるのだが、これだけは読んでいて辟易した。失敗作だと思う。(1月21日 記)