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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

働かないアリ

2017-02-21 22:33:10 | その他
 働かないアリは、必要なんだ。

 働いていたとき、働かない人びとがいた。私は、職場というのは福祉の役割も持っていると思い、あまり気にしなかった。

 アリの世界では、働かないアリばかりを集めると、そこでは7~8割が働きアリに変身し、2~3割は働かないアリとなる、ということを何かで読んだ記憶がある。

 これに関してのニュース。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1602/17/news088.html#utm_source=yahoo&utm_medium=feed&utm_campaign=20170221-086&utm_term=zdn_n-sci&utm_content=rel2-01
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【本】中国新聞取材班『中国山地過疎地帯50年』(未来社)

2017-02-21 12:19:05 | その他
 過疎。あまりよい言葉ではない。

 20代の頃、3月頃だったか能登半島に行った。車で半島を一周したのだが、町と町との間を走っているとき、ほとんど人を見かけなかった。家はあった、車はあった、しかし人は見なかった。その時私はかなり衝撃を受け、過疎地帯能登に関する本を読み、その深刻さを認識した。

 その時に書いた文を掲げる。「過疎地帯 奥能登」と題するものだ。

奥能登の冬は寒い。暗い。わびしい。日本海から吹き寄せる潮風が、山裾の草木を枯らし、荒涼たる姿を現出させる。そしてどんよりとした厚い雲の下で冬の海が荒れる。

ほとんど人影は見えない。ときおり道のスミを手ぬぐいを被った老婆が、腰を斜めに曲げながら歩いている。それ以外の人には会わない。人家はあった。車もあった。しかし人はいない。コンクリートミキサー車が自らの巨体をゆっくりと廻していた。しかし人はいない。見捨てられた家、そして車。

大通りを車がひっきりなしに行き来し、たくさんの人がうごめきあっている「大都市」の生活に慣れた人の眼に、奥能登は異様に、あたかもゴーストタウンのように映る。

過疎-。このことばが奥能登を象徴する。全国の山間僻地の状況がここにもある。若者たちは都市に出て行く。の男たちも農閑期には出稼ぎに行く。厳しい冬の中、のこされた人びとは孤立に耐える。そのように生きてきたし、また生きねばならない。

過疎-。これは単に人口の減少ではない。現代に特徴的なきわめて深刻な社会現象なのだ。過疎は「人口減少のために一定の生活水準の維持が困難になり、それとともに資源の合理的利用が困難になって、地域の生産機能が著しく低下し、さらに年齢構成の老齢化が進み、従来の生活パターンの維持が困難になった状態」と、経済審議会・地域部会の『中間報告』は定義する。しかし過疎は進行する。過疎が過疎を呼ぶ、なぜ!

 冬が過ぎ、雪が溶けると、奥能登に若者が来る。都会の若者たちだ。奥能登の人びとは忙しくなる。だが奥能登から出て行った若者たちは帰ってこない。仕方がない、と奥能登の人びとは考えるのだろうか。 
 

 この情景は、中国山地でも早くからみられた。中国新聞は、中国山地の取材を何度か行い、それを新聞紙上で報じ、また出版してきた。本書は、三回目の報告である。

 私は、奥能登への旅以降、過疎に関する本を時々読んできたが、あまり希望のない叙述が多かったが、本書は少しの希望も記されている。

 今後、全国的に大きく人口減となることは明らかだ。少子高齢化がずっと前から叫ばれていても、近視眼的な日本政府や官僚、経済界は、目の前のカネもうけしか考えてこなかった。カネもうけのための合理的な政策という視点では、少子高齢化対策は後手に回る。それよりも若者を低賃金で雇用することしか考えてこなかったし、今も同じだ。若者に安定した生活を保障することができなければ子どもは増えない。

 さて、ただでさえ人口の少ない過疎地帯では、消えていく集落もあるだろう。政府は、過疎地帯に目を向けている振りをしているが、実際の政策をみれば、東京一極集中策である。

 本書は、まず中国山地の相変わらずの現状を報告している。それが第一部の「最前線の現実」、第二部の「過疎半世紀」である。しかし現状が抱えている問題は、交通問題(第三部)、農業(第四部)、林業(第五部)があり、そして過疎を促進した「平成の大合併」(第六部)がある。

 その後に、「地域おこし協力隊」の活躍(第七部)、若者たちの過疎地域への移住(第八部)、そして第九部、第十部は中国山地の一部地域に現れている希望を記す。

 その希望のカギは一言で言ってしまえば、住民自治である。そこに住む人びとがみずからの頭で考え、行動する、それも地域の人びとと一緒になってであるが、それがあるところに希望が出てきている。「平成の大合併」は、住民自治を破壊するものでもあったが、それでも地域を愛する人びとが、自力で解決しようと動き出すと、未来はこそっと顔を見せるのである。その事例が、記されている。

 本書は、自治体の関係部署にいる人に、是非読んでもらいたいと思う。希望をつくり出しているところから何ものかを学ぶことは大切である。

 私も農業に一定の時間を割く日々を送っているが、都会では農業は無理だが、田舎では可能である。農業から学ぶことはとてもおおいと思う。田舎には、学ぶことが多いはずだ。それを見つけることができるかどうか。見つけたものが、都会から田舎へとUターン、Iターンをしている。

 

 
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安倍政権のウルトラ右翼度

2017-02-21 08:30:18 | その他
 安倍首相と関係する日本会議系の森友学園の土地購入問題、要するにほとんどタダで国有地をあげたのだ。

 『朝日新聞』記事。

http://www.asahi.com/articles/ASK2N63DNK2NPTIL02R.html?iref=comtop_8_01

 安倍政権は、こういう不法なことを平気でやるのだ。
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東芝「もう会社が成り立たない」

2017-02-21 08:08:07 | その他
 『日本経済新聞』が、東芝に関して表題のような記事を掲載した。

 その出だしは、こうだ。

2月14日午前、東京・芝浦。東芝でフラッシュメモリーを成長させた立役者、副社長の成毛康雄(61)が「メモリーを100%売る。その覚悟が無ければ、もう会社は成り立ちません」と取締役会で訴えた。

 東芝は、戦後の家電業界を松下電器と共にリードしてきた。しかし東芝はその家電部門を切り離した。医療機器部門も切った。残るは、インフラ、半導体、原発である。原発は、2006年にウェスティングハウス社を買収し、アメリカの原発建設に本格的に参入、世界での原発建設にみずからの「今後の発展」を託そうとしたのだ。おそらくこれは、自民党・公明党政権の方針でもあった。今後の日本の輸出品として、社会インフラ、すなわち新幹線、原発、水道事業などを考えていたのだが、日本のなかでの原発産業の一つである東芝は、そのなかで原発建設を柱にしようとしたのである。

 それが、東芝を窮地に追い込んだ。2015年の不正会計も、原発建設が引き起こした。
 
 さて今回も、原発建設がもたらした巨額損失。今回は7000億円損失であるが、ではそれだけで終わるかといえば、まったくわからない。おそらくもっと増えていくことだろう。

 となると、東芝は半導体部門も売り渡さざるをえない。あとは社会インフラと原発だが、原発は今後も損失を重ねていくことだろう。となると、政府は東芝を支えるべく、かなりの資金を投入してある種の「国営会社」にしていくのではないか。現在は、金融機関に融資を哀願しているようだが、そう簡単ではないだろう。

 となると、「国営化」。

 福島第一原発事故の後始末では、東芝の技術が必要だ、ということを理由に「国営化」していくのではないか。

 新自由主義経済では、庶民や中小企業には「自己責任」を押しつけるが、大企業に関しては、国家が税金で助ける。これは、新自由主義経済におおわれた国家では、どこでもやっていることだ。

 大企業、経営者、富裕者だけがトクをし、それを貧しさに耐えながら庶民が支えるという構図。国民はそれでもよいと、投票行動で示している。
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