芥川龍之介全集の第9巻に入ったところで、いくつかの仕事に追われて芥川から離れていた。12月の2日に一応終わったので、再び芥川龍之介を読むこととなった。とにかく全集を読み終えることだ。
第八巻の巻頭は「文芸的な、あまりに文芸的な」である。「文藝」という文字が本当は使われているのだが、ここでは「文芸」としたが、「文藝」のほうがそれらしい感じがする。私が子どもの頃、岩波文庫は旧字が使われていた。ルビがついていたので漢字を知らなくても読むことができたから、今でも旧字は読むことはできる。旧字の方が格調高いという想いをいつも持っている。
さて「文芸的、余りに文芸的な」は、様々な文学者や文学作品の批評である。これが「續文藝的な、餘りに文藝的な」(これが旧字の表現である)と続く。
しかし私は文学作品を系統的に読んではこなかった。だから作家の名前をみても、芥川が言及している作品を読んでいないことが多い。なかには現在ではまったく忘れられた作家の名前もある。近代日本文学の代表的な作家の作品くらいはきちんと読むべきだ、読まないのは人生の損失だと思いつつ、きちんと読んで来なかった。だから芥川のこの文を読んでも、ある意味ちんぷんかんぷんなのである。だから、「文藝的な・・・・」についてはあまり言うこともない。
「文芸的な・・・」の次は、「本所両国」である。芥川が育った周辺をおそらく編集者とともに探訪したルポみたいなものだ。幼い頃と比較してばらばらと劇的に変貌している姿が描かれる。関東大震災の後だから、よけいに変わっている。それを、幼い頃の記憶とつきあわせながら綴るのだ。
しかし読んでいて、さすがに江戸幕府のお膝元だけあって、違う。私のように田舎に生まれて田舎に育った者(短期間だけ東京に住んだが東京周辺を訪ね歩くということをしてこなかった)からみると、江戸の面影や近代化の中で変貌する首都の姿は、私の住むところの変貌とはまったく質が異なる。さすが都会である。
私は最初、杉並区の明大前、のちに中野区白鷺に住んだ。そこと大学の往復が日常であった。その間、東京の名所をほとんど行っていないので、帰郷してから本を読む中でここは行っておけばよかったと思うようなところをたくさん発見した。
しかし、私の旅行のあり方は、いつでもどこに行くにしても、目的を持ったものが多いので(調査が主)、余分なところは行かないのである。よほど強い動因が生まれないと行かない。強い動因が生じれば海外はじめどこにでも行くというパターンであった。
芥川が「本所両国」に書いたあたりも行ってみたいが、東京の混雑を忌み嫌うようになってから、足が向かない。そうこうしているうちに外国人観光客の増加、そして COVID-19の流行。
私が芥川が描いた「本所両国」に行くことができるのはいつ頃になるだろうか。
芥川龍之介全集第八巻の巻頭は、小説ではない。やっと「歯車」まで来た。次はそれを読む。