書庫に入り込んである本をさがしていたら、この本をみつけた。2001年に出版されている。おそらく何かの書評を読んで買い込んだのだろう。買い込んではみたものの、読まずに放置された本はたくさんある。それらを読むことに、今は使命感をもっている。だから、歴史研究から遠ざかり、読書に励む。
歴史を研究し叙述するという作業は、とてつもなくたいへんだ。史料をよみ、その史料に関係する文献を片っ端から読み、その史料が意味するところを読み取り、それを歴史の展開の中に位置づけながら書いていく作業は、ほんとうにレンガをひとつひとつ積みあげていくという時間のかかるすさまじいものなのだ。だから歴史に関する本をつぎつぎと出版している人は信用できない。
歴史研究をしていては本を読めない。
さてこの本はなかなか厚い。しかし読みはじめたらやめられない。著者はイギリス人、ソ連が崩壊した直後、今まで入れなかったシベリアに真っ先に入り込んだ作家である。
ソ連崩壊直後の風景や人の姿が描かれる。
ブログを書く気になったのは、そこにソ連の体制下でシベリアの収容所に送られ厳しい労働(石炭採掘、道路建設)を強いられた、それまではベルリンのソ連大使館につとめていた87歳の女性と話す。その中で、コリンが彼女の「黙従」に疑問を抱き質問する場面があった。あまりにひどいことがあったのに怒りもせずにいられることに、おそらく疑問をもったのだ。彼女はずっと共産党員であったが、共産党員であることに誇りをもちつづけ、悪いのはソビエト権力の一部だという。
そしてドストエフスキーが収容されたオムスクにいく。そこでの「権威は救いだった。ここではずっとそうだったのだ。それは、思想のかわりに平安を与えるものだった」(87)という文に、民衆の本質が指摘されていると思った。
この本はまだまだ読み終わらない。途中経過を書くこともあるだろう。
どこかの新聞の書評でこの本が紹介されていた。その時に注文して購入したものだ。
森の東大教養学部での講義ノートがもとになって書かれたもので、そのためか前後するところがあり、またみずからの思考を断定的に述べるものでもなく、いろいろな社会科学の言説を批評しつつ紹介するという内容となっている。
私の世代は、マルクスやウェーバーらの本を読み、またその関係の社会科学の文献を読みながら生きてきた。本書には、丸山真男、内田義彦、平田清明、松下圭一らの本が紹介されている。これらの学者の本はかなり読んできた。丸山についてはすでに重要な文献を読んではいるが、『丸山真男集』など全巻購入している。
平田の『市民社会と社会主義』は今でも書棚の目につくところにおいてある。主要な論文は『世界』に書かれていたが、私は注目して読んだ。まだ日本の政治や社会に希望があった時代の本である。
しかし今や、私たちが読み進めてきた本は、時代遅れであるかのようになっている。確かに、新自由主義が席捲するこの時代に、未だ夢を持てた時代の本は、時代遅れと言われても仕方がない。今は夢を持てない、良い方向への改革すら展望できない時代にある。
であるからこそ、過去の様々な言説を振り返ることが必要なのだろう。本書はそのために書かれたようだ。
森は各所でさらっと私見を開示しているが、その私見に言いたいことはたくさんあったが、一つだけ記しておく。
第6章「奇妙な「革命」」で、1960年代から70年代にかけての「叛乱」の背景について「なぜ豊かさのなかで叛乱が起こったか」という項目を立てている。共同体からの離脱による孤独(「個」)、「自分探し」などということばが掲げられているが、私はそうした言説に対して異を唱えている。その背景には、ベトナム戦争があった、そのことを指摘しない限り「なぜ」の解答にはならないと思う。私は「団塊の世代」の少し後の世代であり、また「叛乱」のなかに入っていた経験から、ベトナム戦争なしにはそのような「叛乱」は生じなかったと思う。
また1970年代の動きとして、
「・・・・左翼の退潮と共に保守が論壇の主役となって主客が交代する。 戦後の文脈では保守的知識人の自己認識として、大学や論壇を左翼系が独占していることへの抗議があったが、この時代になると逆転が始まることになる。」(234)
という指摘がある。いまやそれはふつうの状態となり、右派系の扇情的な雑誌が大量に積まれ、『世界』などは隅に押しやられている。また大学や研究者のなかには、「左翼」を冷笑する者たちが増えているように思われる。人権、平和、民主主義の主唱者であった学者・研究者たちのもとで育ってきた者たち、なかでも男たちにそうした特徴がある。
「われわれが従っている制度や規範、イデオロギーなどに究極の根拠などないことは、今では誰もが知っており、知りながら従っている振りをする時代になった。そうなれば根拠などないという言説自体の価値がなくなってしまった。ポストモダン言説が消費し尽くされ、時代遅れになったあと、いわば本当にポストモダンな時代が到来したということができよう。「ガバナンス」や「コンプライアンス」といった「根拠になりえないような根拠」に由来する言葉が人々のふるまいを規制し尽くす時代は、そういう(ポストモダンな)時代なのである。」(268)
ポストモダンの言説は、一面では「権威」を否定したが、もう一面では「知」というものを葬り去った。かくて、知的劣化の激しい時代へと突入し、「知」は力をもてなくなった。「ポストモダニズムが終焉を告げた事柄のひとつは、知識人の時代が終わるということだった。」(267)という指摘の通り、現在は「知」が見向きもされなくなっている。
社会科学の言説の展開は、社会科学的な「知」を葬るものとなった。そして「現実」という克服されるべき対象が、「現実」であるがゆえに堂々と振る舞うようになった。なぜなら、「知」にもとづく「現実」に対する批判それ自体が批判されるようになったからだ。
「現実」は「知」にもとづく批判によってこそ、よりよき「現実」となっていくはずである。そこにこそ、社会科学の存在価値があるはずだ。
私たちは、そういうものとして「社会科学」を学んできた。
本書は、著者の私見に異を唱えながらも、「社会科学」の言説を振り返る簡便なもの、ということができよう。