色川氏の自伝的な作品を読み続けている。これは1960年代を記したもの。
とてもおもしろい。ただし、氏の子どもについて書かれたところは読み飛ばしたが。
氏は大学卒業後すぐに研究者の道に入ったのはない。片田舎の教員をしたり、失業者になったり、演劇の世界に入ったり、さまざまな生き方をした後に研究者になった。氏の研究には、そのような体験が十二分に生かされていると思う。
氏の研究は多岐にわたるが、何といっても三多摩地方の自由民権運動の地下水をくみ上げ、それを普遍化したことにある。その経緯を私は何度も読んだり聞いたりしているが、もっとも感動するところである。この本にも、須長漣造文書発見の経緯などが紹介されているが、歴史の中に埋もれた史実がもう一度生気を取り戻すこと、それこそが歴史研究の醍醐味であることがよくわかる。
そして60年の安保闘争との関わり、『近代国家の出発』(中公文庫)、『新編明治精神史』(中央公論社)などの執筆にまつわることなどが記される。
私は氏の著作をたくさん読んでいるが、氏の文章の背後に強いパトスをいつも感じる。そのパトスは氏の生き方から湧出するものであろう。
またこの本には、海外旅行記が記されている。氏の旅行記は、とても知的で、新鮮で興味深い。氏の『ユーラシア大陸思索行』は、感動して読んだものだ。私の海外旅行への意欲は、この本が発端だといってもよい。
氏の自伝をいくつか読みながら、以下のことを考えた。
時代閉塞の現在、もう一度自由民権運動の地下水をくみ上げることの必要性である。さらにいえば維新以降の日本の近代をもう一度捉え直すことが必要だということだ。現在を過去との対話から明らかにし、未来を遠望する、そうした作業はこつこつとなされなければならない。
そしてもう一つ。氏は『近代国家の出発』を執筆するとき、服部之総からもっと学んでおけばよかったと書いている。『歴史評論』の最新号(2月号)に木村茂光氏が、「現代歴史学が提唱されることによって、戦後歴史学が引き継いだ経験や担ってきた役割が過小評価されたり無視されたりすることは絶対あってはならない」(「戦後歴史学の「現場」に立つ」)と書いているが、戦後歴史学の蓄積は決して無視されてはならないということだ。
そこには、歴史研究を自己完結的なものにするのではなく、生きている現実からいろいろ学びながら、また現実と自らも関わりながら、そこから清新な問題意識を醸成して研究するという、きわめてまっとうな姿勢が込められている。
私も、色川氏の本を読みながら、書庫に眠っている「戦後歴史学」の本を読み直そうかと思っている。まず『服部之総著作集』から。
本を読むと、その本から次に読むべき本を教えられ、それが続いていくと、新しい考えが湧き上がるということがある。そういう体験をしてほしいと思う。
とてもおもしろい。ただし、氏の子どもについて書かれたところは読み飛ばしたが。
氏は大学卒業後すぐに研究者の道に入ったのはない。片田舎の教員をしたり、失業者になったり、演劇の世界に入ったり、さまざまな生き方をした後に研究者になった。氏の研究には、そのような体験が十二分に生かされていると思う。
氏の研究は多岐にわたるが、何といっても三多摩地方の自由民権運動の地下水をくみ上げ、それを普遍化したことにある。その経緯を私は何度も読んだり聞いたりしているが、もっとも感動するところである。この本にも、須長漣造文書発見の経緯などが紹介されているが、歴史の中に埋もれた史実がもう一度生気を取り戻すこと、それこそが歴史研究の醍醐味であることがよくわかる。
そして60年の安保闘争との関わり、『近代国家の出発』(中公文庫)、『新編明治精神史』(中央公論社)などの執筆にまつわることなどが記される。
私は氏の著作をたくさん読んでいるが、氏の文章の背後に強いパトスをいつも感じる。そのパトスは氏の生き方から湧出するものであろう。
またこの本には、海外旅行記が記されている。氏の旅行記は、とても知的で、新鮮で興味深い。氏の『ユーラシア大陸思索行』は、感動して読んだものだ。私の海外旅行への意欲は、この本が発端だといってもよい。
氏の自伝をいくつか読みながら、以下のことを考えた。
時代閉塞の現在、もう一度自由民権運動の地下水をくみ上げることの必要性である。さらにいえば維新以降の日本の近代をもう一度捉え直すことが必要だということだ。現在を過去との対話から明らかにし、未来を遠望する、そうした作業はこつこつとなされなければならない。
そしてもう一つ。氏は『近代国家の出発』を執筆するとき、服部之総からもっと学んでおけばよかったと書いている。『歴史評論』の最新号(2月号)に木村茂光氏が、「現代歴史学が提唱されることによって、戦後歴史学が引き継いだ経験や担ってきた役割が過小評価されたり無視されたりすることは絶対あってはならない」(「戦後歴史学の「現場」に立つ」)と書いているが、戦後歴史学の蓄積は決して無視されてはならないということだ。
そこには、歴史研究を自己完結的なものにするのではなく、生きている現実からいろいろ学びながら、また現実と自らも関わりながら、そこから清新な問題意識を醸成して研究するという、きわめてまっとうな姿勢が込められている。
私も、色川氏の本を読みながら、書庫に眠っている「戦後歴史学」の本を読み直そうかと思っている。まず『服部之総著作集』から。
本を読むと、その本から次に読むべき本を教えられ、それが続いていくと、新しい考えが湧き上がるということがある。そういう体験をしてほしいと思う。