浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

多様な意見(6)

2022-04-04 18:40:47 | 国際

 ロシア軍が撤退していったキーウ郊外で、多くの民間人の遺体が放置されていたという報道がされている。突然のロシア軍の侵攻とそれにともなう破壊と虐殺は、ウクライナの人々を塗炭の苦しみに追いやっている。ほんとうに心が痛む。

 こうしたニュースが次々と流されているなかでも、今までリベラルと思われていたジャーナリストや活動家のなかに、ウクライナのネオナチ、ゼレンスキー政権の瑕疵をあげつらうなど、結果的にロシアに肩入れするような情報を流してくる者がいる。

 私は、これらの動きに唖然とする。

 何度も書いているが、突然ウクライナに侵攻し、破壊と殺戮を繰り広げているのはプーチン政権のロシア軍なのである。彼らの行動は、明確な国際法違反であり、第2次大戦後の国際秩序を根柢から破壊するものなのだ。今、彼らを批判しないでいつするのだろうか。

 今まで何度もこのような「平和」を破壊する事態が起こった。その度に、私は殺される側に立ち、殺す側を批判し、殺される側を支援してきた。ベトナム戦争、米軍のイラク侵攻、ソ連やアメリカ・NATOによるアフガン攻撃など。別にロシアだけが「悪事」を働いてきたわけではない。アメリカもNATO諸国も、そしてかつては日本も「悪事」を働いた。

 今回のウクライナ侵攻については、ロシア側に一部の理もない。実際に、ウクライナの民衆を殺戮し、生活を破壊し、生活の場を破壊し尽くしているのはロシア軍なのだ。ロシア軍がウクライナに侵攻するには、当然理由があるだろう。しかし、理由はどうであれ、現実にロシア軍はウクライナ民衆を殺しているのだ。こうした行動を選択したことにより、ロシアは存在していたかもしれない理をも放棄したのである。

 ロシアは、このウクライナだけではなく、チェチェンでもシリアでも同じようなことを繰り広げていたとのことだ。私は、知らなかった。恥ずかしいことだ。

 ロシアに対する認識を豊かにしなければならない。と同時に、ウクライナ支援をも行っていかなければならない。

 2月24日以降、私は陰鬱な日々を送っている。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】中村きい子『女と刀』(講談社文庫)

2022-04-04 13:23:21 | 

 筑摩書房のHPを覗いたら、この本が新刊で出版されることをしった。一昨日、「スターリニズム」に関する本をさがそうと書庫に入って、この本を見つけた。評判になっていたので購入したものだが、一度も読まずに本棚にあった。本書は、1976年出版のものだ。

 鹿児島の下級士族(外城士族)に生まれたキヲの生涯を、一人称で語り上げたものだ。最初から最後まで緊張感をもって読み進む。読む者に休憩をとらせない迫力である。

 父は西南戦争で西郷軍の一員として参加し敗れた者だ。父はその敗戦をひきづりながら、同時に薩摩藩士族としてのプライドをずっと持ち続けてきた。キヲはそのプライドを受け継ぎながら、さらに「おのれの意向を通して生きる」ことをした。

 鹿児島県で女性が「おのれの意向を通して生きる」ことは途轍もなくたいへんなことだ。しかし、キヲは、それを貫いた。

 その視点から、近代日本の歴史を、キヲを取り巻く社会の動きを重ね合わせながら描く。

 キヲの精神を継いだ長男紀一は友人たちと共に、小学校の担任教員の私情に基づく差別的行動に抗してストライキを行う。キヲは、もちろん紀一を支える。しかし紀一は早世してしまう。

 キヲは二度結婚する。一度目は姑との関係から離縁し、二度目は70歳になってから家を出る。もちろんこれらの結婚は、自らが主体となったものではなく、「家」と「血」による強いられたものであった。

 二度目に結婚した兵衛門殿は主体性のない凡庸な男であった。しかしその男性との間に子どもをつくり、50年の日々を暮らした。しかしその間、キヲと兵衛門殿とは一度たりとも「情」というものを通わせることはなかった。「ひとふりの刀の重さほども値しない男」であった。

 兵衛門殿は、キヲが去ってから半年後に亡くなる。

 キヲが娘の成に語って聞かせる「神」の説明は、すばらしいものだ。 

神さまなどというものは、人間が在って、神さま神さまと崇めてさしあげるから、この世に神さ様という方がおじゃるということになるのじゃ。その証拠には、神さまのお言いやいことは、絶対に間違いないと 成がきいたのも、神さまじきじきではなかったろう。先生や、父さまからきいたことでもそうであろうがの。それでのう、神さまは人間在ってこそ、神さまとしてこの世におじゃる、ということになるし、人間もまた、それをよきこととして、おのれのつごうによって神さまをどうでも利用しているとじゃ。その利用していることにさらに利用されているものがいる。それは倍の馬鹿ものということになる・・・・

 そしてキヲは、「つまり、この世で絶対の存在は、人間であるということを」と断言する。

 「家」と「血」による制度的圧迫をものともせずに、キヲは生きて行くのであるが、その強さに感動する。同時に、男どもの、「家」や「血」に依存するなまくらな生き方。制度に守られているが故の「権威」、しかしその制度は「幻想」によって立つものであるが故に、それをまったく問題としない者に対しては、まったく刃が立たない。

 戦後の民主主義も、ひょっとしたら、そういうものとしてあるのではないか。キヲのような生き方が多くならない限り、民主主義は「幻想」のままである。

 とてもよい本である。もちろん講談社文庫は品切れだろう。ちくま文庫で買って欲しい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする