浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「パレスチナのこと」

2024-10-29 19:42:45 | 

 ミシマ社の『中学生から知りたいパレスチナのこと』は、新たな歴史認識に誘う良書である。以前にも紹介したが、パレスチナ問題を考えるにあたって、この本はもっとも本質的なことを記していると思う。記されていることに、立ち止まって考えるという体験は、本を読んでいてあまりないが、本書は様々な気づきを与えてくれた。

 引用された埴谷雄高のことば。

「敵は制度、味方はすべての人間、そして認識力は味方の中の味方、これが絶えざる死の顔の蔭に隠れて私達ののあいだに、長く見つけられなかった今日の標語である。」(『幻視のなかの政治』未来社)

 敵は、すべての人間のなかに区別をつくりだし、差別して分断していく。その手段として、いろいろな制度を生みだす。国境もその一つだ。また言説も、「敵」がつくりだすものならば、それは制度に他ならない。つくられた制度は、さらに区別する力を強化し、それを差別化し、分断を強めていく。

 イスラエルに移民として入植してきたユダヤ人の多くは、中・東欧からが多いという。その地域は、「流血地帯」(blood land)といわれるそうだ。

 わたしは今、『ナチズム前夜 ワイマル共和国と政治的暴力』(原田昌博、集英社、2024年)を読んでいるが、ワイマル共和国時代、ドイツ国内では、同国民を殺傷する暴力事件が頻繁に起きていたことを知って驚いたが、そのドイツの東側の地域は「流血地帯」と呼ばれ、まさに多くの血が流されていた。他人の血を流すことに何の痛みも感じない、そうしたことに慣れたユダヤ人が、シオニストとなってイスラエルを建国し、担ってきたのである。

 イスラエルの果てしない暴力をみつめるということは、欧米の歴史をひもとくことにならざるを得ない、ということになる。

 ユダヤ教徒であるとしてのみあったユダヤ人、しかしそのユダヤ教徒を「中東に由来するセム人」だとして、ユダヤ教徒を単なる宗教的な存在としてではなく、「人種」として区別し差別するという動きが、近代になって生まれた。シオニストのユダヤ人は、それを利用し、みずからをセム人として措定し、だから私達はパレスチナに祖国を持つ権利があると主張し、イスラエルという国家をつくった。

 人種概念を創造したのは、欧米である。そしてイスラエルは、「入植者植民地主義」国家で、植民地主義も欧米原産であり、さらに「優生思想」もである。まさにナチズムの思想は、西欧由来のものであった。

 それらをイスラエルという国家がまとめ、パレスチナ人を攻撃し殺戮している。

 イスラエルの問題は、欧米近代史のなかから生まれてきた。パレスチナ問題を考えるということは、西欧近代史をさかのぼることになる。

 きわめて知的刺激にあふれた本である。この本は、図書館から借りてきたが、返却して購入するつもりである。

 

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選挙結果

2024-10-29 07:32:55 | 政治

 衆議院議員選挙が終わった。悪政をこれでもか、これでもかと続けてきた統一教会党=自民党、創価学会党=公明党のカルト政党の議席が大幅に減ったことは。大変うれしく思う。統一教会との癒着があれほど糾弾されたにもかかわらず、統一教会ベッタリの輩がまたもや当選したことに、わたしは驚く。

 統一教会は、霊感商法や信者への高額献金を強いて多額のカネを韓国の教団本部に送金してきた。文鮮明、韓鶴子を最高権威者として、信者はかれらにひれ伏すという教義である。統一教会は、岸信介、安倍晋三、萩生田某らをつかい、日本の政治に介入していた。そして「家庭」が大切だとして家庭を壊し、家父長的な教義を強いてきた。

 そしてそのような統一教会とは本来なら対立するはずの日本会議(かれらもある種のカルトである)は、統一教会と手を組み、日本の政治を右へと引っ張ってきた。

 そのような勢力の介入を許さないためには、選挙民が選挙に行くことが大切であるのに、今回の選挙でも、投票に行く者は少なかった。残念なことだ。

 ネットで、れいわ新選組の福岡の候補者である奥田ふみよが、日本の学校では主権者教育がなされていない、政治的教養が育てられていないと演説していたが、その通りである。学校では、あたかも日本政府がアメリカに隷属しているように、子どもたちをその日本政府に隷属するような教育を行っている。教科書検定の実態、道徳教育などをみれば明らかである。また文科省の教員統制政策(教員の序列化など)も、強化されている(だから教員のなり手が減っているのだ)。

 若者たちが投票に行かない。主権者としての意識が育てられていないのである。わたしが投票したところでも、若者はひとりもいなかった。

 さて、選挙民は、カルト政党の議員に投票しなかったということは評価したい。しかし政治はそれでよいわけではない。どのような政策が行われるかである。自民党・公明党政権は、今までと同じような悪政を続けることは困難となることだろう。しかし、だからといって、30年以上にもわたる低迷する国民の経済生活(それは貧困化に代表される)を改善することは難しい。立憲民主党に多くの票が集まったが、わたしはれいわ新選組代表の山本太郎さんがいうように、立憲民主党にはほとんど期待することはない。立憲民主党の幹部は、自由民主党から流れてきた者、自由民主党から立候補しても不思議ではない人士がたくさんいるからだ。外交、防衛政策は自民党・公明党政権と、ほとんど変わらないだろうし・・・・

 小選挙区制が実施される前の選挙は、熱気があった。しかし小選挙区制が導入されてから、選挙は面白くなくなった。小選挙区制の導入は、選挙民の政治への関心を低下させたのではないかと思う。その点で、小沢一郎の罪は重い。

 わたしは、選挙には行くけれども、気分は沈んでいる。政治がよくなるという感触を得られないからである。新聞は選挙結果を大きく報じている。カルト政党の自民党や公明党の議席は減ったが、わたしのこころは沈んだままである。

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