浜名史学

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矛盾のこと~「伊藤詩織」問題

2025-02-18 09:13:00 | 社会

 矛盾には、敵対的矛盾と非敵対的矛盾とがある。後者は矛盾ではあるけれども、その矛盾が決定的に決裂を招くものではない。

 他者との関係はなかなか複雑であって、それまで仲よく足並みを揃えて、あるいは手を取り合っていろいろな活動をしていた他者との間に、突然矛盾(問題)が生じてしまうことがある。しかしそのように発生する矛盾は、基本的には非敵対的な矛盾であって、話し合えば解決する。両者のあいだには、いままで培ってきた信頼関係が存在しているからだ。

 ところが、本来非敵対的な矛盾であったもの、それが敵対的矛盾に転化する場合はどのような場合か。

 今までいろいろな市民運動に関わってきたが、ときにたいしたことでもないことが原因で敵対的な矛盾となって関係が決裂し、足並みを揃えることができず、今までの両者の関係が切れてしまう、あるいは対立してしまうことが何度かあった。原因となったことは何であったかを振り返ると、ひとつは、協調するよりも自分自身が抜きん出ていきたいという欲望をもち、それにともなった行動を起こすことであった。これは個人でもあったし、政党でもあった。今までの信頼関係を台無しにする裏切りをおこなう、ということである。

 そういうことをされた場合、わたしはその他者を攻撃することはせずに、まったく関係を絶つ、できるだけ顔を合わさないようにする。その後は、一緒の行動は一切しない。一度裏切った者は、同じことをする信頼できない人物だからである。

 裏切りを行う者は、じつはたいした人間、あるいは集団ではない。そういう人間、集団であるからこそ、他者を裏切ることができるのである。たいした人間(集団)でもないのに、奢りを持ち始めるのである。

 奢りは、人間にとって、集団にとって、もっとも戒めなければならないことだ。奢りをもち、それを外面に表している者、集団は、実はもとから信頼に値しないのである。そうはいっても、今までの関係から、他者に奢りを感じていても、関係はすぐに断たれることはない。しかし残念ながら、一度頭をもたげたその奢りは徐々に増幅して、非敵対的な矛盾から敵対的な矛盾へと急速に転化していく。その転化の引き金を引くのは、もちろん驕り高ぶる側で、あるいは奢りをもって自分だけをより高みへ引き上げようとする者(集団)である。その意味では、彼(彼ら)は利己的である。

 今まで多くの人、集団と協調してきたが、時としてそういう人(集団)にでくわすことがあった。よくよく見つめてみれば、その人(集団)は、ほんとうには力がない、にわか仕込みであった。

 ほんとうに力がある人(集団)は、常に謙虚である。みずからが敵対的矛盾に転化させるようなことをすることもない。わたしはそういう謙虚な人たちと交流し、そこから多くのことを学んだ。

 最近は、できるだけ人間関係を広めないようにし、精神の安定を乱されないようにしているが、ニュースでそういう事例をみると、ここにも奢る者がいたのか、それに振り回される人びとはたいへんだなあと同情するばかりである。

 敵対的な矛盾に転化させる行動をとる者は、みずからが利己的人間であることを自覚せず、自省の念をもつこともない。その人がなんらかの問題を起こしていたとしたら、それはみずからを奢り、みずからをよりぬきんださせたいという利己的な行動により引き起こしたものである。その問題を、実は彼は、あくまでも自己の問題としてのみ捉え、自己の名誉を回復させる手段としてのみ位置づけていたのであり、その問題がもつ社会的な性質については、どうでもよかったのである。だから、その問題に、善意で手を差し伸べてきた人たちを、切りすてることは、彼にとっては難しいことではなかったのである。

 君子危うきに近寄らず、である。年令を重ねた者の経験からの警句である。

〈追記〉なぜこれを書いたかというと、伊藤詩織という人の行動に強い疑問をもったからである。伊藤詩織という人は山口某による被害者で、わたしも同情し、山口某の犯罪、そして山口某の犯罪を見逃した政治の力に怒りを感じたひとりである。

 しかし今回のドキュメンタリーに関する情報を集めてみると、この人の本質は、ドキュメンタリー制作の過程で起きたいろいろなこと、善意の方々によりそれらの問題性が指摘されたにもかかわらず、それを無視し、強引に制作・上映したこと、こちらのほうにあると思った。

 わたしも信頼していた人(集団)から裏切られたことが何度かあるが、その構図とよく似ていると思った。裏切られたとき、なぜ?と思ったが、裏切った者のその後の行動を見ていると、他人を出し抜いても、みずからの立場を有利にしたい、他人に認められたい、地位・名誉を得たいということで一貫していた。

 伊藤詩織という人も、そういう人物なのだと思った。外国から、彼女が制作したドキュメンタリーが高く評価されても、良識ある人びとは離れていくことだろう。彼女みずからが招いた結果である。しかし彼女は、何があっても、有名人になる階梯をのぼっていくことだろう。それが彼女の本性だからだと、わたしは思う。

 今思うと、なぜ彼女は安倍晋三と関係が深い山口と会ったのだろうか?TBSなら、なぜ金平さんと会わなかったのだろうか。

 

 

 

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