浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

親の存在

2024-10-11 21:29:39 | 日記

 親が生きているということは、自分自身の死の準備をしなくてもよいということだ。親は、わたし自身の死の防波堤であった。

 しかし、親が亡くなると、親のもろもろのものを捨てるという作業を余儀なくされる。それは親が生きていた証しを消し去るということでもある。わたしの子どもも、孫も、わたしの親の存在を認識している。しかし、その後の世代は、当たり前のことだが、わたしの親については、まったく知らない人となる。親の生きていた証しは、いずれ消えていく。

 親にかかわるもろもろのものを処分するなかで、わたし自身の死後に、家人や子どもにその作業をできるだけさせないようにしたいと思うようになっている。親のものを捨てながら、わたし自身のものも一緒に捨てはじめている。

 いずれ、わたし自身もこの世を去る。そのことを意識せざるをえなくなっている自分自身を見つめる。

 と同時に、わたし自身の人生を振り返るという作業もはじめている。

 振り返ろうとするとき、ほぼ同世代の人びと、わたしの脇を駆け足で通り過ぎた人びとのことが気になる。

 『週刊金曜日』の書評欄に、『連合赤軍 遺族への手紙』という本が紹介されていた。わたしとほぼ同世代、いや彼らの方がおそらく年上であるだろうが、陰惨な事件のなかでこの世を去って行った人びと、あるいはその事件を起こした当事者=加害者の精神が、この本には書かれているのだろう。なぜそういう生き方をしたのか、わたしは知りたい。

 またウーマンリブの田中美津さんが亡くなられた。わたしは彼女を知らないのだが、雑誌などを通して、田中さんの活動はわたしの視野には入っていた。

 『世界』、『地平』11月号に田中美津さんのことが書かれていた。『世界』の山根純佳さんの文のほうが、わたしには新鮮だった。「お尻を触られて「あ、セクハラ」と叫ぶのはフェミニズム、お尻を触られたらビシャッと殴る、殴れなかった無念さから出発するのがリブ」という説明は納得的であった。

 田中さんの文が紹介されている。

「「平等」とは私らは等しくみな、「世界で一番大事な自分」を生きているということであり、「自由」とは、「自分以外の何者にもなりたくない」という思い」

 なるほど、である。田中さんは、「人の言葉で生きるな、自分の言葉で生きろ」と子どもに言っていたようであるが、まさに平等と自由とを、自分のことばで語っている。

 視野に入っていた人びとが、この世から去って行きつつあるとき、彼ら、彼女らの生き方やことばを、知りたいと思うようになっている。

 自分自身にできなかったことは何なのか、振り返る年令になっている。

 

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名前

2024-10-11 13:46:37 | 社会

 『世界』11月号には、袴田事件に関する文が二本掲載されている。その中の一本目、藤原聡による「「袴田事件」の58年」には、詳しい日附と事件に関わった氏名が記されている。

 「こがね味噌」の専務宅で殺人と放火があったのは、6月30日。翌日の7月1日、清水警察署の捜査官が、袴田さんと交流があった渡辺さん宅に来て、袴田さんの写真を持っていった。捜査員は、「(犯人は)袴田しかいない」と言っていたという。そして7月4日、警察は従業員寮の袴田さんの部屋を捜索し、パジャマなどを押収した。その日の夕刊、毎日新聞、静岡新聞が、「H」、「従業員某」として、袴田さんがあたかも犯人であるかのような報道をした。そして翌5日、各紙が、「(袴田さんの)パジャマには大量の血痕がついていた」と報じた。

 実際には、パジャマには「大量の血痕」はまったくついていなかった。

 要するに、静岡県警・清水警察署は当初から袴田さんを犯人だとし、そのための捜査を行っていたのである。

 あまりにも証拠がない!ということから、清水署は、日本警察の特徴である「自白をとる」ことに全力を傾注した。極めて長時間に及ぶ取り調べ。その取り調べに当たったのは、羽切平一警部らであった。

 静岡県は、「冤罪のデパート」といわれる。島田事件、幸浦事件、小島事件、二俣事件などがある。これらはすべて冤罪としてすでに終了している。わたしは幸浦事件、小島事件について書いたことがあるが、これらの捜査に当たったのは、紅林麻雄警部補らであった。紅林は、「拷問王」と呼ばれていた。

 こいつが犯人だと決めると、強引にその人を犯人に仕立て上げる。そういう警察であった。

 袴田さんの取り調べに当たったのは、羽切らであったが、羽切は紅林の部下で、幸浦事件で紅林と捜査に当たっていた。

 あまりに強引な取り調べがなされたことから、供述調書45通中、44通は「証拠能力がない」とされた。袴田さんを犯人にするためには、あまりに証拠がないという状況の中ででてきたのが「五点の衣類」であった。

 それをもとに、静岡地方裁判所の石見勝四裁判長は死刑判決を下した。

 東京高裁では、「五点の衣類」のうちの一点のズボンを、袴田さんは、はくことができなかった。裁判長はズボンについていたタグの「B」をウエストサイズだとし、味噌の中に長期間あったことから縮んだのだとして、控訴を棄却した。

 検察はタグの「B」がウエストサイズではないことを知っていた。しかし、その証拠を隠した。「B」は色を表していた。

 そして最高裁に上告されたが、棄却。

 袴田事件は、静岡県警察と検察とがつくりあげたでっちあげであった。

 でっちあげた人たちの名、警察官や検察官、裁判官を、しっかりと記すべきであると思う。同時に、今は反省をしているけれども、メディアがどのように報じていたのかも白日の下にさらすべきである。というのも、冤罪をつくるのは、警察や検察、裁判所だけではなく、新聞などのメディアであるからだ。

 この文を書いた藤原聡が、11月に袴田事件に関する書物を岩波書店から発行するという。冤罪をもたらした責任者たちの名を明確に記し、同時にメディアの責任にも厳しく言及すべきである。

 袴田事件のような冤罪事件をつくらないように・・・・・

 

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