過疎。あまりよい言葉ではない。
20代の頃、3月頃だったか能登半島に行った。車で半島を一周したのだが、町と町との間を走っているとき、ほとんど人を見かけなかった。家はあった、車はあった、しかし人は見なかった。その時私はかなり衝撃を受け、過疎地帯能登に関する本を読み、その深刻さを認識した。
その時に書いた文を掲げる。「過疎地帯 奥能登」と題するものだ。
奥能登の冬は寒い。暗い。わびしい。日本海から吹き寄せる潮風が、山裾の草木を枯らし、荒涼たる姿を現出させる。そしてどんよりとした厚い雲の下で冬の海が荒れる。
ほとんど人影は見えない。ときおり道のスミを手ぬぐいを被った老婆が、腰を斜めに曲げながら歩いている。それ以外の人には会わない。人家はあった。車もあった。しかし人はいない。コンクリートミキサー車が自らの巨体をゆっくりと廻していた。しかし人はいない。見捨てられた家、そして車。
大通りを車がひっきりなしに行き来し、たくさんの人がうごめきあっている「大都市」の生活に慣れた人の眼に、奥能登は異様に、あたかもゴーストタウンのように映る。
過疎-。このことばが奥能登を象徴する。全国の山間僻地の状況がここにもある。若者たちは都市に出て行く。の男たちも農閑期には出稼ぎに行く。厳しい冬の中、のこされた人びとは孤立に耐える。そのように生きてきたし、また生きねばならない。
過疎-。これは単に人口の減少ではない。現代に特徴的なきわめて深刻な社会現象なのだ。過疎は「人口減少のために一定の生活水準の維持が困難になり、それとともに資源の合理的利用が困難になって、地域の生産機能が著しく低下し、さらに年齢構成の老齢化が進み、従来の生活パターンの維持が困難になった状態」と、経済審議会・地域部会の『中間報告』は定義する。しかし過疎は進行する。過疎が過疎を呼ぶ、なぜ!
冬が過ぎ、雪が溶けると、奥能登に若者が来る。都会の若者たちだ。奥能登の人びとは忙しくなる。だが奥能登から出て行った若者たちは帰ってこない。仕方がない、と奥能登の人びとは考えるのだろうか。
この情景は、中国山地でも早くからみられた。中国新聞は、中国山地の取材を何度か行い、それを新聞紙上で報じ、また出版してきた。本書は、三回目の報告である。
私は、奥能登への旅以降、過疎に関する本を時々読んできたが、あまり希望のない叙述が多かったが、本書は少しの希望も記されている。
今後、全国的に大きく人口減となることは明らかだ。少子高齢化がずっと前から叫ばれていても、近視眼的な日本政府や官僚、経済界は、目の前のカネもうけしか考えてこなかった。カネもうけのための合理的な政策という視点では、少子高齢化対策は後手に回る。それよりも若者を低賃金で雇用することしか考えてこなかったし、今も同じだ。若者に安定した生活を保障することができなければ子どもは増えない。
さて、ただでさえ人口の少ない過疎地帯では、消えていく集落もあるだろう。政府は、過疎地帯に目を向けている振りをしているが、実際の政策をみれば、東京一極集中策である。
本書は、まず中国山地の相変わらずの現状を報告している。それが第一部の「最前線の現実」、第二部の「過疎半世紀」である。しかし現状が抱えている問題は、交通問題(第三部)、農業(第四部)、林業(第五部)があり、そして過疎を促進した「平成の大合併」(第六部)がある。
その後に、「地域おこし協力隊」の活躍(第七部)、若者たちの過疎地域への移住(第八部)、そして第九部、第十部は中国山地の一部地域に現れている希望を記す。
その希望のカギは一言で言ってしまえば、住民自治である。そこに住む人びとがみずからの頭で考え、行動する、それも地域の人びとと一緒になってであるが、それがあるところに希望が出てきている。「平成の大合併」は、住民自治を破壊するものでもあったが、それでも地域を愛する人びとが、自力で解決しようと動き出すと、未来はこそっと顔を見せるのである。その事例が、記されている。
本書は、自治体の関係部署にいる人に、是非読んでもらいたいと思う。希望をつくり出しているところから何ものかを学ぶことは大切である。
私も農業に一定の時間を割く日々を送っているが、都会では農業は無理だが、田舎では可能である。農業から学ぶことはとてもおおいと思う。田舎には、学ぶことが多いはずだ。それを見つけることができるかどうか。見つけたものが、都会から田舎へとUターン、Iターンをしている。