浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

生きるということ

2013-07-25 23:35:49 | 日記
 『日本経済新聞』の記事だ。
 
日本人の平均寿命、女性2年ぶり世界一 男性は5位

 2012年の日本人の平均寿命は女性が86.41歳、男性が79.94歳で、いずれも11年を上
回ったことが25日、厚生労働省の調査で分かった。女性は香港に次いで2位に後退し
た11年から0.51歳延び、2年ぶりに世界一となった。男性も0.50歳延びて世界8位か
ら5位に上昇した。11年の平均寿命は多数が死亡した東日本大震災の影響で10年を下
回っていた。


 男性はだいたい80歳まで生きられるということになる。でもそれはあくまでも平均であり、個人の死は、いつになるかは不明である。この世に生まれてきた者は、必ず死を迎える。生は、まさに死への道のりでもある。

 ボクは高校生になった頃、自分自身の生と死について、必死に考えた。何故にボクは生まれてきたのか、果たしてボクに存在意義はあるのか、もしないとするなら死ぬべきではないか・・・・

 生とは何か、死とは何か・・・・それを解明するために、ボクはたくさんの本を読んだ。人生論は言うまでもなく、哲学書など、難しくとも、とにかく読んだ。読んでも、読んでもその解は見つからなかった。友人との語らいによっても、その解は与えられなかった。

 ボクは、そのために、学校をしばしば休んだ。家族は、そういう状態のボクに干渉しなかった。なぜかはわからないが、学校に行け、などとは言わなかった。

 おそらく続けて休んでいたのだろう、クラスの友人が二人、ボクの家にやってきた。村松君と村木君だ。彼らとボクがどういう話しをしたのかは記憶にない。だがその後、ボクは学校にまた行き始めた。

 とはいえ、先の問いに解が与えられたわけではなかった。ボクは煩悶しながら学校に通った。クラスには、前川君がいた。彼は驚くべき読書家であった。毎日毎日、ほぼ一冊ずつ、西洋文学の本を読み、それについての感想を語るのを常としていた。ボクは彼に刺激されて、学校からの帰り道必ず本屋に立ち寄るようになり、文庫本を一冊、また一冊と買い、勉強もせずに、ひたすら読書にふけった。

 この頃、ボクの寝る時間は、午前2時~3時であった。深夜放送を聴きながらの読書であった。

 翌日、ボクは自分が読んだ本について、前川君らと語りあった。文学を読んでいる間、ボクは前記の問いを問わなくなっていた。といっても忘れたわけではない。文学を読むことに必死で、解決のない問いを考える時間がなくなったのだ。

 もちろん文学には、人間いかに生きるべきかという問いとその解が、ひそやかに埋めこまれてるから、それらを読みながら考えてはいたのだろう。

 『マノン・レスコー』や『椿姫』などの恋愛小説を読み、情熱的な恋愛に焦がれ、ロマンロランの大作『ジャン・クリストフ』はノートをとりながら読み、その生き方に大いに触発され、ツルゲーネフの『初恋』に大人の恋愛を少し垣間見たり、とにかく片っ端から読んでいった。

 そのなかで、徐々に、悔いのない死を迎えるためには、悔いのない生き方をしないといけない、では悔いのない生き方とは何だろう・・・などと、少し具体的な方向に向かった。そのなかで、ボクは他者というものを発見したのだ。

 意義のある生とは、自分ひとりだけの人生を生きるのではなく、他者とともに、他者のために生きることであること、そうすることによってはじめて自分の人生は意義のあるものとなる、という一応の結論がでてきたのだ。

 ボクはよく「世のため、人のため」という。それは、高校1年生の頃に考え抜いてでてきた結論なのである。それ以降、紆余曲折はありながらも、その基本線は維持しながら生きてきたつもりである。

 ボクの人生の先には、死が待ち受けている。いや、すべての人間の生きる先に必ず存在するものだ。不在が存在するのである。ボクは、この生がある間、できうる限り自らの生を充実させていきたいと思っている。
 
 生を充実させるためには、他者との共生が必須の要件となる。他者をみつけること、その他者と共生していくこと、それがボクの生きるということだ。
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【本】村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)

2013-07-25 13:45:19 | 日記
 借りていたこの本を返さなければならない日が迫っていたので、今日、一気に読んだ。本当はこれを読む前に『1Q84』を読むことになっていたが、こちらが先になった。

 内容的には、荒唐無稽は影を潜め、話の展開としては理解可能なものであった。そして村上がここに書き付けたものは、あまり年齢も離れていないボクにも、ある種の共感を覚えるものであった。

 誰にとっても、高校生、大学生の頃は、人生のなかでももっとも充実した時代でないかと思う。何にでも興味関心を抱き、多くの仲間と交流し、ほんとうにたくさんのたくさんのことを吸収する。人は、おそらくこの時期の自分自身をそのまま大切にもちながら生きていくのだ。

 だがその時代が美しければ美しいほど、それが色褪せていくであろう時間の経過、つまり未来におそれを抱く。未来は希望に輝くものではなくなっていく、そういう側面もある。

 主人公のつくるは、高校時代を過ごした名古屋で、自らを含めた5人の仲間とともに、濃密で、調和のとれた時間を生きた。ところが、つくるが東京への大学に行っている間、突然切断される。誰もつくると会ってくれない。その拒絶の理由がわからないまま、彼は36歳になる。

 理由もなく切断された濃密であった人間関係、その記憶が、つくるの対人関係に常に一定の距離をもたせることとなった。つくるは、深く傷つきたくないから、濃密な関係を築こうとしない。

 紹介されて会った沙羅という女性。彼女はつくるの対人関係に於けるその距離を感じ、その原因をつくるに尋ねる。つくるは突然、理由の分からぬ一方的な断絶の経緯を語る。沙羅は、その理由をさぐることを提案し、つくるは名古屋に行き、かつての仲間(男2人アカとアオ)と会い、またヘルシンキにいる仲間(女クロ)に会いに行く。

 仲間のひとり(女シロ)が、つくるに強姦されたと主張し、それを一応信じた仲間は、つくるとの人間関係を「切る」。つくるははじめてその事実を知るが、しかしつくるにはそんな覚えはない。なぜシロはそう語ったのか。仲間はつくるがそんなことはする人間ではないとわかっていても、シロの主張を呑んだ。

 そしてシロは、名古屋から浜松に移り、そこでヤマハの音楽教室(ここんとこ、浜松に住んでいる人間としてはリアル。うなぎ屋まででてくるんだよ!)でピアノを教えていた。ところがシロは何者かに自室で絞殺されているところを発見される。誰に殺されたのかは、テーマには直接関わらないので、それは追究されない。とにかく殺された。しかし、浜松人としては、浜松で殺されたということにあまりいい気はしない。
 
 なぜシロは、そう主張したのか。5人の調和のとれた関係、じつはその調和とは、調和を乱す諸々のことを無視した上でのはかないものであったのではないか。それが壊れていくことをおそれたシロが、その前に破壊を試みた?

 本当に現在が素晴らしければ素晴らしいほど、それが永遠には続かないことがわかるからこそ、未来を畏怖する。これはわかる。

 そしてつくるは、自らのこころに刺さっていた大きな棘の原因を突き止めることができ、その上で、沙羅との濃密な関係を求めようとする。しかし沙羅には、もう一人の男の影が。

 つくるは、沙羅に選択を迫る、その回答の日を前にして、この小説は終わる。

 この小説は理解可能であった。

 村上も、齢を重ねた。今までは、若かりし頃の世界(これはいつも輝いている。しかしそれはすでに手の届かない「過去の幻影」なのだ)をずっとひきずって生きてくることができたが、この時点において、その世界から別の新しい世界へと飛び立とうとしているのではないかと思った。

 沙羅とのあらたな生は、「過去の幻影」に負けないくらいの輝きをもつことができるだろうか。ボクは、それは可能であると断言したい。

 なぜか。「青春」は振り返るものではなく、死ぬまで「青春」を生き切るべきだと思うからである。
 
 
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無知を恥じ、新しい世界へ

2013-07-25 07:05:37 | 日記
 中見真理『柳宗悦ー「複合の美」の思想』(岩波新書)を、深更から読み始めた。読みながら、ボクは何という過ちを犯してきたのかを考えざるを得なかった。

 柳宗悦という名は知っていた、彼が民芸運動の担い手であったことも知っていた。だがそれだけだった。それ以上、彼を知ろうとはしなかった。

 だがそれは大いなる間違いであった。
 
 この本を読み始め、著者の「まえがき」のなかに書かれた柳を研究する意義にこころからの賛意を感じながら読み進めたのであるが、読めば読むほど、ボクは柳本人だけではなく、柳という人物をつくった多彩な思想家や交友関係に大いに感じ入ったのである。
 
 クロポトキン、大杉栄、武者小路や有島らの白樺派の作家たち、ブレイクやホイットマンなど、思想は読書からつくられるという哲学者アランの言葉通りに、柳はこれらの人たちとの関係からみずからの思想をつくり鍛え上げてきた。

 しかしボクは、クロポトキンも読んでこなかったし、ブレイクやホイットマンも然りである。何という損失。この本に記されたブレイクの「黒人の子ども」(『無垢の歌』)をインターネットで探ってみた。ボクは、「黒人の子ども」だけではなく、『無垢の歌』に記されたブレイクの詩に大いに心を動かされてしまったのだ。たとえば「他の人の苦しみ」、「花びら」など。なぜボクはブレイクを知らなかったのか。

 http://blake.hix05.com/Innocence/100innocence.index.html

 そしてクロポトキンの『相互扶助論』。これも読んではいない。本書に簡単に紹介されているその思想は、現代においても大いに意義があるというのに、そして大杉栄が翻訳しているのに、ボクは書名は知ってはいたが、読んでこなかった。
 
 人生の途上で、読んでおくべき本、知るべき思想家は数多い。ボクは、できるかぎり広汎な「知」を渉猟してきたつもりであった。だが、クロポトキンやブレイクを欠いていたことは、とても大きな問題だと思った。

 ボクは、柳が書いたもの、柳をつくりあげた思想家や文学者の作品にアクセスすることを決意した。

 9月から、公民館で別の歴史講座を担当する。それはこの地域の歴史に関係するものだ。そのなかでボクは、この地域の民芸運動をテーマとしてとりあげようとしている。そのために、この本を購入した。

 まだ全部を読んでいるわけではないが、すばらしい本だ。読みやすい文体。ただし引用されている文をよみやすくしていること、どこからの引用であるかの注記がないことは残念だ。本というものは、その本を読み、さらにそこに記されていることを深く知るための文献案内の役割も果たすべきなのである。歴史研究や論文も然り。

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