浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「蝉丸と逆髪」(4)

2024-10-27 13:36:47 | 演劇

 ここで記しておこう。精神的疾患をもった天皇はいた。967年に即位した、醍醐天皇の孫、冷泉天皇である。即位の前から精神的疾患があったことは、「皇太子始めて心を悩む。尋常にあらず。」(『日本紀略』)に記されているとおりである。したがって、精神的疾患があると皇位に即けないということはなかった。これに対応して、治癒を求めて様々な祈祷が行われたことは言うまでもない。

 ちなみに、清涼殿で殺人事件を起こした天皇もいた。陽成天皇である。

 三景について書いていくことにしよう。

 荷車を引いた「逆髪」と「蝉丸」が逢う場面である。

 「蝉丸」は、自らが目が見えない原因を、「前世の因縁」に求める。それに対して「逆髪」は、「前世の因縁などない。あるのは現世の事情だけだ」と断言する。そして「連中はお前を捨てたい。そのための理由が欲しい。それが皇室典範。御仏の教え。前世の因縁」と断じる。しかし「蝉丸」は、そうした言葉を理解できない。「逆髪」は「蝉丸」を「木偶の坊」という。「望まれたとおりの言葉をしゃべり、動き、食べ、泣き、眠る」、そういう他者に動かされる者は「木偶の坊」だとする。そして「逆髪」は、理解できない「蝉丸」を置いて去ろうとするのだが、そこに清貫が現れる。

 清貫は、「蝉丸」を都に連れて行こうというのだ。清貫は醍醐天皇を「捨てて」、「蝉丸」を新しい天皇にたてようとしているのである。「謀反」にほかならない。

 「逆髪」は、「さっき捨ててもう拾いに来るのは新しい使い道がみつかった証拠」だと断言する。「蝉丸」と清貫、「逆髪」を交えての会話が続く。「逆髪」の指摘にもかかわらず、「蝉丸」は清貫と都に帰ろうとする。「逆髪」は、都に帰ろうとする「蝉丸」に、都へ行けば父・醍醐と殺しあうことになると告げる。そのような会話をへ、結局「蝉丸」は残ることに決める。清貫は、「なりたくなくてもなるのが天皇家に生まれた者の務め」だと固執するのだが、「蝉丸」「逆髪」ともに、「あんな家に生まれたくなかった」という。

 そして「逆髪」は、「あの家にあるのは我慢我慢我慢。自由はとんでもなく悪いものにされて腹の底に押し込められる。ところがうっぷん払いの好き放題は許されて、自由と不自由が逆さま。楽しいと楽しくないが逆さま。うれしいとうれしくないが逆さま。髪の毛は逆立っていないのに心は逆立って澱み、渦を巻いて出口がない。この逆髪のこころに清い水が流れるのとは大違い、鼻をつままないではいられないドブ水が流れを失って澱んでいる。逆さまのあべこべ。あの家にはこの逢坂山にいくらでもある自由がない。」と語る。

 すでに「逆髪」は、天皇家にない自由を得ている。その自由がもっとも大切なものであることを知っている。しかし「蝉丸」はその入り口にたどりついたところだ。

 天皇家、天皇制にくっついているということは、すなわち自由を持てないということだ。清貫は天皇制にくっつくことにより公卿となった。しかしそこと離れてしまうと、清貫も逢坂山で自由を知ることになる。

 「蝉丸」は問う、「その荷車には何を」と。「逆髪」は「逢坂山を乗せておる」と応える。またさらに「京の都もこの上に」という。逢坂山は自由で「無縁」の地である。逢坂山は京の都の近くにある。「逆髪」は、清貫も滑り落ちて逢坂山、自由な地にやってくることになろうと予想する。

 「蝉丸」は、京の都に還ることを拒み、自由の場に留まる。

 くるみざわは、つまるところ、天皇制とくっついている限り、自由はないのだということ、そのことを、観る者に、声高ではなく、この劇を通して感得してもらいたいと思ったのではないか。わたしは、そう解釈した。

(おわり)

 

 

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「蝉丸と逆髪」(3)

2024-10-27 10:22:09 | 演劇

 台本は、官僚組織の本質を穿つことも目的としているのではないか。官僚(役人)は、上からの理不尽な求めに対して、己を虚しくしてそれに従う。おそらくそれ以外の身の処し方はないのだろう。理不尽な求めに良心の呵責を覚える官僚(役人)は、その職に留まることはできない。なかには、もと文部事務次官の前川喜平氏のように、「面従腹背」で官僚の最高位にまで就くような人もいるが、それは希有なことである。わたしは、「面従腹背」は無理である。

 さて二景に入る。

 清貫は、「蝉丸」を乗せてきた荷車を引く。その荷車を「こんなボロ車」だとして蹴り飛ばし、「蝉丸」の服を茂みに投げ入れる。そこへ「誰だ」という声が。ここに、「蝉丸」の姉である「逆髪」が登場する。これは、原作にはない光景である。

 清貫は隠れる。「逆髪」は、子どもたちの笑い声を聞き、原作に沿った台詞を語る。もちろん原作通りではない。異なる台詞は、のちに掲げる。「逆髪」はこういう。わたしが肝(きも)だと思う部分である。

 「(私が笑っているのは)世の中の逆さまを笑っておるのだ。いや、逆さまなしではやっていけない世の中が、逆さまなしでやっているかのような顔をしているのがおかしくて。」

 「花の種は地下に根を伸ばし、地上に芽を出し花を咲かせて天に向かう。夜の月は天で輝きを放ち、池の水面を潜ってその底に沈む。花も月も地中水中と天をめぐり両方にある。どちらか一つを捨てるわけにはいかん。世の中には正も逆もない。」

 この個所について、台本に次の台詞がかぶさる。その台詞は、

「よく似た境遇だから助け合えばいいのに逆さまに争っているだけ。逆さまでないものはどこにもない。それをそのまま見ればいいものを人はどちらかを逆さまとし、どちらかを逆さまでないと見てしまう。そのまま目に映すことができない。」

「お前達は私を笑い、私もお前達を笑う。ただ笑があるだけでこの逆髪とお前たちはひとつ。区別はいらん。」

 であるが、台本は、支配権力の支配方式、分裂させ対立させて支配するという方式を指摘する。「現代」に対する批判である。

 そして「逆髪」は、「蝉丸」の衣と「蝉丸」を乗せてきた荷車を見出す。そして清貫をも思い出す。清貫によって、「逆髪」も同じような荷車で、「縛り付けられて」連れてこられたのだ。このあとは、「逆髪」と清貫の対話が続く。原本にはない設定である。台本では、この場面に改作の意図をこめているように思える。

 「逆髪」はおのれを捨てた清貫を責める。しかし清貫は、捨てたのは醍醐天皇だと答える。捨てた理由は、御所内で「逆髪」が「とんでもないこと」「思うがまま」を口に出していたことで、「それがいかん」ことであったというのだ。「逆髪」は、御所では自由に喋ることができず、逢坂山では自由に喋ることができる、それがおかしいのだと指摘する。そのような「区別」の存在こそがあるべきではないと。清貫は、「逆髪」を「けだものめ」という。子どもを荷車にくくりつけて捨てるのは「けだもの」だと「逆髪」はいう。そして「人間とけだものはひとつ。区別をつけるのはどちらか一方を隠すため、ふたつがひとつに重なったとき、清貫の」正体があばかれる、と「逆髪」はいう。

 そのあと、天皇の「幻」をめぐる会話がある。もちろん清貫は「幻じゃない」というが、「逆髪」は「天皇などというものは」、「幻」であると思っている。

 天皇は、日本というくに、そこに住む人びとの「幻想」を基盤にしている、とわたしも思う。「幻想」に立脚した天皇という存在、そうであることを知りながら支配層は、天皇を利用する価値があるとみて、「幻想」をあたかも実体があるかのように振る舞い、また弘布宣伝する。支配層の一員たる官僚は、「幻想」によってつくりあげられた天皇を権威の源泉であるかのように位置づけ、その権威を背景にして動く。しかしそうするのは、おのれの地位、名誉、財産が第一の目的であって、心から天皇を尊崇しているのではない。

 そうした官僚としての清貫の本質が、「逆髪」との会話により、逢坂山で暴露されていく。

 そして「逆髪」はこう語る。

「天皇は天皇を愛しておる。ただそれだけ。なのに民は愛されたいから天皇が愛してくれていると思いこむ。天皇はその弱みにつけ込んで天皇家を守るために民を愛しているふりをする。お前もその民の一人。まんまとだまされて。わかるか清貫」

 これも天皇制の一側面だ。ここでも、天皇の存在は「幻想」によって成りたっていることを示唆する。天皇と民との間には、天皇と官僚との間、官僚と民との間に「愛」がないのと同様に、「愛」は実在しないのだ。

 また「物狂いを捨て、目の見えぬ者を捨て、残る天皇家に何の意味がある」と、「逆髪」は清貫に問う。清貫は去って行く。

 そして「逆髪」は「蝉丸」を求めて、荷車を引いていく。

 そこで「逆髪」は、重い言葉を語る。

「私が伝えたいのは、この逢坂山でよかったという思い。衣はいらぬ。何もかも逆さま。そして逆さまでないこの世を求めて人は狂う。」

 「逆さでないこの世」とは、おそらく区別(差別)なき、自由なこの世であろう。そこは、網野善彦が『無縁・公界・楽』で説いたアジールなのだろう。

(この項続く)

 

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