「あらゆる文芸の形式中、小説ほど一時代の生活を表現できるものはない。同時に又、一面では生活様式の変化とともに小説ほど力を失うものはない。なるほど、昨日の生活を知る為には、昨日の小説を読まなければならぬ。然し、それは「知る為に」である。僕等の心を滲蕩する小説の生命を感ずる為ではない。」
「・・・一人の作家なり、一篇の作品なりは、一時代の外に生きることは出来ない。これは最も切実に一時代の生活を表現する為に小説の支払う租税である。前にも一度云った様に、あらゆる文芸の形式中、小説ほど短命に終わるものはない、同時に又、一面では小説ほど痛切に生きるものはない。従って又、その点から見れば小説の生命は抒情詩よりも、更に抒情詩的色彩を帯びて居る。つまり小説と云うものは、丁度稲妻の光の中に僕等の目前を掠めて飛ぶ火取虫に近いものなのだろう。」
ここに書きつけた芥川の文を読むと、どうも小説というものに限界を感じていたのではないかと思われる。
芥川の文は、おそらく根を詰めて、いかなる語彙をつかうか、これでもない、これでもないとして綴られたものだ。しかしそういうものが、一瞬の価値しかないと思うようになれば、これはもう書けなくなってしまう。
この「文藝雑談」の最後、キリスト(芥川はクリストとしている)の話が出て来る。
「キリストを十字架に駆りやったのはキリスト自身の宗教だったろう。斯ういうのは単に新しい宗教を説いた為に十字架に懸ったという意味ではない。新しい宗教を説いているうちに、十字架に懸らねばならぬ気持ちになって仕舞ったのだと云うのである。・・・・・僕の解釈のように十字架につかなければならなくなったキリストの気持を想像すれば、そこに僕等の日常の気持にも近いものがありはしないかと思って居る。」
キリストがみずから十字架に懸かったこと、それと芥川自身の自死への道筋がつながっているのではないかと思ってしまう。