久しぶりに芥川を読む。前回「歯車」について書いたが、私はそこに死の臭いを嗅いだ。
次に「西方の人」を読んだ。キリストに関することついての感想が綴られたものだ。芥川は、キリストに関心をもち『聖書』を丁寧に読んだようだ。その跡が記されている。
そして有名な「或旧友へ送る手記」。ここには自死の理由として、「唯ぼんやりとした不安」ということばが記されている。その不安の中身への言及はない。
その後の「闇中問答」も、「或声」と「僕」との問答により成りたっているが、面白い話はない。すでに自死を決意しているように思える。自死を決意した自分自身を点検しているような書きぶりである。
そして「或阿呆の一生」。芥川の心象の変遷をたどりながら記したものだ。そのなかに、これがある。民衆について書かれた同じようなものが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」にもあったような気がする。ドストエフスキーのは、抽象的な民衆を愛することはできるが、具体的にそこに存在する民衆は愛すことはできない、というような文が。
誰よりも十戒を守った君は
誰よりも十戒を破った君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。
誰よりも理想に燃え上った君は
誰よりも現実を知ってゐた君だ。
君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電気機関車だ。
第九巻に収載された文を読んでいくと、芥川の不安とは、狂人となる不安が大きかったのではなかったかと思う。
芥川龍之介全集、第十巻は書簡である。これも読んでいこう。