先日、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を紹介した。
その「訳者あとがき」に、ベラルーシでは政権を批判する政治家やジャーナリストが「抹殺されていると告発した新聞がほとんど売れない」のは、恐怖のせいばかりではなく、「国民はそんなことに興味がないのだ」ということをアレクシェーヴィチは認めている、とある。
そうなのだ。国民は日々の生活を生きていくこと、日常の諸々のことに興味関心をもち、そうでないことは当事者にならないと考えないし、当事者でなくなれば考えなくなるのだ。
介護の問題に苦労している人がいても、その苦労が制度的な、あるいは政治的な瑕疵からきているにもかかわらず、そこまでの認識を持つことなく苦労し、介護の対象者が亡くなってしまえば忘れてしまう。
10月の選挙、野党は、ジェンダー平等、森友問題などの「悪政」を批判したが、おそらくその批判は空回りしていたのだろう、票にはつながらなかった。どんな「悪政」を推進していても、国民は、テレビによく出演している政治家、握手したりしたことのある政治家に投票するのだ。
そして職業人は、働いている企業が推薦する政治家に投票する。たとえば浜松の遠鉄ストアという、遠州鉄道系列のスーパーでは、小選挙区では自民党候補に、比例区では公明党に投票して、と訴えていたそうだ。ほとんどの業界団体は政治的な組織をつくっていて、その組織は自民党とつながっている。そして当選したら、公共事業か何かで税金を投入してもらうように陳情する。
自民党・公明党政権は、最初から最後までみずからの支持団体や友人にだけ税金を投入する、そういうシステムがずっと続いてきた。
総選挙で落選した石原某を内閣参与にするというのも、その一環だ。
だが、国民はそれに怒りをもたない。何らかの業界とつながっている人びとは、自民党や公明党から「おこぼれ」にあずかっているからだ。
興味関心をもたなければ、政治はいつも日常とは切れた世界なのだ。それは日本人だけではなく、世界共通である。もし庶民が政治に興味関心をもって考え行動していたら、世界はもっとよくなっているはずだ。
日本においては、野党は、どのようにしたら庶民の興味関心をかき立てることができるのかを真剣に検討する必要がある。