静岡市で何らかの催しがあるとき、わたしは東海道本線で静岡に向かう。途中、藤枝駅からもと高校教員のTさんが乗ってくる。何度か一緒になった。Tさんは、それはそれは理不尽なことに素直に怒りをもち、平和を求める活動を積極的に行っていた。
あるときTさんは、電車の中で、「60代は元気に活動できるけれども、70代になると身体にいろいろ故障がでてくるから、やれることは60代までにしっかりとやっておかないといけない」と語っていた。わたしより一回りも上のTさんのことばは記憶に残っている。
そのTさんは、自転車に乗っていて顛倒し、自身は脇の用水に落ちた。ケガはほとんどなかったようだが、用水の水を飲んでしまったようで、肺に菌が入って、そのために亡くなった。
ほんとうに、優しく、知的でよい人であった。わたしは、亡くなられたことをかなり経ってから聞き、なんてことだ、と思った。Tさんのような人間には、もっともっと長く生きてもらいたかった。
昨日、ひとりのクリスチャンが亡くなられたというメールが届いていた。メールを読みながら、なんでまた、と思わざるを得なかった。北海道で牧場をやっていたNさん、出身は静岡であった。
召集された父の上官であり、父の死後も、母を励まそうとずっとたよりを寄せていただいた無教会派のクリスチャンであるIさんも静岡にいた。Iさんからの年賀状は、聖書からの引用で、いつも平和に関するものであった。子どもの頃から、Iさんの年賀状を見ていたわたしは、Iさんにいつかお会いしたいと思っていた。溝口正先生のお計らいで一度お会いすることができたが、思っていた以上のよき人であった。Iさんはすでに亡くなられているが、Nさんは、Iさんらが集っていた聖書集会の関係者であった。
キリスト教にもいろいろな集団がある。わたしも生きてくる中でいろいろなキリスト教のクリスチャンと接する機会があったが、そのなかでクリスチャンも信仰によるのではなく、人それぞれだということを学んだ(なかにはヒドイ人もいた)。しかし、無教会派のクリスチャンは、皆さん、とてもよき人であったし、今もそうであり続けている。
わたしはNさんを直接知らないが、『みぎわ』に書かれていた文を読むと、溝口先生やIさんと同様に、尊敬すべき人格者であることがわかる。そういう方が亡くなられたということに、わたしのこころは大きな悲しみを感じる。
よき人がこの世を去っていく報をきく度に、なんでまた・・・・と思う。よき人とは、この世でもっともっと活躍していただきたい方である。そういう方とわかれるということは、悲しいのである。