自分の考えが正しいのかどうか確認するために本を読んだり勉強する文化が、かつてあった。しかしそれは消えた。
テレビでは、知の世界に足を踏み入れたこともない人びとが勝手なことを語り、人びとに安心感を与えている。そうか知識がなくても語ってよいのだと。もちろん語って悪いわけではない。しかしその語りには責任が伴う。責任を持った語りをするためには、事後にでも、もちろん事前においても、きちんとした裏付けをもつように努力しなければならない。
それがない。
そういう社会のありように自信を持った人びとが、匿名性の影に隠れて無知を背景に罵詈雑言を投げつける。そういう社会ができてしまっている。政治家ですら、事実と異なることを平気で話すようになった。
日本社会は、知を軽蔑する人びとが力を得るようになり、首相にまでそういう人が就任した。
だが世界をみてみれば、日本だけではなく、アメリカなどでも同じような事象がみられる。
経済的格差、ひとにぎりの人びと(1%)の総所得が下位の50%の総所得と同じ額になったという報道があった。2000年代半ばの数字である。
それと同じように、知の格差も広がったのだと思う。
経済的な不遇と知的世界からの拒絶が一緒になって、憎悪が増幅される。そういう事件が起こる。