浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

被害者は「忘れない!!」

2022-04-23 22:20:58 | 国際

「私たちは目の前で起きたことを忘れない」ロシアが“フェイク”と断ずる市民虐殺 主張覆す決定的証言と映像を入手【報道特集】

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教育委員会のこと

2022-04-23 21:58:21 | 社会

 ネットでニュースの検索をしていたら、こんな動画を発見した。

【特集】「独自入手」存在しないとされた『17年前のいじめ調査文書』成人した被害者本人も認める詳細記録...「ない」と一貫主張の神戸市教委は?

 ひどい!というしかない。当時学校ではイジメ(イジメではなく、犯罪行為である)を認めていたが、教育委員会かどこかから「なかったこととする」という「指令」があったようで、学校は一転して「イジメ」を否認するようになった。17年前のことであるが、この問題は未解決のまま存続している。

 教育委員会は教員の「出世コース」である。教育委員会を出た後、ほとんどは学校の管理職になる。「出世コース」には、失敗や事件はあってはならないのである。だから「なかったことにする」ということになるのだ。

 人間は、職場などでみずからのポジションを上昇させたいと思ったときに堕落していく。

 

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【本】サヘル・ローズ『戦場から女優へ』(文藝春秋)

2022-04-23 09:05:58 | 

 昨日図書館から借りだして一気に読んでしまった。素晴らしい内容で、いろいろなことを教えてもらった。

 私は、サヘル・ローズさんについては、まったくその存在自体知らなかった。彼女は、イランの貧しい家庭で育った。しかしイラクによる空爆で家族をなくしてしまった。救援に来た医療スタッフとボランティアの若い女性が灰燼となったところから、たった一人の少女を救い出した。彼女は孤児院に入った。しかしそのうち、自分自身を救い出した若い女性の養女となる。彼女は裕福な家庭の生まれであったが、親からは勘当状態となった。フィアンセが日本にいたことから来日。しかしそのフィアンセからは追い出され、ホームレスとなった。そこから、給食のおばさんらの善意に支えられて、貧しいながら生き抜いてきた。中学校では壮絶なイジメに遭い、高校(都立園芸高校)では楽しい日々を過ごしながら、しかし貧しさからは解放されなかった。そのうちラジオの仕事などが入り、生活は徐々によくなっていった。

 サヘル・ローズさんもすごいけれども、その母親がすごい。ひたすらサヘル・ローズさんのために生きるその姿に神々しさを感じた。

 本書にこういう記述があった。

 私が経験した戦争とは、実際に周りの人が目のまえで死んでいくという現実です。国同士の争いは関係ない、つまり私たちにとっての戦争とは、あらゆるものが破壊され、殺すか殺されるか・・・

 私はイラク軍の空爆によって家族を失いましたが、そのことでイラク人を憎いと思ったことはありません。たしかに愛する人を殺されれば憎いと思うのは当然。しかし憎悪の感情はきわめて個人的なものであって、怒りの矛先を直接関係のない人々に向けるべきではないのです。ところが戦争は、国同士の争いを個人的な憎しみに転化します。

 たとえばニューヨークで起きた同時多発テロはとても悲惨でやりきれない出来事でした。家族や愛する人を奪われた方たちの気持は、私には痛いほどよく分かります。しかし憎むべきはテロリストであって、アラブ人がイスラム圏の人たちではない。

 私がつらいのはイスラム圏の出身というだけで世界から白い目で見られたり、ひどいときは テロリスト扱いを受けるという事実。

 結局、戦争で傷つくのは市民なのだから、その私たちがいがみ合えば、さらに傷口を広げることになります。それは憎しみの歪んだ結末と言うほかない。だからこそ、私たちは 過去の悲惨な体験を分かち合い、おたがいに乗り越え、ちからを合わせていかなければならない・・・

 そのようなことを日本の若い人たちにも感じてもらいたい。私の体験を知った人がいつか自分たちの子どもに戦争の真の悲惨さを伝え、さらにその子どもたちが語り継ぐことで、やがて平和な世界が訪れると、私は信じています。

 みずからの体験にもとづく、貴重なことばである。

 この本の存在を教えてくれた高世仁さんに感謝、である。

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国家的差別

2022-04-22 20:07:11 | 政治

 昨日の『東京新聞』文化欄に、橋本直子氏の「日本のウクライナ避難民受け入れ 優遇?差別? 他国出身者も同様に」があった。

 ロシア軍によるウクライナ侵略により、多くのウクライナ市民が難民となって国内外に移動している。その一部が日本にも来ている。当然であるが、避難民の生活が困らないように手厚い保護を行うべきである。

 だが、私は大きな疑問を持つ。他の地域から日本に避難民としてやってくる人々に対して同じような対応をしているか、というと、決してそうではない。そもそも日本政府は日本に逃れてきた外国人を難民として認定することをせず、入管施設に閉じこめている。それだけでなく、「実習生」という方式での低賃金労働力(奴隷労働に近い)は積極的に受け入れる。語学の教員なども受け入れてはいるが、そうでない外国人に対してはきわめて厳しい対応をしている。排外主義と言ってもよいくらいだ。

 ウクライナだけではなく、ミャンマーやシリアなど、紛争が起きているところは多い。そういうところからの避難民も、ウクライナ人同様に迎え入れるべきである。

 国家が差別的対応をしているといってもよいだろう。

 この背景には、近代以降の日本の意識、欧米崇拝・アジア蔑視という差別的な意識がある。これがなかなかぬけない。日本の難民対策、あるいは外国人の入国「管理」も、その意識が強いように思える。

 この文の筆者である橋本氏は、「ウクライナ避難民の支援策は、他地域出身者にも公正に提供されるよう法制化すべきだ」と末尾に記しているが、その通りである。

 日本国家は差別的な対応をするな!といいたい。

 

 

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腐敗を放置すると・・・

2022-04-22 10:00:50 | 

 わが国も政界、経済界、官界など、腐敗は至るところにころがっている。腐敗する輩をつないでいるのは、利権である。要するにカネ。カネは人間を堕落させる。一定の地位以上の者は、際限なくカネを求める。庶民が、そんなにカネを稼がなくても・・・と思っていても、彼らは際限ない欲望の亡者である。カネ、カネ・・・・・そしてカネと一緒に地位も名誉も流れてくる。彼らはそれを掬うだけだ。

 カネを得るためには、他人がどうなろうと無関心だ。とりわけ庶民などは、金もうけの手段としてしか存在価値はない。庶民の生活なんかには関心はない。

 さて、ロシアはその腐敗の極にある。おそらくプーチンによって殺されたロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの『ロシアン・ダイアリー』(NHK出版)を読んでいるが、その腐敗は凄まじい。すでにロシアは法治国家ではなく、プーチン独裁国家といえるほどだ。行政はもちろん、司法も立法も、すべてプーチンの意向に逆らわない。

 プーチンは大統領として、最高権力者としての地位を確保するために、敵対者を殺すだけではなく、民衆を殺しても平気である。現在のウクライナ侵攻は、今までプーチンが行ってきたことをそのまま実行していると言っても過言ではないだろう。

 経済についても同様だ。こういう記述がある。

 クレムリンのイデオロギーは、表向きには人民に代わって国家が経営権を握る「国家経済」の形成を必要とする。しかし一皮剥けば国家経済は、主たる政府役人が新興財閥である官僚経済なのだ。役人は地位が上がれば上がるほど有力な新興財閥となる。

 "国家"新興財閥という考えは、プーチン自身と彼を取り巻くごく狭い範囲のグループものだ。背景にあるのは、ロシアの主要な歳入は原材料の輸出から得られるのだから、国が天然資源を支配しなければならない。つまり、「朕は国家なり」の精神だ。彼らは自分たちが国中でいちばん切れ者だから、残りの人びとにとって何が良いか、これらの歳入をどう使うかをいちばんよく知っていると考えている。・・・・

 これらの超独占企業は、今や新興財閥となった元秘密警察の連中に支配されている。プーチンはこれらの元秘密警察上がりの新興財閥しか信用しておらず、互いに諜報機関出身であるから、人びとにとって何が一番有益かを自分たちがいちばんよく知っていると考えている。何であれ彼らの手を通さねばならないのだ。プーチンとの取り巻きもおそらく彼自身も、天然資源を制するものが政治権力を制すると信じている。ビジネスがうまくいく限り、権力の座もついてくるというわけだ。

 これは新興財閥に関する記事であるが、ロシア軍の、かつての日本軍を彷彿とさせるような新兵イジメなども記されている。また年金支給を打ち切ったり、でたらめの政治をしているさまも描かれる。

 ロシア国家は、ロシアの民衆をだまし、利用し、暴虐の限りを尽くしている。それが本書には描かれている。カネのために、官僚も、司法機関の者たちも、メディア関係者も、みなプーチン政権のご機嫌を伺っている。プーチンのご機嫌を損なわなければ、カネが入る。上意下達の世界は、また贈収賄の世界だ。腐敗が進むと、取り返しのつかない地点にまで、国を、民衆をもっていく。それがロシアだ。

 ロシアを理解するための最良の本だと思う。

 

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許せないロシア軍

2022-04-21 22:11:26 | 国際

「虐殺は事実」ブチャを現地取材した志葉玲さん語る 現地住民「ロシア兵は誰彼かまわず殺した」

 私と同じように、ここにもベトナム戦争に生き方を刻印された人がいる。大学時代の後輩でもある。

高世仁の「諸悪莫作」日記

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歴史の審判

2022-04-21 20:32:48 | 国際

 ロシアでは、一般の人びとには正確な情報が伝えられていない。ウクライナでロシア軍がいかなる蛮行を働いているかを知ることなく、虚偽がまかり通っている。ネットで、プーチンが子どもなどと話しているところを見たが、当たり前だが、子どもはロシアの虚偽を信じていた。

 しかしいずれこの蛮行が、ロシアでも白日の下にさらされることになるだろう。そのとき、ロシア人はどうなるのだろうか。

 21世紀のこの時代に、国際法を蹂躙して、他国の民衆を殺戮し、生活の場を破壊したロシアの蛮行は、永遠に語りつがれることだろう。

 歴史の審判がいつになるかはわからないが、ロシアは断罪されなければならない。

 ロシア国内では、逮捕されることを覚悟して、ウクライナ侵略に抗議する人びとが増えているという。

 プーチンのこの悪行を、ロシア国民はできるだけ早く、停止させなければならない。

Злодеяния Путина должны быть как можно скорее остановлены российским народом.

 

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「式」嫌い

2022-04-21 19:18:23 | 日記

 卒業式や入学式、そして結婚式・・・とにかく「式」と名のつくものは嫌いで、でなくて良いものならでなかった。

 大学の入学式も卒業式も出ていない。今年の早稲田大学の入学式で祝辞を述べた映画監督の是枝裕和さんも、出ていないとのこと。

 今の大学生は真面目で、講義にはせっせと出席しているとのことだ。

 私の学生時代は、4月はたくさんの学生が出席するけれども、しばらく経つとかなり減る。私は、選択した科目の講義は、最初だけ出席して、「これはでる、これはでない」と自分で決めて、でると決めたものにはできるだけでて講義を聴いた(でない講義の方が圧倒的に多かった)。ただし語学とゼミの授業は出席を採っていたので出た。

 講義に出ていなくても、試験になるともちろん勉強する。選択した(もちろん必修のものは当然)科目に関連する本は何冊か買って勉強した。文学部の学生は、すべての科目がそうだとは言えないが、多くは主観的な回答を書けば良いからあんがい試験準備をしていなかった。是枝さんは文学部卒とのこと、ラクだっただろうなあ。

 しかし法学部はそうはいかない。試験期間中は、それこそ必死で勉強した。出席していない科目の試験には、出席している友人からどこがでるかのヤマを聞いて試験に臨んだ。

 私はすべての単位を取得して卒業したが、レポート試験というのもあったので、それで命拾いしたのかも知れない。

 今の学生は、自分で主体的に勉強するという訓練ができていないようだ。勉強の仕方が分かっていれば、講義に出ていなくても、単位は取れる。もちろん、本を読んで勉強することは必須である。

 是枝さんも言っているが、主体的に勉強したこと以外、記憶には残らない。

 

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中村哲さん

2022-04-20 20:00:36 | 日記

 長年ペシャワールの会の会員となっている。といっても、ただ会費を送っているだけだ。でも中村哲さんの仕事をほんのちょっと支えてきたということだけ、でも逆にそれによって精神的に支えられてきたような気がする。

 昨日「ペシャワール会報」151号が届いた。

 それによると、アフガニスタンの民衆が経済制裁でとても苦しい生活を余儀なくされているとのことだ。アメリカが追い払われて、タリバン政権になったからといって、国際的に孤立化させられている。アフガニスタンは、ソ連の軍事侵入、その後のアメリカの軍事侵攻により、たいへんな目に遭わされてきた。今もなお、アフガンの民衆は苦しんでいる。

 そのために、ペシャワール会では、アフガン民衆の一部の人々に食糧援助を行ったという。制裁下にあるため、送金できないということだ。

 どんなことがおきても、苦しむのは民衆である。同じ民衆の一人として、助けなければならないと思う。

 さて、このなかに、日本電波ニュース社・谷津賢二さんが中村哲さんのことを書いている。素晴らしい文だ。「利他に生きた義の人」「比類なき知性を持った人」「正しく勇敢である人」「人は愛するに足ると言える仁の人」と中村さんのことを具体的に記し、最後に「人と自然の和解」について説明している。

 「人と自然との和解」について中村さんは、「私は自然にも人格があると考えています。だから人格を持つ自然と人間が和解する、と表現しているのです」と語ったという。

 とてもよい説明だと思う。人格を持たないから自然を破壊しても、人間は平気で生きてきた。だが、自然に人格を認めれば、そう無闇矢鱈に破壊することはできなくなるだろう。

 相手に人格を認め尊重する、そのことが、とても大切だとおもう。

 

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【劇】劇団1980「素劇 あゝ東京行進曲」

2022-04-20 08:02:00 | 社会

 この劇、本当は1月に見る物だったが、劇団スタッフがコロナに感染したために今月になったもの。なかなか面白かった。

 舞台装置はほとんどない。クロに統一した衣裳。ただし時々、その上に何かを羽織る役者がいる。伴奏楽器もない。歌を中心とした劇なのに。伴奏はすべて役者の声。原始的と言えば原始的な舞台。しかし山もあれば、汽車もあり、Victorのマーク、そして十字架もある。すべて人間の手やロープでそれを表す。演劇をまさに「素劇」で演じる。これぞ演劇、とも言える。観客の想像力が、役者の演技の周囲を埋めていく。場所は東京であったり、イタリアであったり、山形県天童にもなる。舞台装置がないから、観客の想像力が頼りだ。

 なかなかの構成力だと感心した。誰が発案したのか、この「装置」。役者と観客がつくりだす「装置」、そのうえでストーリーが展開していく。

 日本のレコード歌謡の草創期に活躍した「東京行進曲」を歌った佐藤千夜子の生涯がそのストーリーである。天童の大きな商家の娘に産まれた。しかし母は妾であった。幼い頃からメソジスト系の教会に通う。通訳になろうと上京、しかし本当は音楽の学校に行きたかった。東京音楽学校に入学、中山晋平など当代の作曲家、作詞家に見出され歌手になる。

 だがその盛期に、イタリアに歌の勉強に行く。しかし目的を達せずに帰国。すでに佐藤の時代は去っていた。戦時中には軍隊の慰問活動に参加するも、すでに過去の人。

 戦後も、貧しいなかで一生を終えた。華々しい一生であった。

 その生涯を、時代背景とともに描く。まったく知らなかった佐藤千夜子の人生を、観客は、たくさんの歌とともにたどっていく。

 良い演劇であった。高校生の演劇鑑賞会にも適していると思った。

 

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【本】小田実『戦争か、平和か』(大月書店)

2022-04-19 20:18:34 | 

 2002年に刊行された本である。その著者である小田実は、残念ながらこの世にはいない。小田は、ロシアによるウクライナ侵攻を見ることはない。だが、小田は、この事態について黙って見ているということはせずに、「ウクライナに平和を!」と叫んだことだろう。

 小田が亡くなったのは2007年7月30日、ちなみに小田は75歳であった。8月4日、青山葬儀場で葬儀が営まれた。

 吉川勇一さん(吉川さんも、もういない)から、追悼文を書いてくれと言ってきた。「市民の意見 小田実さん追悼特集」に掲載するというのだ。私は「あの頃の志を落ち続けながら」という小文を送った。その文の末尾に、吉川さんは、私のことを「高校生の時、浜松ベ平連を結成。以後ずっと反戦平和・戦後補償などの運動に関わる」と書いた。高校生の頃から、「〇〇に平和を!」という「反戦平和」の志は、消えることなく私の心にある。だから、ウクライナのことも、もちろん、それ以外の戦乱についても、何らかの寄与ができるように、運動に参加できない場合は、寄付金を送ってきた。

 私の書棚には、小田の本が並んでいる。小田の本は、『何でも見てやろう』はじめ、たくさん読んできた。そしてロシアのウクライナ侵攻があってから、この本を読んだ。小田の早口の声が聞こえてくるようだ。

 この本の中身を詳しく紹介することはやめる。しかしこれだけは紹介しておきたい。

 「平和主義」の基本の倫理、論理は「殺してはならない」ではなく、「殺されてはならない」です。(228)

 「殺してはならない」はその本質において「殺す」側、「する」側の倫理、論理です。それに対して、「殺されてはならない」は、「殺される」側、「される」側の倫理、論理、あるいはあくまで「殺される」側、「される」側に立とうとする倫理、論理です。人間はいかなる理由、大義名分に基づこうと殺されてはならないのです。(230)

 「「する」側ではなく、「される」側から考える」、これは、小田や、あるいは本多勝一の本などから学んだことだろうが、私がいつも立つ地点である。

 さてこの本は、以下の文でしめられている。

 (この本を書いたのは)世界のさきゆきはこのままではたいへんなことになると考えたからです。ここまで読んでくれてありがとう。では、きみ、あなた、諸君、自分で考えてくれたまえ。(240)

 私は、考えなければならない。ベ平連は、みずからの考えを押しつけることはなかった。考えて、考えて、そして話し合い、行動する、であった。

 小田が生きていたら、きっともう、うごき出しているのだろうな。

 

 

 

  

 

 

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2022-04-18 20:08:19 | 日記

 先日zoomでの研究会があり、終わった後の雑談で「共感鬱」ということばがあることを知った。ロシアによるウクライナ侵攻が始まってから、どうも「鬱」状態だという話がわたしを含めた複数の方からだされた。そのなかでだされたことばが「共感鬱」である。

 なるほど、ロシア軍の殺戮と破壊にさらされているウクライナの人びとに深く同情しているなかでの「鬱」であるから、「共感鬱」なのかと思った。3・11にも感じた「鬱」である。

 私は精神の安定を保つために、いつも聴いているクラシックではなく、マントヴァーニ、フランク・チャックスフィールドなどの、「ムード音楽」というのか、そういう曲を聴くようになった。

 そんなおり、先日から紹介している『世界』臨時増刊号の中で、「戦禍に社会科学は何ができるか」という講演録を読んだ。講演したのは、ロシア人のエカテリーナ・シュリマンという人で、私にとってはまったく未知の人である。

 そのなかに「責任と罪」というものがあった。

 「私たちみんなが悪かった。みんなに罪がある」というのは、道徳的に理解のできる表明です。けれども基本的なことを理解していなければなりませんー権限が大きい人ほど責任は重く、権限が小さい人ほど責任は軽いのです。

 世間では一般的に「自由には責任がつきものだ」「無責任な自由はよくない」などと言われることがありますね。私が言いたいのはむしろ逆でー「自由なき責任はありえない」ということです。人が社会に出て、なにかのポストについて仕事を任されたら、そこには責任があります。けれども選択の余地のない行為を強いられた場合、そこに責任は生じません。

 そうであるとうすうす思ってはいたが、この端的な指摘にその通りだと思った。そしてこの文に、なるほどと思った。

 罪の意識は無気力に、責任感は行動につながります。・・・あなたが抱える「罪悪感」は、自分の負っている「責任」以上に膨れあがってしまってはいけません。そうなるとなにもできなくなってしまう。・・・まずは自分がいかなる「責任」を負っているのかを明確に認識することがなにもできない状態から脱するための第一歩です。

 本を読むなかで、このようにボーッと思っていたことが、クリアになることがある。

 ただ「自由なき責任はありえない」という全面的に肯定すべきことが、日本では否定されてしまっていることに気づく。命令するなど自由を持つ者が責任をとらず、命令された自由のない者が責任をとらされること、これは日本の軍隊や政治の世界、あるいは最近では森友事件に関わり自殺された赤木さんの例にみられる。

 「自由なき責任はありえない」という認識は、もっと広げていかなければならないと思う。

 

 

 

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「国境なき医師団」

2022-04-18 16:44:01 | 国際

 支援、死と隣り合わせ ウクライナ派遣の日本人医師

国境なき医師団」は、どこでもいつでも、たとえ危険なところであっても、命を救うための医療活動を行っている。だから私は、20年以上前から寄付している。多くの人がそれに加わることを望む。

 なお寄付金については、確定申告で優遇される。

 

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歴史を、勝手な「記憶」にされてたまるか!

2022-04-17 20:27:51 | 学問

 『世界』臨時増刊号を読んでいる。そのなかの、橋本伸也氏の「「紛争化させられる過去」再論」を読んだ。

 現役を退いた私は、当然の年金生活。昔のように高い本でもどんどん買い込むということはしなくなった。どうしても必要なものしか買わないと心に決めている。購入して読んでいない本もたくさんあり、これ以上増やしたくないという思いもある。

 だから関心を持っても読んで来なかった本がある。橋本氏らの「記憶」に関わる論考の数々である。

 日本でも歴史修正主義がはびこり、しっかりした歴史研究の方法に則って研究され叙述された過去の歴史(記憶)を、否定したり、あるいは史料等に基づかない荒唐無稽の説を創出して、定説を相対化させるようなことが起こっている。

 また教科書に関しても、歴史研究の成果ではなく、政治・行政の思惑から強権的に「訂正」させるということも行われてきた。その1つに朝鮮人の徴用工について、「強制連行」という言葉の使用が奪われた。私は、在日朝鮮人の歴史について研究もしてきたが、私は「強制的な労務動員」と書いてきた。

 戦時下、日本政府は、日本の労働力不足を補うために朝鮮人を大量に動員してきたが、動員されてきた朝鮮人への聞き取り、あるいは公的な資料によっても、そこには強制の契機がかならず存在した。「強制連行」でもかまわないと思うが、私としては厳密な意味で、「強制的な労務動員」として書いてきた。単なる「労務動員」では間違いであって、そこに「強制」の契機を書き込まないと、戦時下の朝鮮人の労務動員を説明したことにならないからだ。

 なぜそのような書き方をするかというと、中国人の強制連行と明確に書き分けるためである。中国人の場合は、まさに日常生活の中で、突然日本軍兵士や傀儡軍により拉致され、食事も水も与えられない状態で一定の数が確保されるまで塘沽の収容所に閉じこめられた。そして痩せ細った身体を抱えたまま日本に連れてこられ、列車に乗せられ、到着した時には現場に向かうためのトラックにも乗れないほど衰弱していた。したがって、多くの中国人が収容所で、現場で殺されたのである。

 そのように強制連行された中国人の本質を明確化するために、私は、中国人は「強制連行」、朝鮮人は「強制的な労務動員」とするのである。

 以上のように、歴史を叙述するときには、かなり神経をつかう。史資料に厳密に沿いながら書かなければならないし、間違ったことは書いてはいけないし、もしわからなかったらわからないとしなければならない。

 ところが、その歴史が政治に従属し、書き替えられている。政治に都合が良いように、歴史は書き替えられ、それにももとづいて政策などが打ちだされているというのだ。橋本氏は、それを「記憶の戦争」といい、ロシア、そしてソ連支配下にあった中東欧諸国について研究をおこなっている。そこで、「歴史の国有化」が起きているというのだ。

 自分たちに都合のいいように、歴史を書き替え、それをもとに「国民の記憶」をつくりだしていく。「国民記憶院」とか「歴史家委員会」などがつくられ、組織的にそれが行われているというのだ。

 歴史は、客観的なもので、よいこともわるいこともあり、それを総体として認識する必要がある。自分勝手に構築できるものではないのである。とくに国家はそれに介入してはならない。

 ロシアがウクライナ侵攻を開始したとき、プーチンが「特殊軍事作戦」開始の演説をしたそうだ。私は読んではいないが、かなり歪曲されていて、粗雑な事実認識の上に構築されたものだという。

 歴史が書き替えられ、権力者の悪行を正当化するための手段に使われてしまう。

 何ということだ、と私は思う。歴史を研究し、叙述するということは、史資料の断片を積みあげていく作業でもある。時間はかかるし、集中力は求められるし、たいへんな仕事である。

 そうしてできがったものを権力者が足蹴にする。許せないことだ。

 

 

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核脅迫のこと

2022-04-17 10:40:55 | 国際

 昨日の『東京新聞』の文化欄に、池内了氏の「ロシアの暴挙止める理性を 核抑止論から核脅迫論への転化」があった。

 プーチンは、核兵器の問題でも一線を越えた。核兵器は戦争を抑止する手段という位置づけであったのだが、プーチンはそうではなく、核脅迫論を唱えた。核脅迫論とは、「核兵器の威力を前面に出し、いかなる敵であれ核によって殲滅するとの脅しで屈服させるとの立場である」。

 プーチンにより、「核抑止論は核脅威論に簡単に転化することが明らかになった」のである。

 池内氏は、「核抑止論の化けの皮が剥がれたと言えようか。それにしても、脅迫によって自己の主張を通そうとするのはヤクザ同然ではないか。なんと野蛮な世界になってしまったのだろうか」と主張する。同感である。

 プーチンにより核抑止論はその意味を失ったのであり、核廃絶こそが求めるべき唯一のことであることが証明されたのだと、私は思う。核兵器だけではなく、それを応用した原発なども廃絶されるしかないことが、ロシア軍のウクライナ原発攻撃により、これも明らかになった。

 ロシア軍のウクライナ侵攻から学ぶことは多い。学ばなければ未来をたぐりよせることはできない。「野蛮な世界」を招来させてはいけないのである。

 

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