これって、2017年の記事。
鈴木エイトさんの『自民党の統一教会汚染』という本を読んでいたら、間違いがあることに気付いた。そこで、小学館に下記のメールを送った。この返事を紹介するかどうか迷ったが、公開した方がよいという意見により公開する。
送ったメール。
すでに訂正要求があると思いますが、182頁の9行目、「自民党顧問弁護団『自由法曹 団』」とありますが、「自由法曹団」ではなく、「自由民主法曹団」です。
これに対して、以下の返事が来た。
小学館カスタマーサポートでございます。いつもご愛読いただき誠にありがとうございます。また、土日祝休業の為返信が遅くなり失礼いたしました。
ご連絡いただいた件につきまして、確認を取っておりました担当部署より、
下記の回答を預かりましたのでご案内いたします。
=============================
ご指摘の件、2刷り以降で訂正しております。
=============================
以上でございます。編集者・校正者等が目を通していたにもかかわらず、
お見苦しい形を残し誠に申し訳ございません。上記ご案内にて、ご容赦賜りますよう
何卒よろしくお願い申し上げます。
この度は、貴重なご指摘をお寄せいただき、誠にありがとうございました。
今後とも弊社刊行物をよろしくお願いいたします。
しかし、私が買った同書は、2刷なのだ。小学館の編集者は、いい加減であることがわかった。
『選択』10月号に、「ウクライナ「過激民族主義」の危うさ」という記事がある。
「過激民族主義」が論じられるようになったのは、2014年である。『現代思想』も、2014年に「ロシア 帝政からロシア崩壊、そしてウクライナ危機の向こう側」という特集をした。
2014年の頃、親欧米派が激しい抗議活動を行い、親露派のヤヌコヴィッチ政権が崩壊した。そしてロシアは、クリミアや東部ウクライナに軍事介入をした。
その抗議活動で中心となったのは、ウクライナの「過激民族主義」者たちだ。ウクライナの戦闘部隊である「アゾフ大隊」も、この頃発足した。
しかしここで注意しなければならないのは、だからといってウクライナ全体を「過激民族主義」で染め上げることをすべきではない。
『選択』の記事に、こうある。
「ウクライナにおける極右の政治的影響力は限定的で、国全体がネオナチの影響下にあるように喧伝し、侵略を正当化するロシアの主張は荒唐無稽だ。とはいえ、アゾフ大隊ら民族主義者に潜む過激主義の危険性を矮小化する「ご都合主義」にも違和感を禁じ得ない」
同感である。論者のなかには、ウクライナのロシアへの激しい抵抗を、「過激民族主義」者、「右派セクター」が主体であるとする者もいる。しかし私はそうは思えない。2月からのロシアの侵攻は、軍事施設だけを攻撃するのではなく、住民の住居、スーパーなどの生活の場、学校や病院などもその対象となった。また攻撃のエリアも、ウクライナ東部だけではなかった。
その結果、多くの人的・物的被害が生じたことは、私たちが報道で見ることが可能な光景である。そのような攻撃に対して、ウクライナの人びとが強い怒りをもって激しく抵抗することを、私は理解できる。ちょうど、日本軍の侵略により、中国の人びとが激しい抵抗を繰り広げたように、である。
抵抗する人びとのなかに、もちろん「過激民族主義」者はいるだろう。ロシアの侵攻は、ウクライナの人びとを反ロシアに導き、彼ら「過激民族主義」の勢力を強化したはずである。もう、ウクライナとロシアは、長期間敵対関係が続く国家関係となった。それをつくりだしたのは、ロシアである。
ウクライナの人びとはロシアの侵攻に対して、強い怒りを持ち、強靭な戦意を持って抵抗している。しかし、ロシア軍の兵士は、どれほどの戦意をもっているのだろうか、なぜ戦うのかを教えられているのだろうか、また戦闘の目的をきっちり認識しているのだろうか。
戦闘において、個々の兵士や住民がもつ戦意は、重要な戦力のひとつである。それは日中戦争でも明らかである。私は日本軍兵士が友人に送った手紙の中に、日中戦争下の中国人の激しい抵抗精神、戦意を教えられたことがある。日本軍の進軍を遅らせるために、ここまでやるのかというそういう事実。侵略された側の人びとの抵抗精神や戦意は、自然に醸成されるのだ。
ロシアとの戦争が終わったときに、ウクライナの「右派セクター」は、問題化されるだろうが、その際、旧ソ連圏内にあった東欧地域に、そうした動きが多発していることに留意しなければならない。なぜそうなのか(日本でも右派的な動きが広まっているように、アメリカでもトランプ支持者が増えているように、それは世界的な潮流ではある)。
スターリンのことばとして、「一人の人間の死は悲劇だが、100万人の死はもはや統計である」が伝えられている。
ロシア国内で、多くの男性が召集され、満足な訓練も受けずに戦地に派遣されているということが報じられている。ロシアの施策の背後に、このスターリンのことばが生きていることを感じる。
プーチン政権の施策は、ソ連という国家の歴史の頃から検討されなければならない。
現在の統一教会と政治の問題を考えるに際して、これほど参考になるものはない。鈴木エイトさんが、長い間、しつこく丁寧に取材されたことがたいへんよくわかる。現在のメディアの報道において、彼の長年の取材がなければここまで詳しく報じられることはなかっただろう。
しかし読んでいて、恐ろしくなった。ここまで統一教会と自民党が密着していること、それも統一教会がわの「国家復帰」(統一教会の教義を国家の宗教とする)という教義があり、教会側はそれを実現すべく政治家に接触していること、である。政治家や政治権力を掌握する者を、韓鶴子に侍らせようとしているのである。
統一教会が清和会(安倍派)の政治家に働きかけ、「国家復帰」の実現に向けて着々と影響を強めていたことが、本書で明らかになる。
そして自民党の議員たちが、日頃は反韓を声高に主張しているが、統一教会のトップ韓鶴子が、日本の植民地支配に対して憤りをもち、信者にその謝罪を求めているのに(朝鮮植民地支配の研究をしてきた私としては、謝罪は当然のことと考えている)、それを知ってか知らずか、ベッタリとくっついているという不可思議な姿に、私はあきれてしまう。
自民党が常日頃主張していることのいい加減さ、無責任さが、にじみ出てくるというものだ。
統一教会と自民党の国会議員がくっついている状態を、エイトさんは克明に取材し、取材したあとは確認をとるということをしているが、多くの議員やその秘書は無回答。
本書は、すでに5万部を突破しているようだ。もっともっと売れて、多くの人が読むことが重要だ。日本の政界が、これほどまでに統一教会に汚染されていることがはっきりと示される。
今後の政治との関わりは、統一教会の動きを意識して行われなければならない。
日本政府は、まさに宗教政権である。統一教会と創価学会による宗教政治。おかしい!と思わなくてはならない。
日本(人)を奴隷化しようとしている統一教会が、ここまで入り込んでいる。
旧統一教会の関連団体女性幹部が、教育現場で「性教育」テーマに講演していたことが判明
そして立憲民主党。フラフラしている同党でも、統一教会との関連が明らかにされているが、しかし不十分である。これでは同党による自民党追及は空振りになるだろう。
自民追及の立憲民主党も旧統一教会とズブズブ 原口一博氏、大串博志氏、松木謙公氏が「隠蔽報告」
アベの「国葬儀」に参加したアメリカ副大統領は、羽田や成田ではなく、米軍基地横田に着陸し、米軍ヘリで都心に入ったようだ。最近のアメリカは要人を日本に送るとき、横田基地を使うようになった。彼らは日本の入管を通過しない。超法規的措置が、占領以来ずっと続いている。アメリカ軍民は、米軍基地をつかって日本に入れば、彼らを日本国政府が掌握することはできない。彼らは、出入国自由である。まさに日本は、米軍や米軍基地を利用する者に対しては、国家主権を放棄している。
そして日本国民の税金を、アメリカの軍需産業が製造する戦闘機や武器などを、彼らの言い値で購入している。
日本国政府がそういうことをしているせいか、日本国民もせっせと貢ぐ。統一教会というエセ宗教団体にだまされ、洗脳された者たちが、ひたすら働き、借金をし、土地や財産を手放し、子どもからもカネを略奪し、そのカネを韓国に貢ぐ。
統一教会の外にいる者にとっては、摩訶不思議な行動を、彼ら統一教会員は続けている。彼らはカネを貢ぐ奴隷である。
彼らがカネを貢ぐ理由は、みずからにつながる先祖(彼らは地獄で苦しんでいる?)がもつ、その怨念を解き、またみずからが地獄に落ちないように、ということらしい。先祖は人類誕生にさかのぼるから、その「解怨」のためと称して、カネをまきあげられる。
彼らはすでに自分自身を持たない。教会の「上司」の言うがままである。まさに奴隷である。
彼らを洗脳する統一教会の教義はでたらめである。アダムとイブ(エヴァ)がでてくるからキリスト教を意識しているみたいだが、カネを貢がせる理由をみればキリスト教とはまったく無縁である。要するに、カネを貢ぐ奴隷とするための教義としか言いようがない。
彼ら信者たちは身を粉にして働き、「神さま」のためにカネを貢ぎ、「神さま」の命令と称する自民党の政治家の選挙応援に励む。みずからの家庭を信仰のために破壊しながら、家庭を大切に・・・などと叫ぶ。
日本国家をアメリカの奴隷としているのが岸信介やアベなど自由民主党の政治家たちであり、韓国の文鮮明に奴隷化された日本人が結びつくのは、考えてみれば「自然」なのかもしれない。
自由民主党も、統一教会員も、「世のため人のため」などという崇高な動機をもたない。統一教会員は、地獄で苦しむ先祖や自分が地獄に落ちないために奴隷となっている。まさに自己中心である。自由民主党の政治家もまた自己の地位名誉財産のためにアメリカの奴隷となっている。
彼らと、新自由主義という自己利益を最大限追求するという思想とは相性が良い。ひたすら自己とその周辺のためだけにうごめく者たちが、日本の人びとをだまし、洗脳し、カネを集め、そのカネを外国に送り続ける。
日本人は、そうした奴隷に支配された国である。奴隷に支配された人びとのことは何と呼ぶのだろうか。
コロナワクチンの危険性を報じているのは、名古屋のCBCくらい。明らかに、ワクチン接種が原因で亡くなった方がいる。しかし国からの救済はない。
アベの葬儀はすでに増上寺で行われていたのに、さらに「国葬儀」を行った日本国。そういうことに多額のカネをかけるよりも、こういう方を救うべきではないのか。
ここ2年間開催されなかった「大道芸ワールドカップin静岡」、今年はプロデューサー奥野晃士の差別文書、差別発言で、大騒動。
浜松市からも見に行く人がいるほどの行事である。
きちんとした知識のないままに堂々と人びとの前で話す。こうした資質を持った奥野という人をプロデューサーにする実行委員会にも問題があるだろう。
統一教会のもと2世信者が、外国特派員協会で記者会見を行った。
会見中、統一教会と彼女の両親(信者)からのメッセージが紹介された。そのメッセージには、会見を中止すること、そして、彼女が「精神的な病気のためにウソばかりを話すようになっている」というようなことが書かれていた。
親が、娘が公的な場で発言することに対して、「(娘は)ウソばかり話すようになっている」などと、ふつうの親なら絶対に言わない。
統一教会に洗脳されると、実の娘よりも、実の娘がそのメッセージによりどれほど精神的な打撃を受けようと、教会の指示の方を優先するということ、まさに山上容疑者の母親が「教団に申し訳ない」とだけを語っているということと軌を一にしている。
いかに統一教会が反人間的な、家庭を破壊する反社会的な宗教団体であるかということを、みずからが証明したといってもよい。
統一教会に対する怒り、さらにそれと結合している政治家たちに対する怒りがさらに増した。
『Journalism』9月号で、購読期間が終わった。雑誌はできるだけ読んだら捨てようと思っているので、これは読み終えたら廃品回収行きである。
さてこの号で、フムと思った言葉。
アメリカで「The 19th」を発行しているエミリー・ラムショーのインタビューのなかに、「この国の物語を紡ぎ直す」があった。文脈からは、女性の視点から「紡ぎ直す」ということなのだろうが、これはいろいろなことに敷衍できるように思った。
歴史修正主義が出て来て、今まで厳密な史料にもとづき形づくられたものが、いい加減な手法で崩され、その崩されたそのものが教科書にも載るようになっている。歴史修正主義は、不健全なナショナリズムを本質とするもので、歴史のなかにみずからの汚点を見ない、気にしない、というもので、それにもとづいて非実証的な歴史物語をつくってきた。
私は、厳密な学問的手法で「この国の物語を紡ぎ直す」ことをしなければならないと考えた。歴史修正主義を推進する広告塔でもあり、その機関車でもあった者がいなくなったことから、学問の復権をここで試みなければならないと思う。
宮間純一が「国葬」について歴史的に書いている。短い文のため、「国葬」を歴史的に説明することはしてはいないが、重要な点は次のことである。
「国葬は、被葬者の公的な記憶を形成する場である。ここでいう記憶とは、個人が過去のことを思い出すという意味ではない。国家という共同体が保有する集合的記憶のことを指している。」
私たちは、「国葬儀」の対象者であった者の「公的な記憶」を正しいものにしなければならない。いかに日本の平和的・民主的な国家体制を潰そうとしたか、いかに政治を私物化したか・・・・・・というように、事実に基づいた正確な「公的な記憶」を、国家の側が押しつけてくるだろう歪んだウソ八百の「公的な記憶」に対置するものを提示していかなければならない。
先日、テレビ局に勤める友人から電話があった。テレビ局に就職しようとする者が減ったこと、入社希望者は報道や制作ではなく、営業などのテレビ局の本業ではないものをやりたいといってくるという。変わったなあ。
『Journalism』には、アメリカで地方紙がない地域が増えている、それとともに、地方権力の恣意的な政治が目立つようになってきている、という。
「この町での日々起きることを新聞は記録にとどめてきた。新聞がなくなるのはね、地域社会の記憶が失われるのに等しい」、「権力のウオッチドッグ(監視役)の担い手もいなくなる」ということばが紹介されていた。
新聞の衰退、紙媒体の衰退が指摘され、いずれなくなるだろう、とも言われている。新聞購読者も減っている。新聞がなくなったら・・・・ということを考えることも必要だろう。
私たち歴史研究者は、新聞を歴史を探究する際に重要な資料として活用する。新聞がなくなるということは、歴史も消えるということである。新聞記者は、歴史の記録者なのだ。
以前、そうした文章を書いたことがある(「地方記者へ」)。しかし、自覚ある若い記者に出会わなくなって久しい。
やむを得ないのかも知れない。
『Journalism』9月号で、購読期間が終わる。これで朝日新聞社とは縁が切れる。ジャーナリズム精神を失った朝日新聞社が『Journalism』という雑誌を発行する無自覚さ。
最近、「終活」を意識して、書籍を大量に処分し始めた。書籍は、私の仕事部屋にあり、実家にもあり、また書庫にもある。
読んだ本は線を引いたり、書き込みをしたりしているので、廃品として捨てている。一昨日は大きな紙袋3つ分を捨てた。またかつて購読していた『歴史評論』などの歴史関係の雑誌も、目を通しながらほとんどを捨てている。
また未読の本もたくさんある。
だから最近は本を増やさないように、買わないようにしている。よほど読みたい本以外は、図書館から借りるか、買わない。最近買った本は、樋田毅の『最後の社主』、奈倉有里の『夕暮れに夜明けの歌を』だけである。
さて全国的にも書籍の販売が落ちているという。出版状況クロニクル173 によれば、「22年8月の書籍雑誌推定販売金額は801億円で、前年比1.1%減。書籍は423億円で、同2.3%減。雑誌は378億円で、同0.2%増。雑誌の内訳は月刊誌が315億円で、同0.3%増、週刊誌は62億円で、前年同率。」だという。また図書館での書籍貸出数も減っているという。
「21年の公共図書館界で異変が起きているといってもいいかもしれない。それは個人貸出総数が5.4億冊で、20年の6.5億冊に比べて、1億冊以上の減少を見ている。「21年の図書館数は20年よりも6館増えているし、専任職員数、蔵書冊数、年間受入図書冊数、個人貸出登録者数、資料費はほとんど変わっていないのだが、個人貸出総数だけが急激に減少していることになり、それは20年前に戻ってしまう数字である。この減少に対して、21年の書籍販売部数は5.2億冊で、図書館の個人貸出冊数と書籍販売部数が接近してきている。」
最近は学校でも本ではなく、タブレットなどを利用する方針が出されている。
しかし私は、紙の書籍でないとアタマに入らない。アマゾンのKindleも持っているが、やはり利用せず、紙に頼る。
以前、教育問題を取材している朝日新聞記者と話したとき、彼の子どもがタブレットでの授業によって学んだことが定着しないので、つきっきりで書籍をつかって教えることにより学力が回復してきた、と聞いた。さもありなんである。
パソコンやKindleの画面を見て読んでも、それは読んだことにならない、という気がする。アタマに入らないからである。
人類は、長い間、知識を紙というものに印字して蓄積してきた、その経験は、今後も必要だろう。
私は、今はあまり本を買わないが、かつて購入した本を読みふけっている。読書は、とても大切だと今も思う。
テレビを見ない私は、アベの国葬がどのように行われたのかを知ることはない。もちろんユーチューブで見ることはできるかも知れないが、アベの国葬を見る時間が、私の人生にとって大きな損失になると思い、見ることはしなかった。
早稲田大学の水島教授が、その内容を「平和憲法のメッセージ」で記している。たいへん参考になった。アベは統一教会だけではなく、自衛隊に象徴される軍国主義とべったりとくっついていたことが明らかとなる。
すでに日本は、大日本帝国の時代に逆戻りしているような気がする。
郵便局のサービス低下が甚だしい。
最近の状況。まず郵便の配達に日数がかかるようになった。送ったという連絡があっても、以前のように到着が予想できなくなった。誤配も増えた。時々他人宛の郵便物が入ることがある。その際には、郵便局に電話してとりに来てもらう。また配達時刻が不安定になった。以前は昼頃だったのが、今では夕方になったり、昼頃になったり、配達時刻がまちまちになっている。
そのせいか、郵便物の利用が減っているような気がする。
私は、何らかの連絡をするとき、絵ハガキをつかうことが多い。今でもそれは続けているが、しかし他者からの郵便物は確実に減っている。かつてはほとんど毎日、何らかの郵便物が郵便受けに入っていたのだが、今では確実に少なくなっている。
郵便振替を利用する場合でも、たとえ手数料受取人払いの赤い用紙であっても、現金で送る場合は110円の手数料を求められる。ただしゆうちょ銀行からの送金にすれば手数料はない。今までは現金をATMで送金すれば手数料はなかった。
近所の寺の世話人をしている方が、ゆうちょ銀行から農協に変えたと言っていた。寺には賽銭がある。多くは硬貨である。それを持っていくと手数料がかかる。だから農協にしたと。
日本郵便のお偉いさんが主導して、オーストラリアの流通会社を買収したが、多額の損失を出して失敗したという記事があったことを思い出す。民営化後、カネ儲けにはしり、その結果多額の損失をだし、顧客に無理に証券を買わせて問題になったり、民営化後の郵便局は信用を大きく喪失した。民間から入り込んだ経営陣は責任をとることもなく去って行ったようだ。
そうした経営陣の暴挙を余所に、郵便配達に従事している労働者は疲弊し、やめる人が増えているそうだ。また非正規の職員が増えているという。それでも足りずに、郵便局はいつも求人をしている。
サービス低下により客は離れ、働く労働者が疲弊しやめていく。郵政民営化後の郵便事業の衰退はとどまるところを知らない。
郵政民営化を行ったのは小泉純一郎であった。彼の責任は重い。
もういちど、郵政を公営化すべきである。
また郵便局の窓口にいる人の対応も悪くなったような気がする。