浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

日常への回帰

2013-05-22 22:36:26 | 日記
 先週はとても忙しく、慌ただしい日々を過ごしていた。また病気療養中の友人の容態もあまりよくなく、毎日見舞いに行く状況にある。

 しかしそれ以外は、ほぼ今までの「晴耕雨読」という日常に戻った。

 6月は、10回の歴史講座が始まり、22日、29日(午前と午後)は静岡などでの講演がある。そして7月には研究会での発表がある。その準備、とくに研究発表のための読書が佳境を迎えている。

 講演については、すべてテーマが異なり、その準備がたいへんである。しかしよほどのことがない限り、ボクは引き受ける、なぜかというと、学び、整理して、話す、という行為を行う中で、ボク自身の認識が深まっていくからだ。

 そのためには、膨大な資料を読み込む。講演当日は、そのテーマに関する知識で頭はいっぱいの状態。その状態を前提にして、その一部を話す。「入力」量のほぼ1割を「出力」する。

 以前、姜尚中さんに講演を依頼したことがあった。その講演で姜さんは、高度に知的な話をされた。講演のあとで参会者に講演内容について尋ねたら、異口同音に素晴らしかったと答えた。姜さんの知的な話が、参会者に知的な興奮を喚起したようなのだ。

 それ以降、ボクはわかりやすい話しというより、知的な興奮を感じてもらうような話をするように心がけるようになった。もちろん、そのほうが事前の準備はたいへんである。
 
 どういう切り口で問題をとりあげるか、どういう話題を並べるか、どういう結論を提示するか。そのなかでもっとも重要なのが「切り口」である。いかなる問題意識でそのテーマをとりあげるのか、が「切り口」ということになる。文を書く場合もそうだが、最初の出だしが決まるとだいたいの内容が決まってくる。だから本を読みながら、車を運転しながら、あるいは空を見ながら・・・いろいろなときに、それを想起する。そうするとあるとき、ひらめくのである。そのひらめきが契機となって、そのあとの内容が決まっていく。

 しかし家の中で活字ばかりを追っていても、ひらめきは浮かばない。太陽の光の下、畑仕事をして汗を流す。それは気分転換でもあり、ある種の運動ともなる。今日はなんと3時間以上畑で働いた。


 10回の歴史講座には、遠州鉱害の問題も取り扱う。旧佐久間町にあった久根銅山も、足尾銅山と同様の古河鉱業の経営である。それをめぐって、田中正造も静岡の鉱害事件などに関心を持っていた。このブログで紹介した写真をもとに、同時に久根鉱山に赴いて、現在の久根の写真を撮ってこようと思っている。

 地域の歴史を、その地域だけの歴史にとどめてはならない。ボクはそういう視点で、歴史講座をやっていこうと思うが、これまた準備がたいへんである。しかし準備がたいへんであるからこそ、やりがいもあるのである。

コメント
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