浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

調布市職員の「暴力」

2021-12-06 08:37:06 | 政治

 昨日の『東京新聞』記事。

調布漏えい「単純ミス」苦しい説明 公文書か判断せずメール削除?国交省はなぜ止めなかった?

  地方自治体というのに、自治はない。それが現在の都道府県・市町村の実態である。新自由主義的思考は民間企業の経営こそがあるべき姿だということで、自治体も学校もトップに権限を集中させるようになった。要するに上意下達である。「上」のいうことを素直に聞き、その通りに行動することがよいことだとされる。それぞれの組織に民主主義はないから、トップがバカだとその組織はバカになり、トップがカネ儲けに走れば組織もトップのためにカネ儲けに走り回る。

 自治体や学校の組織の構成員は、住民とか子どもとのためではなく、トップのために行動するようになる。

 それが今の日本である。こういう社会ではほんとうの活力は消え失せるので、劣化していくしかない。日本大学の醜聞を見ればわかる。検察がトップの悪事を掴んで逮捕することをしなければ、組織の中から自浄作用が起こることはない。

 そして調布市。市の職員は、市よりも上にある上部組織としての国交省などに、忠勤を励んだのだろう。調布市のトップも同じような認識をもっているはずだ。自治とか民主主義、人権に関する認識ももたない組織として調布市はあるのだ。

 呆れかえるしかない事態が続出しているが、しかしそれを許容する「度量の広さ」が、日本社会にはあるのだ。言い換えれば、正義とか倫理に基づく「当為」という感覚が欠けているのである。

 どんな悪事を行っても、司法機関が動かなければいいのだ、という意識。それが日本のトップから社会全体に広がっている。

 そういうなかに私たちは生きているのである。まさに広い意味での「暴力」が許容されているのだ。

 

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