浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

天井見たか

2013-05-16 21:40:12 | 日記
 「この部屋をそのまま残しておくことが、私たちのすべきことなのだと思うんです」という説明を聞きながら、ボクはカメラを天井に向けていた。天井板には、節が見えた。一つ、また一つ・・・・彼は、この天井を見続けていたはずだ。天井の節を一つ、また一つと眼を動かしながら、彼は何を思い続けたのだろうか。

 もう何もない。袋の中には、聖書、明治憲法、そしていくつかの小石。

 何ということだ、少なくとも憲法というものがあるのにもかかわらず、人民の権利は徹底的に蔑ろにされている。毒を流す者が罰せられず、その毒によって生活を破壊された者が苦しみ続ける。そういうことがあってよいものか。いや、断じて!

 おそらく、もうこの部屋からは生きては出られまい。

 事件の数々が、走馬燈のように浮かんでは消えていく。何かをし残してるのではないか。全力を尽くしてきたのか・・・自問自答する。

 隣の部屋からは、見舞いの者たちの声が聞こえる。「面会謝絶」という声も聞こえた。今生の別れのときが来たようだ、と彼は思った。

 じっと天井を見つめる。天井の彼方に、彼はいくつかの光景を思い浮かべる。



 豊かな土壌を運ぶ渡良瀬川の水が、谷中に運ばれてきた。いつものように人びとは、その水をやりすごす。ずっとそうして生きてきた。水が引いたら、農作業が始まる。

 そして突然、家屋を破壊する音、「出ていけ!」という怒号が聞こえてくる。

 しかし農民は、じっと座り続ける。官憲が行うことを凝視する。その眼は、渡良瀬川をさかのぼって、足尾銅山に向かう。煙が谷を覆い、その煙は風に乗って谷筋を走る。その煙は、谷の両側の草木に次々ととどめを刺していく。断末魔の声がこだまする。だがその煙を排出する者どもには、それは聞こえない。

 彼は、畳の上で、その断末魔を聞く。

 ボクは、天井に刻印された彼の凝視の痕跡を見ようとした。確かに、ボクはその痕跡を見た。天井は、「天井見たか」(意味は、恐れ入ったか、降参したか)という彼のつぶやきを語り続けていた。

 だが、足尾の山々を破壊し、下流域の人びとの生活を破壊した者どもには、そのつぶやきが届かない。その頃から今もなお、その者どもはほくそ笑んで、カネ、カネ・・・・と叫びながら、鉱毒を垂れ流している。

 ボクは、その凝視の痕跡が、ボクにも向けられていることを感じた。彼が亡くなってもう100年が経過する。彼の、「何も変わっていない、お前はどうする?」という声が、天井から聞こえたような気がした。



 今週、ボクは田中正造の足跡、足尾銅山による破壊の跡を訪ねた。そのいくつかを報告していくつもりだ。
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「もう一つの情報」

2013-05-13 07:32:27 | 日記
 昨日午後、市内で60人を前にして、安倍政権について話した。

 ボクは会場へ行く前に、安倍首相が書いた『美しい国』(文春新書)を読んだ。あっという間に読める本だ。なぜあっという間に読めるかというと、内容がおそらく口述筆記されたものだから、ということが一つ、もう一つは内容的に軽く、緻密ではまったくないから、というものだ。

 そして内容から、安倍晋三という人はとても「軽い」人だということがわかった。そういう人が首相となり、マスメディアが持ち上げている。日本テレビはじめ、テレビ局は、国民栄誉賞の「授賞式」を大々的に放映した。また昨日の新聞は、南こうせつのコンサートでの安倍の行動を報じた。

 全マスメディアは、安倍を押し出すために一致協力しているようだ。

 しかし、ボクは思う。安倍と安倍を取り巻く人びとの情念や思考はとても危険なものだということに、果たしてメディアは気がついているのだろうか。

 安倍は憲法96条をかえて、「改憲」のハードルを下げ、「壊憲」へと進もうとしている。自民党の改憲案を見ると、「憲法」とも呼べない代物で、国民の自由や権利は国家の統制下に押さえ込まれる。たとえば21条、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する」、これはいい。しかしその次に「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」が続くのだ。

 いったい「公益及び公の秩序を害する」とは何か。こういう抽象的な、権力が都合良く解釈できる文言をつかって、実質的には自由を押さえ込もうとしているのである。これはマスメディアにも襲いかかってくるはずだ。

 ボクは、安倍礼賛の報道攻勢の背後に、マスメディアに関わる者たちの、恐ろしいくらいの鈍感さと無知を感じる。

 こういうひどい状況を憂う報道人がいることは承知はしているが、多勢に無勢なのである。

 だからボクは昨日、「もう一つの情報」を獲得することを訴えた。マスメディアからの情報ではなく、真実を伝える「もう一つの情報」を入手し、学び、話し合い、広げていこう、と。

 1960年代~70年代、まだ総評があり、多くの労働者が労働組合に組織されているときには、マスメディアからの情報だけではなく、組合からの「もう一つの情報」が流されていた。だが、「国鉄分割民営化」に始まる労働組合潰しの攻撃の中、国鉄労働組合が撃破され、総評が解体され、それとともに「抵抗」姿勢を一定もっていた日本社会党が沈没していった。労働運動が押さえ込まれた「焼け跡」から浮かび上がってきた「連合」は、残念ながら体制翼賛の機関と化している。そしてこの「連合」の中核には、原発を推進し、労働組合の「右傾化」を推進してきた電力労連がいる。

 「もう一つの情報」を取り戻す、そのためにまず一歩を踏み出すことが大切だと、ボクは思っている。
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時期

2013-05-11 21:37:35 | 日記
 最近ボクは、少しの苦痛を感じながら、村上春樹を読んできた。そして今、これから読むであろう『1Q84』を読み通すためのエネルギーを蓄えている。とにかく、村上好きの人びとと異なり、ボクは村上作品を決してよいとは思っていない。時に怒り、時にあきれかえりながら読むことの苦痛。

 だが今日、学生時代に読んだ『贈る言葉』(柴田翔)を読み返してみた。ボクはこの小説にいろいろなことを考えさせられた記憶がある。まさに青春期の読書であった。

 読みながら、ボクは何にそんなに惹かれたのかを想い出しながら読んだ。おそらくボクは、主人公の「ぼく」と自分自身を重ねながら読んだのだろうと思った。

 主人公の「ぼく」の思念は、学生時代のボクの、ある意味での「純粋性」にとても近いことがよくわかったからだ。また、「ぼく」の相手となる女性が、女性に対して外側から押し付けられる「枠」のなかで、精一杯生きている姿と、大学生のボクが当時仲良くしてた女性の姿に相似形を見いだして、それについて彼女に長い手紙を書いた記憶が甦ってきたからだ。

 だが、解説に指摘されている、この小説の重大なテーマ、その頃はまったく思ってもみなかったが、「純粋」だった「青春の生」を過ぎてからの「荒廃」を、ボクも今、認識させられていることに気付いた。

 この小説を読んでいた頃、ボクはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』など、ドストエフスキーの作品に食らいついていた。そしてボクは、人間や人間の生、人間関係などについて、大きくて広い観念の世界を自らのなかにつくりあげ、その観念をあたかも現実であるかのように、他方で現実を観念であるかのようにしながら、自分自身がつくりあげた観念の世界を彷徨っていたような気がする。観念は、実現されるべきものとして、ボクの前につねに佇んで、ボクを見張っていた。ボクはその観念の世界から現実を見ていたから、おそらく現実は歪められた「存在」としてしか見えなかったのだろう。

 この小説の「ぼく」も、同じような生き方、考え方をしているようで、今はこの小説のテーマがよく理解できる。
 

 そうなのだ。同じ小説でも、読む時期によって、その小説から生じる感懐は大きく異なるのである。だとすると、ボクがもしもっと若いときに村上作品を読んでいたら、その感想は異なっていたかもしれない。


 ここで少し補足。文学作品は、青春の、感性が豊潤であるそのときに、とにかく読んでおかなければならないと思う。その「時期」は、あっという間に過ぎていってしまう。
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安倍をどう見ているか

2013-05-10 20:49:54 | 日記
 最近新聞などで報道された、アメリカ連邦議会の報告書を入手した。

http://www.fas.org/sgp/crs/index.html

 このサイトに Japan-U.S.Relations:Issues for Congressがある。

 それを読んでいくと、「安倍と歴史問題」という項目がある。その最初の部分を訳してみた。


 2006年から2007年、首相としての期間、安倍はナショナリスティックな主張、防衛と安全の問題をより強化する主張で知られていた。安倍の見解のいくつか(たとえば集団的自衛に日本が参加することを可能にする日本の平和憲法の解釈の変更)は、日本との軍事協力を求める米当局からは歓迎された。

 しかしながら、他面で、安倍は、帝国日本の侵略とアジア人の犠牲についての体験を拒絶するという、日本の歴史に関する修正主義的な視点を主張している。彼は、日本は植民地支配や戦争大国として不当にも批判されていると主張するグループのメンバーである。日本会議のようなグループによって擁護されている見解のなかには、日本が西側の植民地権力から東アジアを解放したことは賞賛されるべきであるとか、1946年から48年の東京戦争犯罪法廷は不法であるとか、帝国日本の軍隊による1937年の南京虐殺はおおげさであり、またでっちあげである、がある。

 このような歴史問題は、第二次大戦中の日本による占領と戦争状態を憤慨している近隣諸国、特に中国や韓国と日本との関係に長期の影響を与えている。それは安倍内閣の閣僚選びにも反映している。安倍はナショナリストとして知られている政治家を選び、なかにはウルトラナショナリストもいる。


 その後には、靖国神社の参拝問題、そして「従軍慰安婦comfort woman問題」(クリントン前国務長官は、それをsex-slavesとすべきだとした)と続く。

 この報告書は、安倍の主張や行動を評価しているのではない。きわめて批判的に書いている。

 先の安倍の訪米は、ワシントンではあまり歓迎されなかったという情報もある。歓迎したのは、ジャパンハンドラーと呼ばれる一群の人びとであった。

 アメリカは、全面的に安倍を支持するわけではない。もちろんTPPなど、アメリカの国益を擁護する行動には拍手するのだろうが、安倍の右翼的なスタンスについては警戒していることがよくわかる。

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一緒にやりませんか

2013-05-10 17:29:46 | 日記
 ボクは最近、以下のような文を書いた。マイナーな某紙に掲載されたものだ。「国境を越えた連帯、そしてTPP」というテーマで書いた。


連帯しない「労働者」 

 「万国の労働者よ、団結せよ!」は、昔よく聞かれたことばだ。だが今では、死語に近い。だいたい「労働者」ということばも色あせ、誇りを持って「オレは労働者だ!」と語る人も少なくなった。生産現場で、仲間たちと汗を流しながら働く、そういう経験が、労働者としての自覚と連帯をつくりだしてきた。「労働者」としての意識が、連帯の証しとしての労働組合を結成させ、経営者との間で賃金や労働時間などをめぐって闘い、「人間らしい生活」を保障させてきた。そしてそこに国境を越えた連帯も生み出されていた。

 だが今、「労働者」としての意識は萎縮し、それとは逆に「消費者」としての意識が肥大化している。資本の攻撃により、「労働者」の賃金が下げられ、健康保険料なども上がって可処分所得が大幅に減っているなか、「安い」製品を求め、100円ショップに通い、ユニクロの折り込み広告に見入る。消費者としての意識は高くならざるを得ない。

 その「安い」製品の背後には、猛烈な低賃金で働かされている貧しい「労働者」(中国やミャンマーなど。もちろん国内にも)がいるのだが、それが見えなくなっている。

 「労働者」は、「消費者」意識に曇らされ、そうした国内外の「労働者」を、連帯すべき仲間と見ることがなくなっている。「万国の労働者」は連帯(団結)しないのである。


TPPの本質

 このほど安倍政権は、TPP(Trans-Pacific Partnership)参加を表明した。ここでTPPの説明はしないが、これが本格的に始動すると、アメリカを中心とするグローバルな活動をする「資本家」(大企業、金融機関)が、日本国民の富(物質的なものだけではなく、自然景観、制度までも)をむさぼり始めるだろう。特にアメリカの「資本家」は、今までも世界各地にバブルをつくりだしては崩壊させ、国内ではサブプライムローンを推進し、人々の生活を破壊しながら収奪を繰り返してきた。今度は、そのターゲットが日本となったのだ。アメリカの「資本家」は、円安をつくりだし、株価をあげてきた(今日本株に投資しているのは外国人投資家である)。アメリカに忠実な安倍政権を成立させるためだ。


資本家は連帯する

 TPP参加は、日本の「資本家」も求めている。「TPP交渉への早期参加を求める国民会議」には、経団連はじめ財界の諸団体が結集している。おそらくアメリカの「資本家」とも情報を交換していることだろう。「資本家」は、国境を越えて連帯しているのである。

「資本家」は、利潤の極大化を求める。欲望には際限はないのである。その欲望をかなえるべく、国家(政府)を従属させ、国境を越えて、貧困をつくりだしていく。資本主義は今、その野蛮な本性をさらけ出しているのである。



 支配層は、思想信条をこえて、みずからの利害の一致を前提に、より多くの儲けを求めて連帯する。「万国の投資家は団結する」のである。

 ところが、労働者をはじめ、支配される人びとは常に分断状態だ。いわゆる革新政党同士も同じ。だいたい革新政党なるものも、今や弱小勢力でその抵抗力はきわめて弱体化している。にもかかわらず、「一緒にやりましょう」とはならない。ボクは、前々から思っているのだが、革新政党はじめ運動団体は、運動で勝利を得ようとは思っていない。自己満足的に、とにかく運動すればいいと思っている。どのレベルでも同様に、同じ目的を持っていても、それぞれの組織がそれぞれ独自に動いて、運動を終えて「総括」をして、「一定の前進があった」などとポジティヴな評価をして終わり。それが延々と続いてきて、今の状態だ。

 特にその傾向は日本共産党に強い。共産党は、集会を開けば一定程度の人数が集まるので、それだけで満足して、党員や明確な支持者以外相手にしない。広げようとしないのだ。下記のブログにもあるように、きちんとした政治勢力と共闘することはしない。なぜなら自分たちの方針が貫かれなくなる可能性があるからだ。共産党は、いかなる運動でも常に主導権を握りたがるのである。

 過去に共産党と一緒に運動をした経験から、ボクは以上のように断じざるを得ない。少しは変わったのかなと思ったが、そうではないようだ。

http://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2013-05-10




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『世界』6月号

2013-05-09 22:04:04 | 日記
 岩波書店の『世界』、今月号の特集は“「96条からの改憲」に抗する”である。改憲のハードルを大幅に低くして、最終的には自民党の憲法草案のような憲法にしようというのだろう。だから96条だけを問題にするのではなく、自民党の憲法草案とセットにしてこの96条改憲問題を考えなければならない。

 自民党の憲法草案を読むと、ほんとうに驚くべき内容となっている。リンクをはっておくから読んでみて欲しい。

http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

 世界各国の憲法の、人権を保障するために国家の行動を制限するというふつうの憲法ではまったくなく、逆に国民に守る義務を課すという荒唐無稽の内容だ。以前にも書いたが、学校における生徒心得的な内容だ。ボクは、恥ずかしくないのかと思ってしまう。先進国と称する日本が、こんな世界の歴史に逆行した内容のものを出してきているのだから。

 自民党の議員諸氏は、おそらく憲法学をきちんと勉強してこなかった人たちなのだろう。しかしこんな憲法に変えたいといったら、奴隷主であるアメリカも驚くのではないか。自民党の皆さんは、奴隷主の言うことを聞かなければならないのに、それがわかっているだかいないだか。

 皆さんには、『世界』は必ず買って読むようにしてもらいたい。必ず得るところがあるはずだ。ボクは高校生の時から購読している。もちろんここに書かれているすべてがよいというわけではない。しかし他からは得られない良質の情報が詰まっていることは確かだ。

 この号を読んだ感想は、徐々に紹介していくが、現在の日本を見つめるためには、必要な本だ。
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善意による破壊

2013-05-08 08:19:03 | 日記
 「日本三大砂丘」と称される中田島海岸がどんどんその面積を縮めてきている。静岡県や浜松市は、天竜川からの砂の供給が、佐久間ダムなどにより妨げられているからだとしている。

 静岡市の久能海岸も浸食に苦しんでいるが、その近くを流れる安倍川にはダムはない。県では安倍川の砂利採取が原因であるとしている。今では砂利採取が禁じられているが、久能海岸の浸食はとまっていない。

 要するに河川などからの土砂流出量が減ることが、海岸浸食の原因だというのだ。ということは、人間が自然を改造したことが原因であるということだ。

 さらに調べてみると、海岸に人口構造物を設置する(たとえば突堤など)と、沿岸を流れる漂砂(沿岸漂砂)が遮られ、下手側がより浸食を受けることになるというのだ。

 いずれにしても、海岸浸食は人間の自然改造に原因があるということになる。

 日本全国の海岸で、同様のことが起きている。日本の海岸には漁港があり、そこには防波堤などが海に向かって突き出ている。あるいは、馬込川の河口部には、河口部の砂の堆積を防ぐという理由で突堤が建設されている。ある意味で「善意」の構造物といえるかもしれない。しかしこれが海岸を破壊している。

 そうなると、たとえば中田島の堆砂垣も、その典型といえるだろう。中田島には、砂の飛散を防ぐというところから堆砂垣が設置されている。そしてそれは竹でつくられている。設置したらそのまま。いずれそれは朽ちていく。朽ちると粉々になった竹が砂丘を覆う。



 ところが、砂丘を歩く人びとは、裸足の人が多い。これではけがをしてしまう。それだけではない。堆砂垣は針金でつくられている。



 これもいずれ砂の中に放置される。

 つまり善意の堆砂垣は、砂丘の破壊物となるのだ。

 ボクは考える。いろいろな事業について、科学的な知見などを含め総合的に検討し実施していくというシステムが我が国にはないのではないか、と。善意から始まった事業についても、きちんとした検討と検証が求められる。「地獄への道は善意によって敷き詰められている」ということばもある。

 日本の諸施策は、近視眼的で先の見通しを持たない。それがこういうところに現れている。行き着く先は「破壊」である。
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虚構

2013-05-07 07:37:46 | 日記


 5月らしい気温、そして風。5月はこうでなくっちゃ、と思うような日であった(写真参照・この二人はまったく見ず知らずの人です)。

 一年ぶりに中田島海岸へ行った。どの観光案内を見ても、浜松市の観光地として載せられている中田島海岸。写真では、砂丘の風紋が夕焼けに赤く彩られ、砂丘は無限の彼方まで続くような風景が映し出されている。浜松市では「日本三大砂丘」として、またアカウミガメが上陸・産卵するところとして売り出している。

 ところが、アカウミガメが上陸してこなくなった。いや上陸できなくなった。海岸には、河原のような石が敷き詰められ、昔の潮騒は、今や砂利が波に洗われている音に変わっている。アカウミガメが上陸するところは砂地でなければならない。また砂地でなければ、産卵する穴を掘れない。

 アカウミガメの上陸を拒む海岸と化した中田島海岸。

 この海岸は浸食を受け、どんどん後退を続けている。「大」砂丘とはいえないのだ。浜松市は困惑した。ここは高度経済成長期に不燃ごみを埋め立てたところ。駐車場がある公園もそうだ。そして馬込川西側の海岸部。その不燃ごみが、浸食によって姿を現したのだ。2003年のことだ。このまま浸食が続いたら、あのごみの山が波によって運ばれる。

 危機感を抱いた浜松市は、海岸を管理する静岡県と相談し、海岸部に土砂を置き、浸食を食い止めようとした。そして離岸堤(波消しブロック)を設置して海岸を護ろうとした。護岸工事が始まる。

 ちょうどよい、国土交通省が天竜川の浚渫を行っている、あるいはJ・パワー(佐久間ダム、秋葉ダムを管理している電力会社)がそれぞれのダム湖の浚渫を行っている。その土砂をつかえばよい!担当者は良いアイデアと思ったことだろう。浚渫された土砂は、その行き先がないのだ。それは静岡県などに販売することができる。利権と化したのである。日本の公共事業は、ほとんどが利権だ。利権の波に乗せることができた。

 波消しブロックも置いた。でもなぜか、ごみを埋め立てた地点には置かれなかった。何のための離岸堤?


 昨日の海岸も、人がたくさん来ていた。波打ち際の堆積した石の上に腰をおろし、砂利がかき鳴らす「潮騒」(まさに騒々しい音と化している)を聴きながら海を見ていた。

 海は昔から変わらずに、波を打ち寄せてくる。だが、陸の人間たちは、波が次々と寄せてくるように、虚構のうえに虚構をつくりだしていく。

 虚構は自らが虚構であることを教えてくれない。もちろん、「潮騒」が教えてくれるわけでもない。虚構を虚構としてみつめる努力がなければ、虚構は虚構としての姿を現してこない。

 中田島の空は青く、どこまでも広がっていた。ボクは、昔の、砂利がなかった頃の潮騒を想い出そうとしていた。

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対米隷属の証拠

2013-05-06 07:29:41 | 日記
 己を空しくして、ひたすらアメリカに隷属する醜い日本の姿。「美しい国」を主唱する安倍政権は、ひたすらアメリカへの隷属を深める。そのスタートとなった1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約と吉田茂がひとりで調印した日米安全保障条約が発効し、日本には米軍基地がそのまま残り、沖縄は占領状態がそのまま続けられることとなった。その隷属の姿は、実は昭和天皇が、日本国憲法が施行され天皇に政治的実権がないにもかかわらず(象徴天皇制)、ひそかにアメリカと意を通じて作りあげたものであった。戦後の「国体」とは、実は安保体制であった。安保体制を維持強化発展させることが、日本外交の本質となった。それは昭和天皇の遺訓でもあった。

 その「国体」とは、日本人の富をひたすらアメリカに送り続け、アメリカの軍事行動を全面的に支え続けるというものであった。「主権回復」とは、「主権譲渡」でもあったのだ。

 ほら見てごらん、アメリカの要求は際限がない。その要求を日本政府は、唯々諾々と従うのみだ。この198億円も日本政府は、おそらく支払い続ける。

 日本国民は、そろそろその戦後の本質に気がつくべきだ。そうでないと、日本国民の生活は、さらにさらに落ちてゆく。もちろん、その「国体」により少数の日本人は大きな利益に預かる。あなたは、その少数なのか!

 以下は、『沖縄タイムス』の記事。


米、日本に年198億円要求 普天間移転後の維持費

2013年5月5日 09時28分

 【平安名純代・米国特約記者】米政府が米軍普天間飛行場の代替施設移転後の年間維持費約2億ドル(約198億円)を日本の負担とするよう求めていることが分かった。現在の普天間維持費の約70倍に相当する額で、米側は3月の日米副大臣級会談に続き、先月開かれた日米防衛相会談でも理解を求めていた。交渉は難航しているという。米高官が3日(米時間)までに本紙の取材に対して明らかにした。

 米国防総省は、代替施設建設計画への反対姿勢を強める米議会の説得に不可欠として、日本側に説明しているという。

 同高官によると、カーター国防副長官は3月17日に横田米軍基地内で江渡聡徳防衛副大臣と会談し、普天間の補修費や代替施設の年間維持費、在沖米海兵隊のグアム移転費など、日本側の負担を増やすよう要請。ワシントンで4月30日に開かれた日米防衛相会談では、ヘーゲル国防長官が小野寺五典防衛相に対し、国防費の自動強制削減など米側の現状を説明した上で、同盟諸国の協力がより重要性を増しているなどと理解を求めたという。

 米上院軍事委員会が同17日に公表した報告書によると、米会計検査院(GAO)が1998年にまとめた報告書のなかで、代替施設の年間維持費は、普天間の約70倍に相当する約2億ドルと試算。日本に負担を要請したものの、合意の見通しが立たず、米側の負担が膨らむ可能性を警告していた。


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【本】梯久美子『世紀のラブレター』(新潮新書)

2013-05-05 20:01:26 | 日記
 昔は、万年筆で手紙を書いていた。ワープロができてからは、書くことをやめて打つようになった。最近の年賀状の中には、宛名も文面もすべて印刷というものがある。何という味気ない!ボクはこういう年賀状はいらない。

 ボクは、絵はがきを多用する。事務的なことについては、メールでやりとりすることが多いが、そうでないときは絵はがきを送る。

 メールの時代になったら、この世は味気なくなったと思う。たしかに、メールは一応字を書くことだから、電話で話すより少しはマシかもしれない。でも、メールは、文ではあっても決して長くはない。

 この本は、有名人がかいたラブレターを集めたものだ。

 ラブレターは、ボクも何度か書いたことがある。「まえがき」に、「恋は人を愚かにする。恋文はその愚かさの記録ともいえる」とあるが、その通りである。ボクの「愚かさの記録」はもう残っていないことを祈る。

 梯さんの本は、淡々とした文章で、よけいな文がほとんどない。すっきりしていて読みやすい。だから次々と読んでしまう。

 いろいろな恋文がある。

 第七章は、先立たれた夫あるいは妻が、天国にいる伴侶宛てに書いたものである。最期まで、そしてその後まで、愛し続けられるということは、とても幸せだと思う。読んでいてうらやましく思った。

 ボクの心のどこかに、自分はひとりで生まれて、ひとりで死んでいくという虚無的な気持ちがある。

 だが、よくもまあ、「愚かさの記録」が残されているものだ。それがこうして公表される。ある方面で有名になった人の、もう一つの面が書かれているといってもよいだろう。人間理解が深まるともいえよう。

 
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【本】豊下楢彦『「尖閣問題」とは何か』(岩波書店 現代文庫)

2013-05-05 19:51:50 | 日記
 出版は昨年11月。だから記述内容が新しく、たいへん参考になる。とくにこの「尖閣」をめぐる、本来当事者であるはずのアメリカの姿勢、そのアメリカの姿勢に何の抗議もせず、何の要求もせず、ただただ「アメリカ様」のお説ごもっとも、という日本政府の姿勢にあきれてしまう。

 TPPで、日本の国益を主張するために最強の布陣で臨むなんていうことばが、この本に記されている事実を知ると、まったくしらけきってしまう。

 本当に、日本はアメリカの「属国」、いや「植民地」なのだ。

 そしてあの石原慎太郎。彼の乱暴な物言いに、マスメディアの人びとは低姿勢で居続けたが、しかし彼の言動は矛盾だらけ。本人はきちんとわかっていてやっているのかどうか。

 この本に紹介されている、東京都が『ウォールストリートジャーナル』に広告をうった。その内容を読んで、これまた驚いた。その内容は、本書をみてもらうこととして、この本も「尖閣問題」を考える際に、大変参考になる。同時に、戦後史の本質が、明確に示されている。

 拝外主義的なナショナリズムのいい加減さが、この本を読むとよくわかる。

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全国紙より業界紙

2013-05-05 08:51:19 | 日記
 『日本農業新聞』のコラムに「四季」がある。このコラムが、短い文ではあるが、鋭い矢を放っている。

 まず5月3日。

 安倍首相はとにかく憲法改正にご執心である。第1次安倍内閣では、憲法改正国民投票法を成立させた。今また、改正に必要な国会議員の発議を3分の2以上と規定した96条を見直し、過半数にしたいという▼自民党は昨年、国防軍の保持や個人の価値観まで踏み込んだ改正草案を発表。そして夏の参院選では96条を前面に出し、憲法改正を公約に掲げようとしている。「将を射んとすればまず馬を射よ」との胸算用か▼首相は、現行憲法は占領軍が作った、と言い、自前の憲法を持たなければならないというのが持論。だが立憲主義はじめ民主主義などはもともと近代欧米の思想。井上ひさし氏は「主体的に受け止めて自分のものにすればいい」(『「日本国憲法」を読み直す』)と改正に反対した▼法とは誰かに対して書かれた命令。では憲法は誰に向けた法なのか。99条に、天皇または摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他公務員はこの憲法を尊重擁護する義務を負うとある。国民はその義務を負うことはない。つまり、国家権力の暴走を国民が監視し歯止めをかけるのが憲法▼自民党の憲法草案では、国民にもその尊重義務を負わせる(縛る)という。これでは国民の自由が危なっかしい。きょうは憲法記念日。じっくり考える日にしたい。

 そして5月3日の社説。


憲法とTPP 主権を侵す不平等条約 (2013/5/3)

 今日は「憲法記念日」。環太平洋連携協定(TPP)問題を日本国憲法に引き付けて考えてみたい。国家主権の領域に踏み込むTPPが、憲法に抵触する疑義があるからだ。外国企業が進出先の政府を直接訴えることができる投資家・国家訴訟(ISD)条項はその象徴で、司法関係者も危険性を警告する。従来の改憲、護憲論議を超えて、憲法に迫る重大な主権の危機に目を向けよう。

 憲法の三大原則は、基本的人権の尊重(自由)、国民主権(主権在民)、平和主義(戦争の放棄)である。民主国家の基礎を成すこれらの原理によって、われわれは自由と平和と繁栄を享受することができる。

 ところが関税自主権を放棄し、米国主導の規制緩和で「国のかたち」を変えるTPPに入れば、これらの原理原則は守られるだろうか。疑念を抱かざるを得ない。とりわけ問題なのは、国内法より上位に位置付けられるISD条項である。

 憲法13条は、個人の尊重を高らかにうたう。公共の福祉に反しない限り、国は国民が生命、自由、幸福を追求する権利を最大に尊重するとある。25条は、全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有すると記す。ところが、TPP締結後は「外国投資家の利益に反しない限り」というただし書きを付けて、条文を改定しなければならないだろう。

 外国投資家やグローバル企業が、国家を超える強大な権利を持つことに対し、法曹関係者も危機感を強めている。岩月浩二弁護士は、ISD条項が憲法76条の「すべての司法権は、最高裁判所及び(中略)下級裁判所に属する」という部分に違反すると指摘する。国会は国権の最高機関で、唯一の立法機関とする憲法の形骸化にもつながる。

 大阪を拠点に活動する弁護士グループは先月、同様の問題意識を意見書にまとめ、大阪選出の国会議員らに提出した。意見書は、TPPが労働者、消費者の権利保護を弱める恐れがあるとし「司法権と国民主権の確保を脅かす重大な問題」と警鐘を鳴らす。杞憂(きゆう)ではない。米韓自由貿易協定(FTA)でISD条項を導入した韓国では、法曹関係者が「司法の自殺」と抗議の声を上げた。それほど司法主権を脅かされることへの抵抗感は強い。現実に、米国の投資企業によるISD訴訟を恐れ安全基準の強化などをちゅうちょする「萎縮効果」が顕在化しているという。

 憲法の精神、原理原則から見てもTPPがいかに主権侵害の恐れがある不平等条約かが分かる。安倍晋三首相は、現行憲法を米国の押し付けだと批判し自主憲法の制定に意欲的だ。その首相が、米国ルールの押し付けで国家主権を危うくするTPP参加をなぜ推し進めるのか、まったく理解に苦しむ。憲法論議の中で、TPPの危険性をもっと掘り下げ、国民主権、国家独立の尊さを問い直そう。


 良い内容だ。しかしボクは最近、戦後史の研究をしているが、やはり日本は「独立」していない。アメリカのいいないりになることが、戦後日本の国是なのだ。

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もう一つ、良い社説

2013-05-04 10:48:31 | 日記
 社説というのは、特に強い主張をするためにはストレートでなければならない。昨日の護憲派と言われている『朝日』。『毎日』のストレートではなく、すこし斜視に構えたものは、薬にはならない。

 最近の『朝日』『毎日』は、毒にも薬にもならない主張を繰り広げている。もちろんなかにはよいものもタマにはあるが、もう両紙の歴史的役割は終わっている。

 さて、今日は『信濃毎日新聞』の社説を紹介する。ストレートで建設的だ。

9条の価値 平和に生きる人権こそ 05月04日(土)


 日本はなぜ、あの戦争をしたのか。松本市の横田・元町9条の会が月1回、開いている学習会のテーマだ。

 「9条を守る」がお題目ではいけない。なぜ守るのかを実感するには歴史を知る必要がある。横田に住む元信大学長の宮地良彦さんが提案して始まり、3年になる。

 最初は10人ほどだった参加者は約20人に増えた。信大生もいる。日本の戦争責任に「自虐史観だ」と異を唱える人もいる。

 宮地さんは言う。「同じ考えだけの内輪の会にはしたくない。歴史を知って、自分で考え判断し、行動することが大切だ」

   <イラク戦争の卵>

 岡谷市の弁護士、毛利正道さんはイラク自衛隊派遣訴訟に原告として参加した。

 2008年4月、名古屋高裁は派遣差し止め請求を棄却した。だが、航空自衛隊の一部活動が戦闘地域だったとして違憲の判断を示した。原告は上告せず確定した。

 憲法が保障する基本的人権は平和の基盤なしでは存立せず、前文にある「平和のうちに生存する権利」(平和的生存権)は法的権利として認められると判断した。

 憲法違反の戦争が起き、加担や協力を求められた場合、裁判所に救済を訴え出ることができる。

 毛利さんは「社会運動、政治参加、そして裁判。市民が戦争を止める権利を得た」と考える。

 米国のイラク戦争はもう一つ、大きな卵を産んだ。国際社会が開戦を阻めなかった反省から、スペインの非政府組織(NGO)が始めた「平和への権利」運動だ。

   <国と市民の論理>

 平和への権利は誰もが平和のうちに生きられるよう国家や国際社会に要求できる権利だ。日本の憲法の平和的生存権と通じる。

 戦争防止に加え、貧困など社会の在り方から生まれる構造的暴力の根絶を目指す。国連人権理事会で宣言草案が話し合われている。

 東京都新宿区の弁護士、笹本潤さんは「平和への権利」運動に力を入れている。人権理事会や草案づくりの諮問委員会で憲法や名古屋高裁判決を紹介してきた。

 国際政治が武力による解決に頼り、日本の周りには北朝鮮などの問題がある。国際政治の在り方を変えなければ、9条改定の動きは続く。そうした危機感が運動参加を後押しした。

 草案は武力行使の放棄や軍縮などを求めている。国連憲章が認めている自衛権行使をはじめ、国家の権利を縛るため反対は根強い。

 「国と市民の論理がぶつかる大変な試み」。草案を起草した神戸大学大学院教授の坂元茂樹さんは合意づくりの難しさを感じつつも可能性に託したいと思う。

 「21世紀は市民の社会。1700を超えるNGOが賛同している重みがある。日本の憲法もその論議を通して、意義を見直されていることを知ってほしい」

   <13条「個人」の重み>

 この潮流に自民党の憲法改正草案を置いて読み直してみたい。

 まず9条。戦力を持たないとする現行2項を削除、国防軍を創設する。任務は国防に加え国際平和活動や治安維持活動を認める。

 海外での武力行使や集団安全保障の制裁行動にも道を開く。

 徴兵制は明示していない。ただし、3項にうたう「協力」の名目で、領土保全や資源確保に国民が動員される懸念が指摘される。

 13条改定に注目したい。現行は個人の尊重と、生命・自由や幸福追求の権利を公共の福祉に反しない限り最大限、尊重するとの規定だ。草案は「個人」を「人」、「公共の福祉」を「公益及び公共の秩序」に書き換えている。

 武力行使を「規制緩和」する一方で、公が優先される時には「個人」がとやかく言えないよう権利を制約する。そうにも読める。

 ルソン島の戦場体験を持つ憲法学者の久田栄正さん(1915~89年)は13条の「個人の尊重」を平和の基礎に据えた。

 戦争は人権を根こそぎ壊す。個人の尊重が徹底される国は戦争を起こせない、と。この平和的生存権の考えは今に続く。早大大学院教授の水島朝穂さんとの共著「戦争とたたかう」にある。

 平和に生きる人権こそが保障されねばならない。歴史を見つめ、世界に目を広げたい。憲法は市民一人ひとりに問うている。
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今日は憲法記念日

2013-05-03 21:04:15 | 日記
 今日の憲法記念日は、二冊の本を読了した。一つは『永続敗戦論』、もう一つは『安保条約の成立』。いずれも「戦後」を問うものだ。

 しかし浜松は、憲法なんて知らないよ、という状況だ。書いている今も、浜松祭りの「練り」が聞こえてくる。近所の家で、男子が生まれたのか、家の前で宴会をしている。

 さて今日も各新聞社は、憲法に関する社説を書いている。私が購読している『中日新聞』は、きわめて明確な主張を行っている。『琉球新報』も明確だ。『朝日』、『毎日』は、改憲に反対しているようではあるが、その主張が明確ではない。最終的には、『朝日』や『毎日』は、長いものに巻かれていくだろう。そういう筆致である。


憲法を考える 歴史がつなぐ知恵の鎖    2013年5月3日

 憲法改正を叫ぶ勢力の最大目的は、九条を変えることでしょう。国防軍創設の必要性がどこにあるのでしょうか。平和憲法を守る方が現実的です。

 選挙で第一党になる、これは民主的な手法です。多数決で法律をつくる、これも民主的です。権力が憲法の制約から自由になる法律をつくったら…。

 ワイマール憲法当時のドイツで実際に起きたことです。国民主権を採用し、民主主義的な制度を広範に導入した近代憲法でした。ヒトラーは国民投票という手段も乱発して、反対勢力を壊滅させ、独裁者になりました。憲法は破壊されたのです。

◆熱狂を縛る立憲主義

 日本国憲法の役目は、むろん「権力を縛る鎖」です。立憲主義と呼ばれます。大日本帝国憲法でも、伊藤博文が「君権を制限し、臣民の権利を保障すること」と述べたことは有名です。

 たとえ国民が選んだ国家権力であれ、その力を濫用する恐れがあるので、鎖で縛ってあるのです。また、日本国民の過去の経験が、現在の国民をつなぎ留める“鎖”でもあるでしょう。

 憲法学者の樋口陽一東大名誉教授は「確かに国民が自分で自分の手をあらかじめ縛っているのです。それが今日の立憲主義の知恵なのです」と語ります。

 人間とはある政治勢力の熱狂に浮かれたり、しらけた状態で世の中に流されたりします。そんな移ろいやすさゆえに、過去の人々が憲法で、われわれの内なる愚かさを拘束しているのです。

 民主主義は本来、多数者の意思も少数者の意思もくみ取る装置ですが、多数決を制すれば物事は決まります。今日の人民は明日の人民を拘束できません。今日と明日の民意が異なったりするからです。それに対し、立憲主義の原理は、正反対の働きをします。

◆9条改正の必要はない

 「国民主権といえども、服さねばならない何かがある、それが憲法の中核です。例えば一三条の『個人の尊重』などは人類普遍の原理です。近代デモクラシーでは、立憲主義を用い、単純多数決では変えられない約束事をいくつも定めているのです」(樋口さん)

 自民党の憲法改正草案は、専門家から「非立憲主義的だ」と批判が上がっています。国民の権利に後ろ向きで、国民の義務が大幅に拡大しているからです。前文では抽象的な表現ながら、国を守ることを国民の義務とし、九条で国防軍の保持を明記しています。

 しかし、元防衛官僚の柳沢協二さんは「九条改正も集団的自衛権を認める必要性も、現在の日本には存在しません」と語ります。旧防衛庁の官房長や防衛研究所所長、内閣官房の副長官補として、安全保障を担当した人です。

 「情勢の変化といえば、北朝鮮のミサイルと中国の海洋進出でしょう。いずれも個別的自衛権の問題で、たとえ尖閣諸島で摩擦が起きても、外交努力によって解決すべき事柄です。九条の改正は、中国や韓国はもちろん、アジア諸国も希望していないのは明らかです。米国も波風立てないでほしいと思っているでしょう」

 九条を変えないと国が守れないという現実自体がないのです。米国の最大の経済相手国は、中国です。日中間の戦争など望むはずがありません。

 「米国は武力が主な手段ではなくなっている時代だと認識しています。冷戦時代は『脅威と抑止』論でしたが、今は『共存』と『摩擦』がテーマの時代です。必要なのは勇ましい議論ではなく、むしろブレーキです」

 柳沢さんは「防衛官僚のプライドとは、今の憲法の中で国を守ることだ」とも明言しました。

 国防軍が実現したら、どんなことが起きるのでしょうか。樋口さんは「自衛隊は国外での戦闘行為は許されていませんが、その枠がはずれてしまう」と語ります。

 「反戦的な言論や市民運動が自由に行われるのは、九条が歯止めになっているからです。国防軍ができれば、その足を引っ張る言論は封殺されかねません。軍事的な価値を強調するように、学校教育も変えようとするでしょう」

 安倍晋三首相の祖父・岸信介氏は「日本国憲法こそ戦後の諸悪の根源」のごとく批判しました。でも、憲法施行から六十六年も平和だった歴史は、「悪」でしょうか。改憲論は長く国民の意思によって阻まれてきたのです。

◆“悪魔”を阻むハードル

 首相は九六条の改憲規定に手を付けます。発議要件を議員の三分の二から過半数へ緩和する案です。しかし、どの先進国でも単純多数決という“悪魔”を防ぐため、高い改憲ハードルを設けているのです。九六条がまず、いけにえになれば、多数派は憲法の中核精神すら破壊しかねません。


 そして『琉球新報』

憲法記念日 沖縄にも3原則適用を 要件緩和先行は姑息だ2013年5月3日


 戦後、憲法「改正」がこれほど間近に迫ったときはない。安倍晋三首相は夏の参院選で憲法改正に必要な「3分の2」の勢力確保を目指す考えを明言した。改憲賛成派は衆院で3分の2を上回るだけに、改憲は目前の現実だ。
 自民党はます96条を改定し、改憲の要件を緩和すると主張する。その上で「本丸」の9条改変に手を付けようというのだろうが、姑息(こそく)にすぎる。作家の保阪正康氏が指摘するように、「勝てないから野球のルールを変えようというのは論外」だ。首相は、自民党の憲法草案が是か非か、変えようとするすべての条項を正面に掲げ、堂々と審判を仰ぐべきだ。

邪道

 96条改定先行論については、改憲論者として鳴らす小林節・慶応大教授も「立憲主義を無視した邪道だ」と批判している。
 他の法律が国民を縛るものであるのに対し、憲法は「国民が権力者を縛るための道具」(小林氏)だ。だからこそ時の権力者の意向で安易に変えられないようになっている。「それが立憲主義、近代国家の原則」(同)だ。その改変は立憲主義の根本的否定であろう。
 自民党は「世界的に見ても改正しにくい憲法」と主張するが、本当か。例えば米国は上下両院の3分の2の賛成と、全50州のうち4分の3以上の州議会での承認が必要と定める。日本より厳格だ。
 憲法は改正しにくいという点で「硬性憲法」と呼ばれるが、憲法はそもそも「硬性」が普通で、他の法律と同じ「軟性」である方がむしろ、ニュージーランドなどごくわずかなのである。
 そもそも国会議員の多数決で選ぶ首相が国会で過半数の賛同を得るのは普通のことだ。「両院と国民投票の過半数」でよしとする自民の改定案だと、支持率が50%を超える内閣は軒並み改憲できる。国の基本法規がこれほど不安定でよいのか。
 自民の改憲草案は他の条文にも疑問がわく。9条1項を残し、平和主義は継承すると主張するが、「永久にこれを放棄する」対象から「国権の発動としての戦争」は残すが、「武力による威嚇」と「武力行使」は外した。19世紀型の全面戦争は避けるが、地域紛争的な「小さな戦争」は可能、という意味ではないのか。
 9条2項の「陸海空その他の戦力は、これを保持しない」は「国防軍を保持する」へと変わる。1項のような規定は多くの憲法にもあるから、現憲法の平和主義たるゆえんは1項よりむしろ2項にある。それを撤廃して「平和主義継承」とは言えないはずだ。

徴兵制も可能か

 18条も大きな問題をはらむ。「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」が撤廃され、「社会的又は経済的関係」で「拘束されない」に変わった。「社会・経済的」以外の、例えば政治的拘束は認めるとも読める。徴兵制を可能にしたのではないか。
 自民は18条2項の「意に反する苦役に服させられない」は残すから徴兵制容認ではないと主張するが、これは9条2項と相まって初めて徴兵禁止の意味を持つ、と説く学者もいる。となれば自民の主張は説得力を失う。
 ほかにも結社の自由に制限を加えたり、日の丸・君が代を強要したりと、草案は総じて「権力者を縛る」より国民を縛ることを志向しており、とても容認できない。
 戦後68年、日本は戦争で外国の人を一人も殺さず、日本の戦死者も皆無だった。9条が歯止めになったのは明らかだろう。その意義をかみしめたい。
 改憲派は「押し付け憲法」を批判するが、それなら占領軍の権利を事実上残した日米地位協定を抜本改定するのが先であろう。沖縄は全首長が反対してもオスプレイを押し付けられた。平和主義はもちろん「国民主権」も「基本的人権の尊重」も適用されていない。まずは現憲法の3原則を沖縄にもきちんと適用してもらいたい。
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【本】白井聡『永続敗戦論』(太田出版)

2013-05-03 20:06:35 | 日記
 これはきわめて刺激的な内容である。たくさんのマークと付箋で、とてもカラフルな状態となった。内容を短く紹介できるような単純な内容ではない。さまざまな論点が指摘されていて、ボクの日本人の中にある「帝国意識」論にとって、とても有益である。

 もう一度読み直して、きちんと主張を理解したいと思う。7月の研究発表の論点として、十分にとりあげる価値がある。読んでよかった。

 まず最初のほうに記されている「歴史に対する支配を失った権力は、現実に対する支配をも遠からず失う運命にある」ということばは、歴史を研究している私にとっては、大きな激励である。たしかに、あのソビエト権力が瓦解していったのは、みずからが事実と虚偽とを混ぜ合わせてつくられた「歴史」像が国民の中で力を失った、つまり信用されなくなったからだ。

 日本も、そういうふうになるのだろうか。頑張らなければならない。とくに「戦後」史の解明は、やはり現在の権力を瓦解させるためには、どうしても必要だ。

 本書は、その一環をきちんと担いうるうものとなっている。

 とにかく読んでもらうしかない。いろいろ考えさせられる論点が散りばめられている。

 その後、豊下楢彦『安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交』(岩波新書)を読んだ。これは再読ではあるが、白井の本を読んでいたが故に、豊下の主張がより鮮明になった。

 豊下の、「「国体護持」のための安保体制があたらしい「国体」となる」(210頁)が、すっきりとボクの意識に入り込んできた。

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