浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

原発問題の本

2012-02-29 22:58:43 | 日記
 『現代思想』3月号(青土社)の特集は、「大震災は終わらない」である。今日届いた。

 一つの文しか読んでいないが、それがよい。川村湊の「曝書閑記録―「原発震災」関係書を読む」がそれである。

 川村は、ひたすら原発事故関係の本を読み、簡単ではあるが、それぞれに的確なコメントを付す。ボクが読んでいないものもあって、今後読むべき本として購入を考えている。

 なかでも中沢新一に対する批評は鋭い。中沢は、何を書くにも宗教的な言説を入れ込むことによって、一種煙に巻きながら、なにやら新しいことをいっているような錯覚を与える文を書く。それに対して、川村は「現実の問題は現実社会のなかで、神の問題は神の世界で解決せねばならないのだ」と一言で片付ける。それでよいのだ。中沢を相手にする必要はない。

 川村は、原発推進派の本も読んでいる。その結論。

 彼ら(原子力村の御用学者たち)の辞書には、「反省」とか「責任」といった言葉はない。国が国策として決めた原発を、国が決めた通りに運転してきた自分たちに瑕疵は一切ない。想定外の大きさの津波や地震だって、国が決めた基準通りにやってきた自分たちにとって不可抗力である。
 すべては自分以外のもの、国や国策という目に見えないものとして、恬として恥じないところは、むしろ驚嘆に値する。ここまでの破廉恥、無責任、責任転嫁は、お見事といわざるをえない。


 ここには、多くの本の紹介がある。今生きる私たちにとって、原発の問題を考えることは必須である。その際に、参考にして欲しい。

 なお、『現代思想』は、私が毎月購読している雑誌のひとつである。
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映画 “ミラル”

2012-02-29 16:54:25 | 日記
 アメリカの映画は、観た後に何も残らないものが多い。ボクは昔からヨーロッパ映画が好きだった。ヨーロッパ映画は、観た後に様々な感慨を喚起するからだ。

 そういう映画を上映しているのが、浜松のシネマ・イーラだ。トーホ-シネマズは、あまり上映しない。

 今日は“ミラル”という映画を観た。この映画、3月2日まで。たった一週間だけの上映だ。いってみて、確かに観客は少なかった。5~6人というところか。他人事ながら、これで経営は大丈夫かと心配してしまう。

 映画の文化も、人々の支えがないと消えてしまう。シネマ・イーラで上映するような作品を観る人が増えることが必要だと思う。

 さて“ミルラ”であるが、これはジャーナリストで作家のルーラ・ジブリールの自伝的な作品で、本人が火薬本を書いたそうだ。

 パレスチナ人であるルーラは、当然ではあるが、中東の戦争のなかで、様々な体験をする。イスラエルという国家が、そこに住んでいた人々を追い出し、殺戮し、奪うなど、まさに1930年代から40年代にかけて、ナチスドイツが行ったようなことを、パレスチナ人に対して行った。

 ルーラ、すなわちこの作品でのミラルのストーリーは、下記でみて欲しい。

http://www.miral.jp/

 この作品は、ミラルの生きた時代がどういう時代かを背景にしながら(当然、イスラエルの蛮行は映る)、ミラルとその母、そしてミラルを育てた父、さらにイスラエルの蛮行により親を亡くした子どもたちに教育を与えていた一人の女性を中心としながら、一言で言えばパンフレットにあった「愛」を描いたものといえるだろう。

 ミラルが、イスラエルの蛮行に憤怒し、反イスラエル勢力のグループとつながるなかで、彼女は逮捕される。そして拷問。その後、保養のため親戚の家に逗留しているとき、いとこがユダヤ人の女性とつきあっていた。その交際は、まわりはそれをよく思っていないが、当人同士はそれを気にせずにつきあっている。そこには、国籍や民族を問わずに生きていけるような関係が描かれていた。「希望」は、おそらくこういう関係の中で生まれてくるのだろう。

 パレスチナ問題は、最近報道されないが、アメリカを巻き込んで世界の平和を脅かす存在である。パレスチナ問題に目を向けるためにも、この映画はみてほしい。

 ただ映画としては、そんなに完成度が高いとは思わなかったが。




 
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