浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「蝉丸と逆髪」(2)

2024-10-26 22:57:39 | 演劇

 能の「蝉丸」を、くるみざわしんが改作して「蝉丸と逆髪」を書いた。わたしの手元にあるのは、活字だけの台本である。声や音が不可欠である演劇空間を体験していないわたしにとって、この劇を論じるのは、冒険であり、また難しいと言わざるをえない。

 それでもあえて、この台本について書いていこうと思う(以下、台本と記す場合は、くるみざわの改作をさす)。

 まず、一景はウソで始まる。藤原清貫(ふじわらのきよつら)は、醍醐天皇の廷臣であり、落雷事件で亡くなるまで昇進を重ねた公卿である。能の「蝉丸」でも、清貫が「蝉丸」を逢坂山に連れて行くのだが、清貫はそこまで悪人として描かれてはいない。そこまで、と記したのは、台本では、「蝉丸」を、大坂浪速の四天王寺に連れて行くとウソを言って連れ出している。四天王寺では「目の病を治す祈祷師が集まるお祭り」があるからというのである。

 四天王寺にそのような祭りがあったのかを、友人に四天王寺関係者がいたので問い合わせたら、そういうことは聞いたことがないということだった。四天王寺と「目の病を治す」ということなら、能の「弱法師」(よろぼし)に盲目の乞食がでてくるので、謡曲をたくさん読んできたというくるみざわは、それにヒントを得たのかもしれない。

 いずれにしても、清貫はウソを言って「蝉丸」を連れ出しているのである。

 しかし「蝉丸」は、西に向かっているのではなく、東に向かっていることを察知する。そして逢坂山に到着する。清貫は荷車から降ろす。その際、清貫は「降りろ」と命じ、荷車を「蹴る」。このことばと行為に、すでに醍醐天皇の第三皇子である「蝉丸」への敬意はない。

 台本では、清貫は、典型的な官僚として描かれている。権威や権力を有する者には、本心からではなく、やむなく追従するが、そうする必要がなくなった際には、即座にそうした態度を捨てる。おのれの地位や出世が第一なのであって、天皇や皇子に対しても、それに関わる場合にのみ追従し、敬意を表すのである。

 清貫は、「蝉丸」を「捨てる」のは、醍醐天皇の命令であることを伝える。これは能の「蝉丸」でも同じである。「蝉丸」は、「なぜだ」と問う。ここで、清貫は、皇室典範の第3条を示す。「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。」が、現行の皇室典範の条文である。1889年の旧皇室典範では、第9条である。「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シ前数条ニ依リ継承ノ順序ヲ換フルコトヲ得」がそれである。もちろん能の「蝉丸」にはない。

 醍醐天皇が「延喜の治」を行うのは10世紀である。その時代に、現行の皇室典範を登場させるのだ。わたしには驚きであった。シュールレアリスムの方法でもある。「ものをその日常の環境から切り離して、別の環境の中に入れる」(高階秀爾)、現行の皇室典範を10世紀に登場させたのである。きちんと皇室会議の議をへて、「蝉丸」を「捨てる」ことが正式に決まったというわけである。

 そして能の「蝉丸」と同じように、台本でも、頭を丸め「出家」させる。つまり「乞食坊主」にする。清貫は、「蝉丸」の服を脱がせて蓑を着せ、笠と杖を「蝉丸」に与える。

 この場面で、台本には、能の「蝉丸」にはないことが書かれている。清貫は「蝉丸」の、「物狂い」となった姉を、清貫がこの逢坂山に捨てたことを語る。そこでの清貫の台詞。

 「物狂いとはいえ天皇の娘です。寺に預けたりしたらよからぬ連中に利用され父上に御迷惑をかけないとも限らない。道に置き、乞食に落とすしか。」

 ここには、清貫と天皇との関係に関する認識が記されている。つまり、利用する対象としての皇族。操作される存在としての天皇家。

 そしてさらに、清貫のほんとうの心が語られる。これこそ官僚的精神の真実なのだろう。

「頭を丸め道に残されてしまえばもはや天皇家の人間ではありません。清貫と呼ばれても答える筋合いはもう(ない)」

「この清貫は蝉丸さまが天皇の実子ゆえにお世話して差し上げただけのこと、すべて天皇の御命令に従っただけでございます。」

「・・・・今までどれほどこの清貫、御所の者どもに迷惑をかけたか、それを当たり前にしてありがたいとも思わず、喜んで世話をしてくれていると思い込んだ。その自分を見つめ直すところから」

 「この逢坂山で修行に励みなされ。生まれてから今日までどれほどわがままに振る舞い、まわりに迷惑をかけ、それを知らずにあぐらをかいてきたか。ひとつひとつ点検してこころを作り直さないといけませんぞ」

「苦労しますな、生まれが高すぎると。」

「天皇になってはならぬ者が天皇に戻ろうとしたら謀反ですぞ。なれば今度こそ。その命は(なくなる)。」

 そして清貫は去っていく。

 わたしは天皇家の面々がどのような生活をしているのか知らない。現在でも天皇家の世話をしている多くの人々がいるのだろうが、どのような心構えで接しているのだろうか。想像すらしたことはない。また現実の生活の中で、皇族はまわりにいる者たちに「迷惑をかけ」ているのだろう。

 さて最後の台詞は、三景への伏線となる。これで一景は終わる。

(この項続く)

 

 

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「蝉丸と逆髪」(1)

2024-10-26 09:49:33 | 演劇

  くるみざわしんさんから、演劇の台本を送っていただいた。「蝉丸と逆髪」という今年10月に上演されたものである。この台本を読みながら、この劇こそ実際に観ないとわからないと思った。

 台本はことばだけで綴られている。台詞だけではなく、ト書きも書かれてはいるのだが、しかしこの台本のもとは、能の「蝉丸」である。「蝉丸」を改作してつくられた台本が、この「蝉丸と逆髪」なのである。

 能は、舞台上で演じられはするが、舞台背景は他の演目と変わらない。少しはいくつかの装置が用意はされるが、ふつうにみる演劇のような丁寧な装置は用意されない。能舞台は、橋懸かりとともに一定の構造をもち、そこで演技はなされる。そしてそこでは演者だけではなく、囃子や謡を担当する人びとが座っている。だから、演者の台詞だけでなく、笛や鼓の音もある。それに演者は仮面をつける。

 だから、実際に演じられるその場にいて、観なければならない。若い頃、水道橋の能楽堂で能楽を観たことがあるが、そこには独特の雰囲気があったことを覚えている。

 さて、この台本を理解するために、わたしは「蝉丸」を読んだ。「蝉丸」は、「百人一首」にもある「これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも あふ坂の関」という歌の作者である。盲目の琵琶奏者で、逢坂の関、山城国と近江国の境界の山に住まいしていたという。

 謡曲「蝉丸」は、「蝉丸」を醍醐天皇の第四皇子とする。生まれつき盲目の「蝉丸」を、醍醐天皇は逢坂山に捨てるように、廷臣の清貫に命じる。「蝉丸」は、父醍醐のこの措置を、「前世の戒行が拙」かったためで、現世で「過去の業障」(ごっしょう、と読む。悪業によって生じた障害)を果たして来世に備えろということだろうと善意に解釈する。清貫は、「蝉丸」の髪をおろし、蓑を着せ、笠と杖を置いて去っていく。宮中でしか生活していなかった「蝉丸」は、「乞食坊主」となったのである。「蝉丸」は琵琶を奏でる。

 そこへそれ以前に捨てられた醍醐の第三皇子、「逆髪」(さかがみ)が登場する。「逆髪」は「狂人」となってさまよっている。琵琶の音を聴き、「蝉丸」のいる「藁屋」に行き、「蝉丸」の声を聞いて弟であることを知る。二人はこの境遇を嘆きしばし語らうが、「逆髪」は去っていく。なお「逆髪」は「翠の髪は空さまに生い上って」撫でつけても下がらないという頭髪であるが故に、「逆髪」という。

 ではこの「蝉丸」の意味はどこにあるのか。非情にも、盲目の「蝉丸」を宮中から追い出し、「乞食坊主」とした皇室への批判?「狂女」である「逆髪」も宮中から出ているが、出されたのかはわからない。「心より 心より狂乱して 辺土遠郷の狂人となつ」たのである。宮中から出た二人の姉弟がみずからの境遇を嘆き悲しみ、そして別れていくその二人がかわすことばと情感の機微を主眼にしたのかもしれない。

 わたしはここに着目した。「逆髪」は、「童部」(子どもたち)に笑われる。それに対して「逆髪」は、その笑うという行為を「逆さま」だという。「花の種は地に埋もって千林の梢に上り 月の影は天にかかって万水の底に沈む 是等をば何れか順と見 逆なりと謂はん」。何が「順」で、何が「逆」なのかは、最初から決まっているわけでもなく、相対的なのであるということを言おうとしたのか。

 画家の香月泰男は、「東洋画と西洋画の違いの一つは、余白にあると思う。東洋画に独特の余白の存在は、カッチリ描き込まれた西洋画のバックとはちがって、なんとも融通無碍なものである。西洋画のバックには一つの解釈しかないが、東洋画の余白は見る人次第で、どうにでもなる。」(『シベリア鎮魂歌』50頁)と語っているが、能にも「余白」があると思う。その「余白」とは、観る者の想像力に依拠する部分というか、それが大きいように思われる。能楽堂という空間、あるいは簡単な装置、謡のことば、そして笛や鼓の音、それら全体は、こうである、という主張をするのではない。観る者がそれぞれに「空白」を埋めていく、そういうものが能にはある。

 この項続く。

 

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