昨日ボクは、「シュトルム・ウント・ドランクッ」という映画を見た。大杉栄の周囲にいた人びとをとりあげたものだ。その人びとは、ギロチン社、労働運動社に集っていた。
1923年9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が甘粕ら憲兵隊に虐殺された。ギロチン社、労働運動社の人びとは、その報復を企図した。その経緯については、とりあえず鎌田慧の『大杉榮 自由への疾走』(岩波現代文庫)を参照していただきたい。
映画は、彼らを描くのだが、彼らは、まったくふまじめだ。ふまじめだけではなく、ドジでもある。暇があれば花札をし、そばを食べ、ある者は遊郭に行く。彼らは、徹底的に戯画化されて描かれていた(「戯画」という語の意味には、風刺というものがあるが、風刺という側面はなかった)。
ボクは、映画を見ていて、もっていた彼らに関するイメージがからかわれたような気がした。あの時代、社会変革の可能性に賭けた人びとは、もっともっとまじめに生き、真剣に討議していたはずだ。そうでなければ、社会変革の活動はできない。
ボクは、まず映画の内容に幻滅を感じた。
この映画の評価をネットで探したが、内容的なところでの批評はみあたらない。色彩や効果音など、そういう面に関する言及がほとんどだ。
この映画、ボクが学生の頃よくみていた「前衛劇」にきわめて似通っていた。「前衛劇」は、「意味」があるような台詞や場面をちりばめ、なにやら哲学的に深いように思わせながら、結局「意味」はなく、ただその劇を見ている間、楽しめれば(この場合の「楽しみ」はきわめて多義的な意味でつかっている)よい、というものであった。
この映画も、題材を大杉とその周辺の人物を描きながら、基本的には彼らの存在そのものの意味なんかどうでもよいのだろう。
昨日の講演も映画も、「軽チャー」であった。それが若い世代にはうけるのだろうか。
先日、you tubeで児童文学者の清水真砂子さんの講演を聴いた。今の若い人びとは、まじめなことを話す場がないという指摘があった。しかし、真面目であること、まじめに取り組むことはとても大切なことだと思う。昨日の講演と映画には、それがなかった。
1923年9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が甘粕ら憲兵隊に虐殺された。ギロチン社、労働運動社の人びとは、その報復を企図した。その経緯については、とりあえず鎌田慧の『大杉榮 自由への疾走』(岩波現代文庫)を参照していただきたい。
映画は、彼らを描くのだが、彼らは、まったくふまじめだ。ふまじめだけではなく、ドジでもある。暇があれば花札をし、そばを食べ、ある者は遊郭に行く。彼らは、徹底的に戯画化されて描かれていた(「戯画」という語の意味には、風刺というものがあるが、風刺という側面はなかった)。
ボクは、映画を見ていて、もっていた彼らに関するイメージがからかわれたような気がした。あの時代、社会変革の可能性に賭けた人びとは、もっともっとまじめに生き、真剣に討議していたはずだ。そうでなければ、社会変革の活動はできない。
ボクは、まず映画の内容に幻滅を感じた。
この映画の評価をネットで探したが、内容的なところでの批評はみあたらない。色彩や効果音など、そういう面に関する言及がほとんどだ。
この映画、ボクが学生の頃よくみていた「前衛劇」にきわめて似通っていた。「前衛劇」は、「意味」があるような台詞や場面をちりばめ、なにやら哲学的に深いように思わせながら、結局「意味」はなく、ただその劇を見ている間、楽しめれば(この場合の「楽しみ」はきわめて多義的な意味でつかっている)よい、というものであった。
この映画も、題材を大杉とその周辺の人物を描きながら、基本的には彼らの存在そのものの意味なんかどうでもよいのだろう。
昨日の講演も映画も、「軽チャー」であった。それが若い世代にはうけるのだろうか。
先日、you tubeで児童文学者の清水真砂子さんの講演を聴いた。今の若い人びとは、まじめなことを話す場がないという指摘があった。しかし、真面目であること、まじめに取り組むことはとても大切なことだと思う。昨日の講演と映画には、それがなかった。