浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

吉野源三郎

2011-06-03 12:56:12 | 日記
 今日『人間を信じる』(岩波現代文庫)が到着した。吉野源三郎の本である。今年の5月に出た。

 私の考え方の基本は、この吉野源三郎を範としているといってもよいほど、傾倒している。私は高校時代から岩波書店の『世界』を購読していた。吉野はその頃『世界』の編集長であった。吉野は、編集後記を書く傍ら、自らも論文を書いていた。私は彼の文を読みながら、彼のことばと対話しながら自らの精神を形成してきた。

 吉野が『世界』に書いた論文を集めた『同時代のこと』(岩波新書)という本がある。その本はいつも私の傍らにある。そのなかの「一粒の麦」こそ、私がもっとも影響を受けた論文である。今回出版された『人間を信じる』のなかにも収載されている。

 まだ不定形だった私の精神は、アメリカの侵略によるベトナム戦争との関わりの中で育てられた。ボール爆弾、ダムダム弾、マグネシウム爆弾・・・枯葉剤など、次々と残虐な兵器を開発してベトナム民衆の頭上に投下していくアメリカという大国。
 それに不屈に抵抗するベトナム民衆、そしてベトナム民衆と連帯した世界の良識ある人々。かれらの姿は、人間のあるべき姿を映し出していた。人間はいかに生くべきかを考えていたとき、その具体的な回答はベトナム民衆やベトナム戦争に反対する人々の中にあったのだ。

 それを象徴する人物がホーチミンである。そのホーチミンとベトナムの民衆を、吉野が「一粒の麦」のなかで哲学的に意義づけた。それが私の原点となった。

 吉野源三郎は、直接の面識はまったくないけれども、私の人生の師であると、今も思っている。そして吉野の精神は、今なお『世界』という雑誌に引き継がれている。その基本的な思考は、「人間を信じる」ということである。


  
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服従させたい!

2011-06-03 08:15:53 | 日記
 時事通信の配信記事。「君が代条例、午後成立へ=教職員に起立・斉唱義務付け-大阪府」という記事だ。これについては、日弁連なども日本国憲法の精神に基づいた批判を行っている。しかし、こういう正当な批判に耳を傾けることなく、大阪維新の会は独走する。

 政治の道に入った「維新の会」の面々は、自らの権力をひけらかし、大阪府の教員をみずからの意志のもとに統制下に置こうという魂胆なのであろう。まさに全体主義的な発想である。そういう政治体制がお好きなようだ。

 日本の教育というのは、戦前からそうなのだが「態度主義」をとる。どう考えていても良いが、権力が強制する行動をとらせることが好きなのだ。要は、権力者に服従しているという態度を示すことが求められるのだ。

 たとえば中学校の新学習指導要領の「総合学習」のところに、「学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て」とある。私は「態度を育てる」という言葉の意味がわからない。おそらく、子どもを見る側(教師とか教育委員会など)が好ましいと判断できる態度を子どもが示せばよいのであろう。権力を握る者がよろこぶような態度を示させる、これが日本の支配のコツなのだ。「服従」させたいのである。戦前の「宮城遙拝」、「神社参拝」などもそれである。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/110526.html


 
大阪府内の公立学校の教職員に入学式や卒業式といった学校行事で君が代を起立して斉唱することや、府立施設での日の丸掲揚を義務付ける大阪府の条例案が、3日午後の府議会本会議で賛成多数で可決、成立する。文部科学省は義務付け条例について「聞いたことがない」としており、全国初とみられる。
 起立・斉唱義務付けの対象となるのは、府内にある公立の小中学校と高校、特別支援学校に勤める教職員。「服務規律の厳格化を図る」ことなどを目的に掲げた。
 条例案は、橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」が提案。同日の本会議では、過半数を占める維新の会が賛成する一方、公明、自民、民主、共産は反対する。
 罰則は設けていないが、知事と維新の会は9月議会で、職務命令に違反した職員の処分基準を明示した別の条例を定める方針。これを適用し、起立を拒む教職員の氏名や所属学校名を公表したり、最終的には懲戒免職処分にできたりする枠組みづくりを目指す考えだ。(2011/06/03-05:49)

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「原発は安全だ」

2011-06-02 21:30:30 | 日記
 「原発は安全だ」ということを信じて、原発立地市町村は、政府や電力会社に協力してきた、という。「だまされた」という。そういう側面はあるかもしれない。

 だが、原発を立地させることにより、なぜたくさんのお金が渡されるのかを考えれば、容易にその理由は理解できるはずだ。危険だから、あるいは放射能が漏れるから、だからこのカネで我慢して欲しい、というのだろう。

 原発がもし安全ならば、なぜ東京とか横浜のような、電力の大消費地に立地しないのか。遠路はるばる電力を送ることには、当然ロスが生まれる。ならば大都市に立地させればよい。なぜそうしないのか。原発は危険だからだ。

 つまり、「原発は安全だ」ということばは最初から成り立たないのだ。「危険は安全だ」というようなものだ。

 佐賀県の原発立地自治体の議会が、原発の運転再開を求めたそうだ。福島県であのような事故が起きても、まだ学ばない人々がいる。

 浜岡原発はもちろんもっとも危険である。しかし、どこの原発でも事故が多発している。地震がなくてもである。

 カネの魔力に惑わされてはならない。

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原爆調査の問い直し

2011-06-02 14:39:03 | 日記
 アメリカによるヒロシマ・ナガサキの原爆投下の直後から、日本軍(国家)は原爆の調査をはじめ、占領が開始された後も調査は続行された。とくに占領下からは原爆を投下したアメリカと投下された日本が「協力」して行われた。その調査については、もっともっと考えなくてはならない。

 すでに私も入手しているが、『原爆調査の歴史を問い直す』(新装版)が発刊されるとのこと。原爆投下後の調査の問題性が浮き彫りにされるはずだ。是非入手して読んで欲しい。1500円である。

http://blogs.shiminkagaku.org/shiminkagaku/2011/05/post-54.html
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被曝がもたらすもの

2011-06-02 08:54:48 | 日記
 3月、かなりたくさんの放射性物質が放出され、フクシマはじめ関東地方、そして全国でもその影響がでてきているようだ。マスメディアは、まったく政府・東電とスクラムを組んでできうるかぎり事実を知らせないようにしている。

 こういう事態になったのは、長年の自民党・公明党政権による原発推進政策、そしてそこに群がる官僚、学者、大手ゼネコン、金融機関による自らの責任を回避しようという事なかれ・無責任の態勢(体制としてそうなっているといってもよい)である。彼らは事故後にでてくるであろう様々な賠償請求・責任追及などをできるだけ軽くしようとして、住民の避難などを「自主的」にさせようとしてきた。

 放射性物質が広汎な地域に降り注いでいたにもかかわらず、政府や東電は情報をまったくださず、我々は外国にその情報を求めざるを得なかった。

 その結果、いろいろな症状がでてきているようだ。下記に紹介するブログ、そしてそこに書き込まれた投稿を読んでみてほしい。

 我々は警戒しなければならない。

http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/945898fc22160543b404a9ca949cefe5
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