浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

天皇機関説事件

2014-09-09 08:19:52 | 近現代史
 先日終わった賀茂真淵資料館での講座、「近代日本に於ける「国学」」の内容をつくるなかで、1935年に起きた天皇機関説排撃事件が、戦前の歴史に於いてかなり重要な事件であったことに思い至った。

 通説として存在し、官僚たちもその説を学び、一般庶民はその説とは無縁の世界で暮らしていた。しかし、一旦右翼が「国体」思想に背馳する不敬の思想であると排撃を始めると、一般庶民も、おそらくわかってもいないのだろうが、その非難の渦の中に入り込み、右翼の片棒を担ぎ、そして世論に押されて時の政府(岡田啓介内閣)も、天皇機関説を否定して「国体明徴声明」をだす。

 庶民のなかにつくりだされた「時流」が、歴史を動かした事件であったともいえる。

 ボクは、だから現在の世論の状況(たとえば、「慰安婦」問題に関する一般週刊誌や新聞の不当な攻撃、「一点突破・全面否定」という非学問的な攻撃)をみると、天皇機関説排撃事件を振り返る必要があるのではないかと思い、この後それを調べてみようと思っていた。
 その後『南原繁の言葉』(東大出版会)を読んでいたら、その本の編著者である立花隆の、自著『東大と天皇』(文春文庫全四冊)で近代日本の天皇観を東大を中心として考えていく中で発見したことは、「天皇機関説問題こそその(バカげた戦争に突入した)最大のターニングポイントだった」、「世の中が変わるときは、どれほど短い期間に、どれほど鋭角的に変わってしまうものかを知って、空恐ろしくなった」という文に接した。
 立花も、ボクと同様の感想を持っていたということである。

 「世の中が変わる」というとき、つまり誰かが変えようとしているのだが、週刊誌や新聞がそのお先棒を担いでいる姿が、まさにいま現出している。

 来年は、天皇機関説排撃事件から80年である。これについて研究を始めようと思う。
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【本】曽我逸郎『国旗、国歌、日本を考える』(トランスビュー)

2014-09-08 18:35:59 | 政治
 長野県中川村の村長さんの本である。実はここに記されているものの一部は、長野県中川村のホームページや曽我氏の個人ホームページで読むことが出来る。

 村長・曽我逸郎氏については、このブログで何度も紹介している。自治体の首長は、こういう人がなるべきであるが、多くはいまの議員諸氏と同様に、みずからの思想や政治家としての理想など一切持たず、地位・名誉・財産を得たいという人々が就任している。とくに地方自治体の場合は、いかなる人物であるかは問わないで、地元に利益をもたらす人が当選する。だから知性や教養はいらないのだ。答弁書は自治体の吏員がつくってくれるから、アホでもできる。
 しかし曽我氏は、京都大学で仏教哲学を学び、あの「電通」に勤めていた人物である。中川村の村長としては、「出たい人」より「出したい人」として立候補して当選。だから「出された人」である。

 本書の帯には、「空気に流されることなく、言いたいことは思い切って口にしよう。いま言わなければ、何も言えなくなる日がすぐそこに迫っているー」とある。この時代認識を、ボクも共有しているからこそ、曽我氏が時折発することばに注目しているのだ。

 本書に記されているのは、署名のとおり、「国旗・国歌」や戦争責任のこと、TPPのこと、原発事故のことなど多岐に亘っている。その根本にある思想は、日本国憲法の思想であると、ボクは思う。

 日本人として、いま考えなければならないことが、平易な言葉で綴られている。
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学力テスト

2014-09-08 08:01:31 | 日記
 全国統一の学力テストの実施については、ボクは明確に実施自体に反対である。子どもの学力なんて、一回のテストだけではわからないし、またその時点で行ったテストは、子どもにとっては一通過点でしかない。そういうものに対してわーわー騒ぐことなんかすべきではない。

 静岡県の県知事は目立つことが好きだ。そうすることによって注目度を上げたいのだ。

 前回の学力テストでも、小学校の国語の点数が全国最低であったから、ということで、平均点以上の学校名を公表した。公表された学校が新聞でも報道されたが、浜松市では特長としては地価が高く富裕層が集住しているところ、田舎で子どもの数も少なく外国人もあまりいないところの平均点が高かった。

 今回も県知事は、市町村別の平均点を公表した。ボクはそれぞれの地域の特長はわからないので何とも言えないが、おそらく前回の特長と同じ傾向だろうと思う。

 要するに、子どもの学力は家庭の経済力・教育力、学校の規模などの条件に大きく左右されるのである。ならば、自治体がすべきは、子どもの家庭の経済状態を改善する施策、子どもの教育にもっとカネを投入して先生の数を増やし少人数教育をすればよいのだ。そしてとくに外国人の子どもがいるところについては、子どもに対応した個別指導体制をつくることだ。そういうことを何もしないで、現場に対して叱咤激励だけをする。なんとまあ楽なことか。自分は何もしないで騒ぐだけ。

 だいたい静岡県は教育にカネをかけない県だ。校舎だって、他県と比べると見劣りがする。廊下の広さなんかも狭い。子どもに読書をすすめるなんていいながら、本を買うお金も出し渋り、学校図書館法で定められた司書もおかない、それでいてスポーツの部活動に異常に力を入れる。

 
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謙虚であること

2014-09-08 00:23:05 | 日記
 学問研究に従事する知人があんがいいるが、そのなかには、2種類の系統がある。ひとつは、ものすごい力をもった研究者なのに、決してそういうことを誇らないで、ボクのような人間に対等に接してくれる人、もうひとつは「ボクは・・・なんだ、すごいでしょ!」と、いかに自分自身は博識で立派な人間であるかを語る人、その二つである。このように分けても、後者のほうが圧倒的に少ない。ボクの知人には、3人いる。今日、一人増えた。

 帰宅してから、友人からすごいひとがいるから来い、という連絡を受けた。20時頃、来いといわれたところに行ってみると、年老いた方が大きな声を張り上げていた。一目で、後者の系統の人であると見抜いた。来なければよかった、と思ったが、我慢して対応した。

 その方は、自治体問題の研究者であり実践家のようだが、たとえば長野県で合併しなかった町村は、「俺が講演に行ったからだ」というようなことを話された。また、浜松市に併合された三つの町村でも、合併前に講演に来たことがあるとも話された。矛盾である。しかしその人は、この矛盾に気がつかない。

 後者の人の特長は、たとえばボクがあることについて話すと、それについて「ボクはそれはよく知っている、それについては○○年も研究している」などと受ける。いろいろな分野で、「知ったかぶり」を示す。分野が全く異なっていることでも、すべてよく知っているという。話していると、それが早とちりであることが判明してしまうのだが・・・

 ボクは、学問というものは、いかなる分野であっても、研究には終わりがない、無限であると思っているので、どの分野についても「俺は知っているぞ」なんていう人は信じられない。

 昨日講演をお願いした学者は、ほんとうはすごい学者であり、『新憲法の誕生』という本は、読んだときに「これは名著だ!!」と直感したほどの研究者なのに、みずからそれを誇ることはしない、実に謙虚に対応して下さる。ほんとうに「能ある鷹は爪を隠す」なのだ。

 ボクの周辺には、第一の類型の学者が多いので、ほんとうにありがたい。ボクはそういう人びとの姿勢をみて、みずからも謙虚でなければならないと戒めている。

 今日昼間、富士市に行ったが、そこは第一の類型の方ばかりなので、たいへん落ち着いて仕事が出来た。

 後者の類型の方には、敬意を表しながら遠ざかるということをモットーにしている。今日夜お目にかかった方についても、二度と会わないようにしよう。
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アベノミクスは庶民無視の政策

2014-09-06 08:12:40 | 政治
 まず最近給与があがったと報道される。しかし、税金(所得税・住民税)や社会保険料などを引かれた可処分所得をみれば、実質的な所得の上昇はまいられないはずだ。そして年金もその支給額が減らされている。

 そして消費税という、庶民からの収奪的な税は、確実に庶民の消費生活に痛みを与えている。

 消費税増税と共に、いろいろな物価があがった。我が家の近くのラーメン屋は、3月まで500円だったのが、増税後は600円になった。便乗値上げである。

 そして円安により、ガソリン価格は上昇し、輸入品も価格が上昇している。しかし、円安により輸出が増え、輸出企業の経済活動が活発になり、国民所得も上昇し・・・・というアベノミクスとやらは、輸出の伸び悩みで完全に失敗である。

 日本政府のいままでの経済政策は、常に輸出企業を援助してきた。自動車を買うと、カネが支給されるという制度があった。そのカネは税金、つまり税金をつかって自動車製造会社を援助する仕組みであった。その姿勢は一貫している。現在の円安も、そして消費税の増税(輸出戻し税)も、庶民の生活をもとに輸出企業を援助する政策なのである。

 アベノミクスなる政策は、徹頭徹尾庶民の生活を無視するもの。これが続けば続くほど、庶民の経済生活は縮小していく。国内消費に依存してきた日本の経済成長の息を止める政策だ。

 経団連に結集している超大企業のための、海外の投資家のための政策が、いま展開されている。

 「朝日」もそれに関連した記事を載せている。庶民の生活、中小企業には、「冬の時代」である。このままでは凍結してしまう。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11335978.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11335978
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「子どもの貧困」に関する水島氏の指摘

2014-09-05 19:32:58 | 政治
 これを読んでも、政府が社会保障にカネをつかうことがないことがよくわかる。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20140905-00038858/
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怒り

2014-09-05 19:19:08 | 政治
 消費税8パーセントは、かなりの負担である。できるだけ消費を控える消費行動をとらざるを得ない。

 しかし、安倍政権は、消費税を10パーセントに引き上げるつもりである。では5パーセントから8パーセントになったが、その増税分は社会保障の財源になっているか。

 政府や自治体のカネの使い方をみれば、想像できる。増税したカネで公共事業をめいっぱいおこない、他方財政難だからといって社会保障を減らす。

 政府も自治体も無駄遣いばかりだ。政府は、財政赤字だから節約しようなんてまったく考えてはいない。

 しかし国民は、財政難だから増税も仕方がないなんて、理解を示す。

 振り込め詐欺が大問題になっているのに、同じ手口でだまされる人が後を絶たない。

 日本国民は、あまりにもお人好し、人を信じすぎる。疑う、ということは、生きていく上でとても大切なのに。
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【本】井上ひさし『兄おとうと』(新潮社)

2014-09-04 21:41:08 | 
 井上ひさしの戯曲である。上演はこまつ座。この作品はみていない。みていないけど、戯曲は楽しい。ボクは、むかし演劇鑑賞にかんする仕事を手伝っていたことがある。演劇というのは、舞台で上演されてはじめてその良し悪しがわかるのだが、しかし台本の出来不出来も相当影響する。よい台本なら、その演劇もだいたい良いものになる。

 井上ひさしの戯曲は、できのよい台本である。だから台本だけでも面白い。

 さてこの劇は、吉野作造とその弟・信次の話し。吉野作造は言わずと知れた大正デモクラシーの旗手。10歳年下の信次は農商務省の官僚。大臣にまでなった人物である。この二人、いずれも東京帝国大学法学部を首席で卒業し銀時計をもらっている。

 立場は相当異なる。兄弟の縁が切られたり、仲直りしたり。「なぜ」と問う重要性を啓発したり、吉野作造がどういう社会事業を展開していたのかなど、大正デモクラシーの旗手という面だけではなく、実際におこなっていた社会事業についても説明される。

 仲直りの場面、幼いときに生き別れになった兄弟が、箱根の旅館で再会する場面がある。なんとその二人の生まれ故郷が、大井川の上流の山の中だって。となると、川根本町だ。

 また吉野信次の部下に、岸信介なる者もいたそうだ。

 大正デモクラシーは、いま振り返る価値がある。
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県都と非県都

2014-09-04 18:42:26 | 日記
 今週の土曜日は静岡市に行く。安倍内閣の集団的自衛権行使容認に関する学習会への参加である。講師は、ボクの大学時代の先輩である。

 さてボクは静岡市によく行く。浜松・静岡間のJR鈍行の交通費は、往復約2600円である。所要時間は片道約1時間余である。これがなかなかの負担である。長年所属している研究会で、現在2年間の約束で責任ある立場にいるので、ほぼ毎月参加している。もちろん交通費などは自弁である。

 もうひとつ、静岡県の社会運動史編纂の仕事にも関係しているのでこれも毎月静岡に行く。こちらは車で行く、所要時間は片道1時間20分くらい。ここは鈍行の往復交通費が支給される。最低でも交通費が支給されるのはありがたい。

 さて静岡県全体に関わることがあるときは、非県都に住む人々も、静岡市に行かざるをえない。静岡市に行くことが時間的にも経費的にもたいへんなところに住んでいる人々もいる。浜松市なんかまだ条件がよいところだといえよう。

 静岡市に住んでいる人々は、非県都から集まってくるということのたいへんさを理解していない。

 ボクも、県都・静岡に行く回数を減らさなければならないと思うようになっている。なかなかたいへんなのである。
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【本】高橋敏夫『井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書)

2014-09-04 13:58:43 | 
 飯沢匡という劇作家がいた。飯沢は『武器としての笑い』(岩波新書)を書いた。飯沢の劇は、笑いがまさに権力と戦う武器となっていた。

 そして井上ひさし。彼も「笑い」を大切にした。井上作、こまつ座上演の劇はたくさん見た。いやそれだけではなく、ボクは彼の戯曲を購入して読んでいる。

 彼の劇は、厖大な集積された知識の上につくられる。たとえば夏目漱石なら、彼は全集はいうまでもなく、その評伝など関連文献を読みあさり、そのうえ、その人物をまったく異なった視点から見させる奇想天外の劇に仕立て上げる。その見事さ。いつもボクは、彼の劇と戯曲に感嘆の声を上げていた。

 飯沢と井上の共通点は、現在の社会、政治のあり方を凝視し、そこに孕まれている矛盾を止揚することを意識しながら、劇をつくってきたということだ。

 そしてその方法的な違いは、「武器としての笑い」と「希望としての笑い」である。

 時々、ああ井上ひさしはもう亡くなっているのだ、と思うことがある。雑然とした書庫に、彼の作品を発見するときだ。彼の戯曲は決して長くはないのだが、そのなかにはものすごい量の知識が詰まっている、そうした文を書かなければならないとボクも思うが、とても真似は出来ない。しかしそうした方向性を以て、ボクは仕事に取り組む。

 この本にも、井上の「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに」のことばがあった。

 そして高橋敏夫は、井上の笑いを繙いていく。

 ・・笑いは絶望のさなかに、点灯させる。はるかかなたに点灯させるのではなく、笑ういまとここで点灯させる。だとすれば、笑いは遠くの希望に繋がるというより、それじたいすでに希望のあらわれではないか。

 高橋は、井上の生き方をこう記す。

 現実認識はあくまでも暗く深刻に。そしてそんな現実を変更する実践においてはあくまで明るくはつらつと。

 井上の劇の台詞には、ボクたちを激励するものがふんだんにある。

 小さな火花も 広野を焼きつくす
 大きな火事も 一本のマッチが火付け役
 小さな堤防も 蟻の穴から崩れ去る
 小山のようなご馳走も 一口ずつ食べなきゃなくならぬ
 万里の長城も 石ひとつから始まった
 どこかでだれかが 小さな火花を燃やすかぎり
 人間に人間に まだ望みは残されている
 小さな火花も 広野を焼きつくす
 広い海原も 小さな水滴の集合
 深山の森林も 一樹一樹の木の連合
 満天の星空も 小さな星屑の大合同
 百年の歳月も 一日一日の集大成
 だからだれでもが 小さな火花になるべきだ
 そうすれば人間の 未来に期待が持てるだろう


 (『道元の冒険』より)  
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りんご

2014-09-03 23:17:06 | 日記
 ここ数年、長野県中川村の富永農園からりんごを購入している。今日も注文した。「つがる」という品種が10㎏で3500円である(送料込み)。これが安いかどうかは知らない。

 なぜ中川村から購入しているかというと、中川村の村長さんの見識がとてもすぐれていて、その村長さんの村政がうまくいくように協力したいと思ったからだ。毎年、何回か注文し、親戚にも送るようにしている。

 平成の大合併の大合唱が聞こえてきたとき、静岡県の市町村は、我も我もと近隣の相対的に大きな市に併合されることを望んだ。浜松市も周辺の市町村を呑み込み、日本で2番目に広い市になっている。といっても、静岡県でも頑張っているところがある。伊豆地方、周智郡森町もがんばっている。大井川上流の中川根と本川根は、都市と合併しないで、近くの町と合併しただけだからがんばっているといってもよいだろう。

 いま、浜松市に併合された市町村は、合併してよいところなんか何もないと嘆く。ボクにしてみれば嘆かれても仕方がないと思う。というのは、そうなることは事前にわかっていたからだ。ボクは知り合いには、合併するとどうなるかを説明したりした。しかしボクなんかの力はあまりに小さい。

 だが長野県は、「平成の大合併」の波に呑まれなかった。慧眼である。中川村もそうだ。自立的な村として生きていくことを選択した。

 さて、その中川村の村長さんの「美しい村」を美しいままに引き継いでいこうという文に接した。ぜひ読んでいただきたい。すべての首長が、こういう知的で創造的な認識をもつことができれば、日本は確実によくなるはずだ。
http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685&i=11892
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今日の「中日春秋」

2014-09-03 20:10:51 | メディア
 今日の「中日春秋」の内容はよい。しかし「防衛予算」の社説はいただけない。

 ウィリアム・バスビーさんは米軍の兵士だった。アフガニスタンの戦場から戻ってきた彼は異様なふるまいを見せ始める。水道でいつまでも手を洗い続けて言う。「落ちないんだよ」。手に汚れはない。「何のこと?」と母親が聞くと答える。「血だよ」。彼は二十三歳で死んだ。銃を自らに向け撃ったのだ

▼米兵の命を奪うものは何か。一昨年、自ら命を絶った兵員の数が、軍事行動で命を落とした兵員の数を上回ったそうだ。米兵の自殺率は一般の人の二倍前後といわれる

▼戦場で無残な死を見続け、悪夢にさいなまれた人ばかりではない。部隊内での暴行などで追い詰められた兵らにも自殺が目立つという。今や米軍にとって自殺防止は恐るべき“戦線”となっている

▼一人の戦死者も出していない自衛隊でも、自ら命を絶つ隊員は後を絶たない。海上自衛隊で上司からいじめを受けた隊員がまた自ら命を絶った。いじめは同僚らに目撃され、この隊員は転勤を願い出ていたが、無視されたという

▼東京高裁はこの春、いじめで起きた隊員の自殺をめぐり、海自が実態解明の鍵となる文書を隠していたと断じる判決を出している。やまぬ悲劇が暴いているのは、隊員の心の痛みと向き合わぬその体質だろう

▼自衛官の自殺率はかつて一般の人と同じ水準だったが、一・五倍にもなっているそうだ。米軍並みになっていくのか。
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【本】日本史研究会など『天皇制を問う』(人文書院)

2014-09-03 11:11:02 | 
 「「国学」が呼吸するとき」というテーマは、要するに近代天皇制イデオロギーをその始原から現在までを辿る旅であった。

 このテーマを考えるに際して、たくさんの本を買い、また読んだ。買ったけれども未だに読んでいない本もたくさんある。このテーマはもっともっと深めていきたいと思う。

 さて、その中の一冊が本書である。1990年に刊行されたものだが、内容的には古くなってはいない。
 
 これは日本史研究会、京都民科歴史部会が共催した「天皇制を考える歴史講座」の記録である。講座の記録であるから、内容的に緻密な論証がなされているわけではないが、それぞれの講師がとりあげた内容からは、様々な問題が提起され、触発されること大である。

 ボクと交遊があったいまは亡き江口圭一氏の論考(「昭和天皇の戦争責任と日本人の国家意識」)の鋭さ、松尾尊氏の論考は簡にして要を得たもので、まったく古さを感じない(「象徴天皇制の成立」)。

 松尾氏のそれは、後に『思想』(岩波書店)1990年4月号に掲載されたが、ぜひ読んで欲しいと思う。

 また、ひろた・まさき氏の差別論(近代天皇制と差別)も、氏の年来の主張のエッセンスが記されている。岩井忠熊氏の「近代天皇制と祭祀」ももっと詳しく論じて欲しいと思うような豊富な内容だ。

 戦後歴史学の担い手たちが研究されてきたことが、そしてその問題意識が、いまや継承されていないという気がしている。

 ボクの歴史に関する講座は、そうした問題意識と研究を、市民のなかに広げるという使命感で行われる。

 書庫には、いままで購入した本が乱雑に放り込まれている。そこから持ち出してきては読み、新たに購入しては読み、講座の内容をつくってきた。こういう機会をつくっていただいた酢山さんに感謝である。

 次は、9月12日の平和に関する講演の内容を詰めていかなければならない。毎日毎日が勉強である。
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「国学」を問うこと

2014-09-03 10:55:27 | 近現代史
 ボクの講座の最後は、『正論』5月号の八木秀次氏の主張で終わる。

 八木氏は、最近の天皇/皇后の発言について、以下のように記している。

「陛下が日本国憲法の価値観を高く評価されていることが窺える。私がここで指摘しておきたいのは、両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねないことだ。なぜこのタイミングなのか。デリケートな問題であることを踏まえない宮内庁に危うさを覚える」、「憲法改正は対立のあるテーマだ。その一方の立場に立たれれば、もはや『国民統合の象徴』ではなくなってしまう。宮内庁のマネージメントはどうなっているのか」、「それにしても両陛下の誤解を正す側近はいないのか。逆に誤った情報をすすんでお伝えしている者がいるのではとの疑念さえ湧いてくる。宮内庁への違和感と言ったのはそのような意味においてだ」

 つまり八木氏にとって、天皇制の存在意義というのは、みずからが利用できるかどうかで決まるということを示している。安倍首相のお友だちである八木氏は首相と同様に、憲法改悪を目指している。しかし、天皇/皇后の言動はそれに棹さしている、ならばそれはおかしい、と考えているのだ。

 現在の象徴天皇制は、日本国憲法に基づいている。したがって、天皇皇后が日本国憲法遵守を語るのは当たり前の話。とくに現天皇は、即位に際して憲法を守ることを言明している。

 八木氏は、昭和天皇のように、「象徴」でありながら、実際に沖縄のこと、米軍の日本駐留などのことについてしばしば言明してきた、そうした天皇を好むのだろう。

 しかし、近代日本の歴史を振り返ると、天皇(「国体」)が強調されるとき、日本「臣民」は国家のために「動員される」受け身の存在として現出した。

 そういう歴史を繰り返してはならないのである。

 ボクの講座の主旨は、これにつきる。「「国学」が呼吸するとき」というテーマは、「国学」、その近代的な形態である「国体」思想が呼吸する、つまり動き始めるときは危険であることを証明することなのだ。

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官僚の大学支配

2014-09-02 21:01:48 | 政治
 いま、どこの大学に行っても、昔あったタテカン(立て看板)なんか一枚もない。昔は、「大学の自治」をどのように強化させるかという視点から、教員も学生も頑張った。

 しかしいま、「大学の自治」は風前の灯火となっている。現在化石のように残っているのは、「教授会の自治」。しかしこれももうじき消えていく。法律が改定されて、学長などの権限が大幅に強化される。

 ではその学長などには、どういう人物がなるか。それはまう明らかだ、文部科学省からの天下り。

 今日の『中日新聞』の記事。ほとんどの国立大(といっても国立大学法人)には、文科省の官僚たちが天下って副学長などの幹部席に座っている。

 記事は、「全国の国立大学法人86校のうち約9割にあたる76校で、計77人の文科省出身者が理事や副学長、事務局長となっている」という内容だ。

 国立大学が国立大学法人とされ、「国立」ではなくなった。しかし、大学の運営費などは、学生の学費では当然まかなえないから、政府からカネをもらわなければならない。できるだけたくさん欲しい、しかし政府はそのカネをけちる、増額を獲得するためには官僚を天下りさせて政府との風通しをよくしなければならない、かくて文科省の官僚が大学に天下りして、そして副学長に就任して、大学を「統治する」。

 かくて「大学の自治」は法的にも、経済(財政)的にも消えていく。そして大学は、職業訓練のための、つまり専門学校化していく。

 大学は学問研究や真理を探究する場ではなくなっている。

 いままで、政治に異議をはさむ勢力はたくさんあった。労働組合、政党、そして大学。それらはすでに力を失っている。日弁連?いま頑張っているが、法曹改革で、その勢力も弱体化してきている。

 いまや、異議を唱えるのは、個人や市民グループだけとなりつつある。こういう時代が、計画的につくられてきた。

 静かなファシズム。

 
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