浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】樋田毅『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』(光文社新書)その2

2024-08-24 12:04:16 | 

 この本を読んでいて、統一教会に入信した者は、特殊な人格へと変貌している、「洗脳」されているとしか思えない。

 この「懺悔録」に記されている内容には、まさに統一教会の信者としての人格しかなく、高校生まではふつうの生活や学びをしてきたのであろうが、しかし書かれている内容には、知の集積はまったくみられない。たとえ統一教会幹部として生きてきたとしても、統一教会信者としての活動や思考だけではなく、それに関わらない、あるいは関わる諸々の知とまったくつながっていない。完全に削ぎ落とされているのだ。

 たとえば彼は、自民党にはこれからは頼らずに「独自の政党」をつくるべきだとし、その「政党の政策は、愛国の義務、自衛隊を防衛軍に名称変更、国家機密保護などを盛り込んだ憲法改正と、家庭倫理の確立です」と書く。別に彼らの政策について詳細に知りたくもないが、本書は一般書籍であり新書である。なぜそのような政策が求められるのかという記述はなく、それらは所与の前提となっている。統一教会という宗教組織と、彼自身の思考とが完全に一致しているのであり、そこには彼自身の独自の考え、その政策に至るおのれの思考の連鎖などはまったく書かれていない。おそらく彼にとって、統一教会に入信することは、それまでの自分自身のなかにあった知とは無関係の「世界」(統一教会の精神世界)に飛び込む、ということなのだ。一般的に、キリスト教などの精神世界と日常の生活とは断絶があり、信仰を持つということはその断絶をのりこえ、一気に宗教世界に飛び込んでいく、その後はその宗教の精神世界を「丸呑み」するしかない。信仰の世界に入るということは、知の連鎖でつないでいく結果としてあるものではなく、飛びこんでその「教義」をある意味で「丸呑みする」のである。

 「丸呑み」した後は、その「教義」を疑問を持つことなく受容していくしかない。宗教的な精神世界にはいるとき、個人的な煩悶は、おそらく消えるのである。

 この本には、統一教会と、岸信介をはじめとした自由民主党政治家との深い関係、自衛隊との親密な関係、他の右翼勢力とのつながり、そしてクーデター計画など、統一教会が関わった諸々の動きが記されている。彼には、そうした諸々の活動について逡巡したり煩悶したりすることはない。正邪を考えることなく、統一教会の信者としてそうした活動の尖兵となって働く。疑問をもたない。

 今彼が「批判的」になっているのは、「霊感商法」であり、それが難しくなったあとに展開された信者を獲得してカネを巻き上げること、そしてそれらの活動の結果集められたカネが韓国の本部に送金されること、だけである。なぜそれに「批判的」になっているかといえば、そうした活動をやめることにより、彼があるべきだと考えている統一教会の教えに立ち戻ることができると思っているからだ。

 わたしは昨日も書いたが、おそらくそれは無理だろう。宗教の多くは、信徒からカネを集め、教祖はじめその周囲にいる者たちに豊かな生活を提供する組織だからだ。統一教会は、まさにその典型である。

 読んでいて、統一教会に入信するということは、身も心も教祖に提供する、それが正しいことと錯覚させる、まさに「洗脳」されるということだと思った。彼もまたそのひとりである。

 この「懺悔録」は、一般の庶民、統一教会の活動によって被害をこうむった人びと、そうした人びとに対する「懺悔」ではなく、いまだに文鮮明を信奉している自分自身への「懺悔録」でしかない。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本外務省と旧統一教会 | トップ | バングラデシュの若者たち »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

」カテゴリの最新記事