浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】星亮一『会津落城』(中公新書)

2013-07-14 07:27:40 | 日記
 NHKテレビの日曜大河ドラマは、幕末の会津を舞台にしたものをやっている。といってもボクはこれを見ているわけではない。テレビは、とにかくほとんど見ないから。

 いつだったか、東部からの帰途、車でNHK総合テレビにチャンネルをあわせたら、ちょうど会津戦争の場面だった。といっても画像は見えず、ただ音声を聞いていただけだ。

 ボクは、今でも、薩摩長州の田舎侍でありテロリストであった者どもが建設したから、日本の近代国家は悪くなった考えている。だから、それに最後まで戦った会津には親近感を抱いていた。とはいえ、会津戦争に関して何らかの文献を読んだことはなかった。

 そんなとき、町田の住人からこの本を教えてもらった。早速読んでみた。なるほど会津は負けるわけだ。高校の教科書にもでてくる松平容保がまずリーダーとして失格であったこと、会津の藩政が住民の支持を得られるようなものではなかったこと、会津藩士に軍事的に有能なリーダーが少なかったこと、そして薩摩長州だけではなく、多数の藩が会津を討つために参集したこと、これらが原因となって敗退した。

 幕末の、鳥羽伏見の戦い以後、多くの藩が幕府の形勢不利と見るやすぐに官軍(薩長)に白旗を掲げたことは、かえすがえすも日本人の変わり身の早さを感じざるを得ない。大義や義理を大切にするという「武士道」なるものをかなぐり捨て(だから武士の「武士道」なんて嘘っぱち!)、我が身可愛さを最優先する諸藩。

 しかしそれにしても、薩長は悪い奴らだ。この本は、会津戦争の顛末を一応書いてはいるのだが、ボクはやはり薩長・官軍の卑劣さを感じる。

 とくに死者の埋葬についてである。

 薩長の官軍は、「犯罪者という理由で、会津藩兵の遺体の埋葬を禁じた。このためあちこちに放置された遺体は狐や狸、野犬に食いちぎられ、鳶や烏につつかれ、腐乱が進み、一部は白骨化し、城下とその周辺は、死臭ただよう地獄と化し、人々は鼻をふさいで歩いた」(188)という。

 日本の伝統は、敵味方なく、合戦の遺体は埋葬するというものであったが、官軍はそうではなかった。すでに亡くなったのだから、つまりは仏であるのに、亡くなっても敵は敵として扱うという、何という冷酷な者どもよ。靖国神社もその冷酷さの延長線上につくられたものだ。

 その冷酷な者どもは、こういうこともしている。

 薩長軍の掠奪暴行である。城下町には戦闘中から市場が立ち、江戸から商人が入り、掠奪品を買いあさっていた。このことは天守閣からも遠望され、籠城兵は歯ぎしりして見つめた。また婦女子が捕らわれ、性の対象として扱われ、監禁同様の暮らしを強いられていた。・・・略奪や婦女子への暴行、拉致、監禁は各藩が競って行い、抵抗した婦女子を全裸にして殺し、樹木に吊り上げた例もあった。(182頁)

 まさに日本軍の原型が、ここにはある。

 近代日本は、侵略と植民地支配を不可欠の要素として出発しているから、この会津戦争を詳しく見ることにより、薩長によって建設された近代日本国家の「悪」を初発から捉えることができるのではないかと思う。

 関連文献をさらに読みすすもうと思う。


 
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まともな批判がされているか

2013-07-14 06:21:10 | 日記
 さて、ボクはかなり前から購読紙を『中日新聞』にしていて、知人にも『東京新聞』、『中日新聞』に変えたら・・などと語っていた。

 実際、全国紙や、ここで購読できる県紙『静岡新聞』と比較して、相対的に内容が良質である。

 そうした内容を支えているのが第一線で活躍している記者諸君であり、彼らが、ジャーナリズムの本質である「権力に対する監視」を担おうとしているからだ。そういう意識こそが、メディアで働く人々の原動力でなければならない。

 しかるに、新聞はじめメディア各社の幹部が、安倍首相と夕食を共にしているということが、最近話題になっていた。

 ジャーナリズムの本質が「権力に対する監視」であるとするなら、最高権力の保持者である首相に対しては、きちんと一線を引くのは当たり前のことだ。

 ただでさえ、マスメディアの中堅幹部が、政府の審議会の委員となって、政府の政策推進の片棒を担いでいる(審議会の答申は、最終的には官僚が書き、政府の政策にお墨付きを与える機能を果たしている)姿が見られているのにもかかわらず、今度は会社幹部が首相と夕食を共にしたというのだ。

 当然、メディアの労働組合は、会社幹部のありかたを批判すべきである。さすがに『東京新聞』は、明確に批判している。

 その記事を紹介する。なお、『東京新聞』は『中日新聞』の東京版ではあるが、労働組合は異なる。「東京新聞労組」は、しっかり活動している。

http://www.kenpou-media.jp/modules/bulletin2/index.php?page=article&storyid=29
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岐路

2013-07-14 06:06:36 | 日記
 『中日新聞(東京新聞)』は、今回の参議院議員選挙に関しての社説について「岐路」ということばを使用している。まさしく今回の選挙は「岐路」と言えるだろう。

 だがしかし、国民にはそれが見えていない。残念ながら、「岐路」であったかどうかは過去にならないと、大方の人には理解されない。人々は、こういう政策が展開されていくとこうなっていく、という予想を考える暇はなく、その日その日を生きている。

 だいたいは、政府がマスメディアを通して伝えてくる情報にもとづき、政府の意向を支持する方向に流されていく。

 もし自民党、公明党が選挙で勝利したら、下に掲げた雇用制度が導入され、働く人々の生活は、安定ではなく不安定へとさらになっていくだろう。何といっても安倍政権は、世界一企業が金儲けをしやすい国にすると言明しているからだ。

 働く人々のことなんか、これっぽちも考えてはいない。

 ボクは社会現象というのは、自然現象とは異なり、きわめて人為的だといつも言っている。なぜ格差社会がかくも激しくなってきたかといえば、その理由のひとつは製造業にまで派遣労働を可能にしたからだ。自民党・公明党政権であった小泉政権が行ったことだ。秋葉原での殺傷事件は、そうした不安定な労働者が起こしたことを思い起こしてもらいたい。

 「岐路」であること、今回の選挙での、国民の責任はきわめて重大だ。

<2013岐路>雇用政策 流動化よりも安定だ

2013年7月13日

 安定雇用か、労働移動しやすい働き方か。「雇用流動化」の是非も争点の一つだ。働き手からすれば「流動化イコール不安定化」では生活の安定は望めない。


 雇用の現状は、雇用保障が手厚い正社員と、不安定雇用・低賃金の非正規労働とに二極分化している。非正規は全雇用者の38%に達し、家計の担い手にまで広がる。結婚や子育ても難しく、少子化や消費停滞を招いている。


 これまでの選挙で各党は、非正規の待遇改善や正社員化を掲げた。今回の焦点は成長戦略の一環として浮上した雇用の流動化、大胆にいえば正社員改革である。過剰に抱えた労働者を移動しやすくすることで企業の生産性を高めようという経営者寄りの論理である。


 自民党は「成熟分野から成長分野への失業なき円滑な労働移動を進める」、公明党は「短時間正社員制度を拡充」と、どちらも「流動化」派だ。日本維新の会とみんなの党も考えを同じくする。反対に雇用安定に重きを置くのは民主、社民、生活の党といえる。


 本来、成長分野などへの労働移動は働き手が自由意思で決めるべきものではないか。政府の規制改革会議では、解雇の金銭解決などが議論されたが、具体的に打ち出されたのは勤務地や職種を限定した「限定正社員」という雇用形態である。福利厚生などは正社員と同等だが、業務縮小などで職務や職場がなくなれば解雇される。


 確かに、現状の正社員の働き方には問題もあり、子育てや介護などで転勤や長時間労働が難しい人にとって限定正社員はメリットとなり得る。しかし、その便益を確実なものにするためには、安易な解雇や賃金カットを防ぐルールが欠かせない。「解雇しやすい正社員」となっては元も子もない。


 さらにいえば、限定正社員が非正規労働からの受け皿になるのであれば歓迎だが、それより人件費削減のために正社員に置き換わる危惧をぬぐいされないのである。


 振り返ってみると、雇用流動化の原点といえるのは、一九九五年に日経連がまとめた報告書「新時代の『日本的経営』」だ。企業が総額人件費を抑えられるとして非正規雇用を広めるきっかけとなった経営指針である。


 今回が「解雇しやすい正社員」解禁の分水嶺(れい)にならないとも限らない。普通の人々が望んでいるのは安定した雇用である。企業の論理だけで決めていいはずがない。
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