もうかなり前に出た本だ。奥付には2001年とある。もう出版されて12年も経つ。にもかかわらず、この下巻を読んでいなかった。
戦後、占領期の歴史を様々な資料を駆使して俯瞰する、というのが本書の内容であるが、下巻はまず「天皇制民主主義」の問題。つまり戦後の象徴天皇制は日本の支配層とマッカーサー(米国)との合作であったことを証明していく。
この本(下巻)でボクが最初に線を引いたところは、
国家の最高位にある政治的・精神的指導者がつい最近の事態になんの責任も負わないのなら、どうして普通の臣民たちが我が身を省みることを期待できるだろう。
である(4頁)。もちろんその指導者とは昭和天皇であるが、占領軍の強引な力で、天皇の戦争責任を不問にしたのである。その動きが詳細に論じられているのが、第四部である。
昭和天皇は、戦後全国を「巡幸」するのだが(明治初期にも明治天皇が「巡幸」しているが、それは天皇制を周知させようという目論見の下に実行された。この頃の人々に新しい支配者を人々に知らせなければならなかったのだ)、その際「天皇はどこへいっても、儀仗兵のように先導する米軍の憲兵隊や兵士によって護られていた」(93頁)。
また第四部には、新憲法の制定について、占領軍内部の動きや、日本の支配層の抵抗や欺瞞、天皇の意向などが記されているが、古関彰一さんの『新憲法の誕生』(岩波現代文庫)と重なる部分がある。
興味をそそられたのは、占領下の検閲のことである。第14章「新たなデータを取り締まる」の末尾で、ドーアはこう記している。
(占領改革を「上からの革命」とした上で、そ「のひとつの遺産は、権力を受容するという社会的態度を生きのびさせたことだったといえるだろう。すなわち、政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、ふつうの人にはことの成り行きを左右することなどできないのだという意識の強化である。・・・きわめて重要なたくさんの問題について、沈黙と大勢順応こそが望ましい政治的知恵だとはっきり示した。それがあまりにもうまくいったために、アメリカ人が去り、時が過ぎてから、そのアメリカ人を含む多くの外国人が、これをきわめて日本的な態度とみなすようになったのである。
この指摘は、そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。難しい問題だ。しかし「沈黙と大勢順応」は、日本人の心性として存在はしているが、日本だけの特性なのか、疑問に思う。
第15章は、東京裁判の問題。天皇を訴追しなかったり、関東軍731部隊の戦争犯罪を追及しなかったり、この裁判には問題が多い。このなかでドーアは、安倍晋三の祖父である岸信介をこう記している。
岸は明敏かつ悪辣な官僚で、傀儡国家満洲国で経済界の帝王として君臨し、何千、何万という中国人を強制労働させ、奴隷のようにこき使った
まさに彼は中国人強制連行の最大の責任者であった。
また興味深いエピソードも。天皇を戦犯として訴追することを断固として拒否したキーナン主席検事は、天皇から皇居に招かれ昼食をとったという。助けた者と助けられた者ということであろうか。
そして戦犯とされた東条らは、「最後まで天皇の盾」として振る舞い、そして処刑された。ただし東条は「自分にとっても、ほかのすべての臣民にとっても、天皇の意向に反する行動など考えられない」と語り、キーナンによってその発言が取り消された。
なおこの裁判の記述は、粟屋憲太郎の研究によっている。ボクは彼の本を持っているのだが、読んでいないということである。
そして「エピローグ」。
「独立国というのは名目だけであり、ほかのすべてにおいて、日本は合衆国の保護国であった」(408頁)
そして422頁には、「占領軍は、到着した瞬間から日本の官僚組織を保護した」とあり、日本の官僚組織が現在もアメリカの意向を最大限尊重している淵源がここにあるということだ。
上下巻とも、読むべき本である。ただし、大部なので、時間があるときに読んだ方がいい。
戦後、占領期の歴史を様々な資料を駆使して俯瞰する、というのが本書の内容であるが、下巻はまず「天皇制民主主義」の問題。つまり戦後の象徴天皇制は日本の支配層とマッカーサー(米国)との合作であったことを証明していく。
この本(下巻)でボクが最初に線を引いたところは、
国家の最高位にある政治的・精神的指導者がつい最近の事態になんの責任も負わないのなら、どうして普通の臣民たちが我が身を省みることを期待できるだろう。
である(4頁)。もちろんその指導者とは昭和天皇であるが、占領軍の強引な力で、天皇の戦争責任を不問にしたのである。その動きが詳細に論じられているのが、第四部である。
昭和天皇は、戦後全国を「巡幸」するのだが(明治初期にも明治天皇が「巡幸」しているが、それは天皇制を周知させようという目論見の下に実行された。この頃の人々に新しい支配者を人々に知らせなければならなかったのだ)、その際「天皇はどこへいっても、儀仗兵のように先導する米軍の憲兵隊や兵士によって護られていた」(93頁)。
また第四部には、新憲法の制定について、占領軍内部の動きや、日本の支配層の抵抗や欺瞞、天皇の意向などが記されているが、古関彰一さんの『新憲法の誕生』(岩波現代文庫)と重なる部分がある。
興味をそそられたのは、占領下の検閲のことである。第14章「新たなデータを取り締まる」の末尾で、ドーアはこう記している。
(占領改革を「上からの革命」とした上で、そ「のひとつの遺産は、権力を受容するという社会的態度を生きのびさせたことだったといえるだろう。すなわち、政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、ふつうの人にはことの成り行きを左右することなどできないのだという意識の強化である。・・・きわめて重要なたくさんの問題について、沈黙と大勢順応こそが望ましい政治的知恵だとはっきり示した。それがあまりにもうまくいったために、アメリカ人が去り、時が過ぎてから、そのアメリカ人を含む多くの外国人が、これをきわめて日本的な態度とみなすようになったのである。
この指摘は、そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。難しい問題だ。しかし「沈黙と大勢順応」は、日本人の心性として存在はしているが、日本だけの特性なのか、疑問に思う。
第15章は、東京裁判の問題。天皇を訴追しなかったり、関東軍731部隊の戦争犯罪を追及しなかったり、この裁判には問題が多い。このなかでドーアは、安倍晋三の祖父である岸信介をこう記している。
岸は明敏かつ悪辣な官僚で、傀儡国家満洲国で経済界の帝王として君臨し、何千、何万という中国人を強制労働させ、奴隷のようにこき使った
まさに彼は中国人強制連行の最大の責任者であった。
また興味深いエピソードも。天皇を戦犯として訴追することを断固として拒否したキーナン主席検事は、天皇から皇居に招かれ昼食をとったという。助けた者と助けられた者ということであろうか。
そして戦犯とされた東条らは、「最後まで天皇の盾」として振る舞い、そして処刑された。ただし東条は「自分にとっても、ほかのすべての臣民にとっても、天皇の意向に反する行動など考えられない」と語り、キーナンによってその発言が取り消された。
なおこの裁判の記述は、粟屋憲太郎の研究によっている。ボクは彼の本を持っているのだが、読んでいないということである。
そして「エピローグ」。
「独立国というのは名目だけであり、ほかのすべてにおいて、日本は合衆国の保護国であった」(408頁)
そして422頁には、「占領軍は、到着した瞬間から日本の官僚組織を保護した」とあり、日本の官僚組織が現在もアメリカの意向を最大限尊重している淵源がここにあるということだ。
上下巻とも、読むべき本である。ただし、大部なので、時間があるときに読んだ方がいい。