「たね子の憂鬱」という短い小説。たね子は主婦、亭主は会社員だろう。
夫婦は帝国ホテルで行われる結婚式に招待されていた。しかし田舎生まれのたね子はそれが気になって仕方がない。というのも、結婚式でだされる食事は洋食、たね子はそのマナーを全く知らなかった。
亭主は次の日の午後、たね子をレストランに連れて行き、そのマナーを教えた。
そして帝国ホテルでの結婚式に参加、無事であった。帰路、「食堂」の前を通った。シャツ一枚の男性と女中とがふざけながらタコを肴に酒を飲んでいた。たね子はそれを見て、軽蔑し、同時にその自由さを羨んだ。
たね子は次の朝、夢の話をした。その夢は、汽車の線路に飛び込んで体がばらばらになったが、それでも生きている、というものだった。
たったそれだけの話だ。
ほとんど行くことのない帝国ホテルでの結婚式への参列、洋食を食べるときにみっともないことをしたらどうしようという心配・・・そして「食堂」の光景に、軽蔑し、ということは優越感を抱き、またその自由さをうらやむ。中産階級のもつ意識が記されているのだろう。
私は今まで一度も帝国ホテルに行ったことがない。行こうという気持ちもない。私はそういうところとは縁のない者だという自覚をもっているからだ。
私の立ち位置は、たね子が軽蔑し、羨むふつうの庶民である。そういう立ち位置を崩さずに生きてきた。虚飾を峻拒し、ただ生きる、それだけだ。
芥川はどうしてこの小説を書いたのだろうか。芥川の立ち位置は、中産階級であろう。その立ち位置に嫌気がさしたのか。しかし汽車にひかれて「体は滅茶滅茶になって」も、そこにたね子が生きているように、芥川もそこ(中産階級)に生きているのだ。