浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

静岡県政の行方

2024-06-20 07:34:00 | 政治

 静岡県知事が、SUZUKIの鈴木修ら県西部経済界の強い支援を受けて、SUZUKI康友が当選した。

 昨日、静岡県議会で所信表明演説を行ったようだ。そこでまず主張されたのが、県政に「経営の視点を」だとのこと(「「県政にも経営感覚を持ち、健全財政の堅持に努め、将来を見据えた施策に取り組む」」)。これは浜松市でも行われたことだ。どんな経営かと言えば、確実に「スズキ式経営」にならうだろう。

 SUZUKI康友知事は、「スピード感を持つことは自治体にとっても大変重要」と語ったそうだが、これはSUZUKIの行動理念、「「短」は意思決定と実行や報連相をスピードアップするという意味があります。」と対応する。

 SUZUKI浜松市政は、住民の生活より、企業優先政策であった。SUZUKI康友知事は、「企業立地件数日本一を目指す」とある。浜松市政は、伝統的に住民生活よりも企業優先施策を推進してきたが、それが県全体へとひろがるということだ。

 また「スリム化を図る」ために、県職員の人減らしをすすめるだろう、その一環として様々な公的な事業が民間企業へ委託されていくことだろう。浜松市では、ごみ収集、図書館運営など多くの分野でそれが行われ、下水道事業まで民営化された。その結果、下水道料金は高くなり、水道使用料よりも下水道使用料の方が高くなっている。その後上水道の民営化案がだされたことから、私も反対の運動に参画したが、これは一応阻止できた。総じて、SUZUKI康友市政は、新自由主義的な行政運営であった。

 浜松市内に建設が予定されている県営浜松球場は、SUZUKIのトップ・鈴木修の要求であるから、必ず実現されるであろう。SUZUKI康友を市長へと引き出したのは、鈴木修であった。今回の県知事選でも強烈にバックアップした。鈴木修にとって邪魔な現在の市営浜松球場をなくして、隣接する市営陸上競技場を拡張して新設する、そのためには西部に野球場を建設しなければならない、それは静岡県にやらせようという企みであった。

 『中日新聞』の「県政「経営感覚持って運営」 鈴木知事、初の所信表明演説」には、「野球場を含む周辺の街づくりやにぎわい創出、県と市の役割分担、民間活力の活用などについて新たな協議会を設置し、改めて検討する」とあった。要するに、県営野球場は新設させて、浜松市営球場はなくす、陸上競技場は拡充して新設する、というもので、鈴木修の言うとおりになる。

 先の県知事選で、大村候補の応援演説で、もと浜松市長の北脇保之らが話していたように、SUZUKI康友が知事になったら、県の施策に鈴木修が介入してくると警告を発していたが、おそらくその通りになるであろう。

 記事には、「川勝平太前知事が好んだ文化施策についての言及はなかった。 」とあった。両SUZUKIは、文化には関心がないのである。浜松市をみればよい、文化より「出世」なのだ。

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『逍遥通信』第九号 「なまこ山」補遺

2024-06-19 08:12:50 | 

 「なまこ山」に、筆者・澤田展人の考え方が記されているところがあった。 

 久仁人(前項では、「なまこ山」の登場人物をすべてカタカナで表記した)の考えを以下のように書いている。

 久仁人は、反権威、反権力の威勢のいいことを言いながら、実際には自己保身に走り地位と収入を得るために汲々としている仲間をいやというほど見て、彼らを嫌っていた。

 おそらくこの記述は、筆者の考えであろう。筆者は、亡くなった外岡秀俊らと札幌南高校で高校紛争の当事者であった。この時代、高校紛争に関与した者(すべてではないが)は、反権威、反権力の志向を変わらずにもつ。一方、周囲の人間を見ていて、大学でのいろいろな闘いに関わった者は、いつのまにか反権力、反権威の志向を捨て去っている。結局、彼らは「出世」の階梯をのぼっていった。

 高校生の時期にもった志向は、一生を左右する。捨て去ることができない。外岡も、朝日新聞社内で「出世」の階梯をのぼることを拒否していた。それは澤田も同様であろう。

 私も、澤田と同様に、反権威、反権力を貫いてきた。しかし私は、「自己保身に走り地位と収入を得るために汲々としている」者を「嫌う」ことはしなかった。異なった価値観を持つ者だと、冷静に見ていた。

 なお「なまこ山」は、北海道の富良野にあるようだ。私は北海道には一度しか行ったことがないし、富良野には行かなかった。小説の表題にするほどだから、特別な景観をもつのだろうと思う。

 

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『世界』と『地平』

2024-06-18 22:51:47 | 

 『世界』はずっと購読している。『地平』については発刊案内がきたので、一年間の購読を申し込んだ。

 双方とも7月号であるが、私にとっては『地平』のほうが私の関心にあっている。最近の『世界』の執筆陣は、新しい人が多いように思う。つまり今まで私の読書圏内にはいっていなかった人が書いている。『世界』の表紙に掲載されている執筆者の中で、読んだことがある人は安田浩一しかない。

 『地平』のふたつの特集、「パレスチナとともに」の執筆陣には知った名前が多く、また創刊特集の「コトバの復興」の執筆陣も知った名前が並んでいる。と同時に、興味深いテーマが並んでいる。

 『地平』の文は少しずつ読んでいるが、『世界』のほうはほとんど読んでいない。最近私のところに配達される本が多いから(また農作業も毎日数時間従事しているので。農作業の後、汗にまみれているのでシャワーを浴び少し休息するので、農作業の前後の時間もある)、なかなか『世界』まで目が届かないのである。

 『地平』の内容についてはいずれ紹介していきたい。

 7月号は『地平』のほうがよいと思う。『世界』はかつては長文の論考が掲載されていたが、最近は読者を意識してか短いものが多い。何かを報じるというのではなく、じっくりと読んで考えさせるという文を、私は期待したい。

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『逍遥通信』第九号(4)「なまこ山」

2024-06-18 20:53:52 | 

 本号で、もっとも多くのページ数をつかっている小説、編集発行人・澤田展人の作品である。

 まずはじめに断っておくが、私には小説作品の良し悪しはわからない。若い頃は別にして、文学作品を歴史研究の素材としてみる習性ができているからだ。芥川龍之介や石川啄木の全集をすべて読んだことがあるが、それは「芥川龍之介とその時代」、「石川啄木とその時代」というそれぞれの作家が生きた時代を作品を通して見つめるという手法で読んだのであって、文学作品を文学作品としてみることはしたことがない。それを前提にして、この小説について紹介していく。

 この小説、ある種の教養小説であるとみた。

 主人公のクニヒトは、公務員。30代後半でバツイチ子ども一人の女性ヒサエを好きになって結婚した。子どもの名は、ミキである。この二人を中心に話は展開される。脇役は、ミキの母であり、トーキョーでミキを右翼団体に引き入れたクラシゲであり、ミキがそこで苦しんでいるときに助け出した在日コリアンのリョウタであり、またヒサエの死後、クニヒトがつきあいだしたユリコである。

 もちろん小説だからフィクションである。フィクションの中にどれほどリアリティがあるのかが小説のカギともなるようで、そのリアリティは、主人公らが生きる周囲、或いは心理分析などに現れる。

 クニヒトが30代後半にアタックしたヒサエは、ダンスのインストラクターで当該市の文化事業のコーディネーターを務めるほどの、ある意味目立った女性であった。それに引き換え、クニヒトは「無名の冴えない公務員」であった。そのクニヒトが、ヒサエにアタックする際の武器は、「心の広さと誠実さ、そして犠牲的精神」であった。おそらく「無名の冴えない公務員」にとって、それしか武器はないだろう。ここにリアリティを、私は感じた。

 ヒサエ、ミキと同居をはじめてはみたが、ミキとクニヒトとの関係はギクシャクしていた。子どもにとって、実の父でない男が母と結婚するのであるから、関係がギクシャクするのはやむをえないだろう。これがミキがクニヒトの家を逃げるまで続く。ミキは一貫してクニヒトに心を開かない。そのうち、ヒサエが進行性のガンで亡くなってしまう。おそらくミキが中学3年の頃だろう。ミキが行きたかった高校ではない他の高校の合格発表の10日ほど後に、ヒサエが息を引き取ったからだ。

 ミキは、高校になじめず、髪を染め反抗的な行動をとるようになった。クニヒトはミキの行動を制御することは出来ない。そんなミキへの忠告を、クニヒトは一般的なことばをつかってしか行えない。ミキのこころに食い込むようなものではなかった。クニヒトが好きになったヒサエについてきた少女である。他者、なのだ。ちなみに、ミキはクニヒトを「オジ」と呼ぶ。ミキにとっても、クニヒトは他者なのだ。

 最近も、男をだましてカネを巻き上げる「いただき女子」は、だます対象としての男を「オジ」と呼んでいた。「オジ」は父でもなく、また本当の叔父でもない、まったくの他者なのである。

 他者同士であるクニヒトとミキが、「家族」として生活している、というわけだ。外見からは「家族」ではあるけれども、しかし真の意味での「家族」ではない。

 ここにも私はリアリティを感じた。自分の子どもではない他者、しかし保護下にある他者としての子どもに注意を与えなければならない、ではどんなことばをつかえばよいのか。クニヒトも、ミキのこころに踏み込むことはしないし、ミキも反抗的な姿勢を崩さない。破綻しかない。

 ミキは家を出る。そして高校を辞めて、児童自立ホームの施設に入る。通信教育の過程を卒業したミキはトーキョーに行ってしまう。クニヒトには事後報告があったのみで、そのためミキは遠い存在になった。遠い存在になった、ということは、責任を負う必要はなくなったということで、おそらくクニヒトはホッとしたであろう。

 トーキョーで、ミキはアルバイトをしながら演劇活動に入る。しかしうまくいかない、そんなとき右翼レイシストの行動をみ、そこに入り込み、はじめてそこでみずからの居場所を発見する(その後そこが偽りの居場所であったことがわかるのだが)。ここの個所は、雨宮処凛さんの体験と重なる。

 右翼活動のなかで、そこにあるウソに気づいたとき、ミキは右翼団体のメンバーから暴行され、排除される。そのミキを助けたのが、リョウタであった。

 そのような生き方を経て、ミキはクニヒトのところに帰って来た。ミキは妊娠していた。しかし、ミキはかつてのミキではなかった。ひたすら反抗するような女性ではなく、あたらしい命を生みだすひとりの女性として帰ってきた。そのミキと話す中で、クニヒトも「ミキとの間にあった障壁は、臆病な自分がつくりだした幻だったのか」と思う。

 しばらくミキはクニヒトのところで暮らす。クニヒトがつきあっているユリコも、ミキの母としての出発を手助けする、というところで、話は終わる。

 人間関係は難しい。他者を前にして、どのような関係を結ぶことが出来るか、それぞれが様々に試しながら近づいていく、あるいは離れていく。そうした人間関係を、クニヒトとミキとが演じたのである。そしてそれぞれが別の人生を生き、いろいろな葛藤を経ることによって、それぞれを、また自分自身を理解できるようになる。

 この小説は、そうしたテーマをもったものではないかと思った。

 ひとつ、ミキがクニヒトに、トーキョーでの悲惨な体験を語っているとき、クニヒトはミキの語りの応答として「ひどい話だ」「かわいそうなミキ」という、軽薄なことばで応じる。これには異和感を持った。ここは沈黙でも良かった、ただ聞いているだけでよかったのではないか。

 

 

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カネがかかる

2024-06-17 22:06:18 | メディア

 東京都知事の出馬会見において、テレビ朝日の島田記者が、都知事の窮地を救った。その場面がユーチューブで公開されている。この島田記者は、世界禁煙デーの催し物でも、ヨイショ質問をしていたそうだ。そういう記者を擁しているテレビ朝日が、東京都知事選で公平な報道が出来るのかと疑ってしまう。

 またこの出馬会見について、都庁の記者クラブは、フリーの記者に知らせないようにしたようだ。幹事社のひとつは共同通信。共同通信社には、かつて斎藤茂男のようなすごい記者がいたが、今ではいなくなったようだ。

 さて私はテレビを見ないので、ネットで各社のテレビニュースを見ているが、ユーチューブでテレビ朝日を登録していたが、それを解除した。

 テレビメディアの退廃は、とどまるところを知らない。いやテレビメディアだけではない。読売、産経は言うまでもないが、朝日などの各新聞社も権力の傘下に入り込もうとしている。

 真実を知るための努力をしなければならない。そのために、ユーチューブでのデモクラシータイムス、Arc Timesなど、そして雑誌『世界』、『週刊金曜日』、新刊の『地平』がある。

 真実を知るためには、カネがかかるのである。

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『逍遥通信』第九号を読む(3)

2024-06-17 12:52:42 | 

 『逍遥通信』に掲載された及川智洋の「団塊世代の退場と「戦後」の終焉」、その文のあとに、発行人である澤田展人の「編集者より提言」なる文がついている。及川の文について、「マルクス主義の思想的内実と、歴史的に果たした役割とは区別して語るべきであろう」と指摘し、マルクス主義を全否定しようとする及川の論に待ったをかけている。

 おそらく澤田も、高校紛争を体験した世代であるから、マルクス主義を体験しているはずだ。ほぼ同じ世代の私も、書庫に行けば、高校生以降に読んだマルクス主義に関わる本がたくさん残されている。

 マルクス関係の本を読みながら成長してきた私(おそらく澤田も)にとって、及川の

 80年代後半に大学生になった私は、それでも必読書とされた『共産党宣言』を一応読んで、教養課程ではマルクス経済学者(社会党の有力ブレーンだった)の授業も履修したが、いずれも特に印象には残っていない。時代がかわっていた、ということなのだろう。

 という文に、おいおいそれだけを学んだだけで、「マルクス主義を完全に「卒業」することで、日本の左派政治勢力はようやく民主主義の担い手として成熟に達することができるはず、という期待の方が強い。」なんてよくも言える、と思うのである。

 マルクス主義はひとつの凝り固まった思想ではなく、柔軟な面をたくさんもった多様なものだと思う。その一つとして、若い頃、平田清明『市民社会と社会主義』(岩波書店)を読み、社会主義について考えさせられたこともあった。

 私は歴史研究に従事することが多かったが、その際に交流した歴史学者の多くは、マルクス主義的な方法論をもっていた。原口清は、常々、弁証法の優位性を語り、三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)を読むことを、会うひとすべてに勧めていた。

 さて、『逍遥通信』に書いている方には、おそらく老境に入られている人もいるようだ。短歌「ジグソーパズル」は癌と闘う歌であり、「四本の轍」も悪性リンパ腫になりながらも、反戦平和を希求する内容である。意識ある団塊世代の人びとは、老境に入り病と闘いながらも、反戦平和の旗を掲げ続けるのだ。

 私は「団塊世代」よりも少し若いが、しかしこのような病と闘いながら反戦平和を希求する「団塊世代」がこの世から消えていくことはよいことなのだろうか。

 

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『逍遥通信』第九号(2)

2024-06-16 12:16:46 | 

 札幌から送られてきた『逍遥通信』を少しずつ読んでいる。書き手の中に、先に『外岡秀俊という新聞記者がいた』(田畑書店)を著した及川智洋の文があった。外岡秀俊についてまとめたもと新聞記者だから、面白い内容ではないかと思って読んでみたが、まったく失望した。一読してまず思ったことは、悪しき意味での新聞記者の文であるということだった。

 新聞記者には、もと朝日新聞記者の田岡俊次さんのように、軍事問題についてものすごい深い知見を持った方もいる。しかし大方の新聞記者は、専門をもっているわけではなく、森羅万象を、ひとに聞いたり、あるいは本をさらっと読んだりして、まさにさらっと記事を書く。だから大方の記事は、あまり読み手に深い認識をもたらすことなく、消えていく。少しの事実をさらっと紹介するだけだからそれでもいいというわけだ。

 外岡秀俊、そして外岡が尊敬する疋田桂一郎の文は、そうした大方の新聞記者のように、底の浅い文を書く人ではなかった。新鮮な問題意識をもち、それにもとづき調査取材し、そして書いていた。短い記事ではあっても、新たな認識をもたらしてくれる、そのような文であった。

 『逍遥通信』第九号に掲載されていた及川の「団塊世代の退場と「戦後」の終焉」は、様々な論点を書きつらねているのだが、深みの全くない、つまり新たな認識をもたらしてくれるようなものではなく、上っ滑りの文と言うしかないものであった。いったい外岡から何を学んだのだろうと思った。

 上っ滑りという事例をあげる。

 彼はこう書いている。

昨今問題視されている「歴史修正主義」とは、従来の歴史的通説(学術的な裏付けがあって広く認められている史実)を新たな資料が見つかったわけでもないのに、恣意的、部分的な拡大解釈によって否定しようとする行為である。ネット社会の影響で、歴史修正主義が大手をふってまかり通るのは憂慮すべきことだ。しかしそれ以前に、イデオロギーに基づく「証拠より論」の歴史解釈がまかり通ってきたとすれば、その悪影響もまた小さかったとは言えないだろう。

 前置きとして歴史修正主義を批判しているように見せかけながら、「しかし」という逆接の接続詞をつけることによって、「しかし」以下の部分、つまり「イデオロギーに基づく「証拠より論」の歴史解釈」を批判する構造になっている。この「イデオロギーに基づく「証拠より論」の歴史解釈」とは、「唯物史観」であり、彼はそれを批判するのだ。彼は「マルクス主義的なものが払拭される」ことは良いことであるという主張をしているから、この批判もその一環として捉えることができるだろう。

 彼は「私は歴史学の系統的な勉強はしていない」というのなら、きちんと「系統的な勉強」をしてから批判すべきであった。まあ「系統的な勉強」をしないでも書いてしまう、というのが、大方の新聞記者の性格であるから仕方ないのかも知れない。

 私が知る、もうほとんど物故した歴史学者たちは戦後の歴史学で大きな学問的成果をあげてきた。永原慶二、遠山茂樹、原口清・・・・・彼らはマルクス主義を「系統的に」学ぶ一方、多くの重要な研究を残した。しかし彼らは、「証拠より論」などという安易な姿勢で歴史研究をしていたのではない。膨大な史料のヤマに入り込んで、それぞれの史料を、史料批判をしながら史実を確定し、それらをもとにして歴史像を提示していた。つまり「証拠」をもとにして「論」をまとめていたのである。

 私も歴史研究者の端くれとして歴史研究に従事してきたが、史資料をもとにひとつひとつ史実を確定してきた(そのために膨大な時間を費やす)。ほとんどの歴史研究者は、「論より証拠」で研究を行っている。「証拠」、つまり史資料がなければ、そもそも歴史研究はできない。「証拠より論」を叫ぶのは、「歴史修正主義」者にほかならない。

 なお彼は、被差別部落の「近世政治権力起源説」、「戦国大名の発生要因」を例に挙げて、唯物史観(階級支配)を批判している(戦国大名の発生要因に関する研究には疎いので、彼の指摘を判断する能力が私にはない。)のだが、そう簡単に普遍化してしまうのはどうかと思う。悪しき新聞記者らしい振る舞いではある。

 彼は、「日本の左派政治勢力からマルクス主義が払拭されることで、むしろ日本政治に成熟をもたらす可能性がある」と記している。「マルクス主義が払拭される」ことを是としている彼は、その論にあわせるために、あまり深く勉強をしたことがない、たとえば歴史分野を例に挙げている。それこそ「証拠より論」でこの文を書いているとしかいいようがない。

 外岡秀俊について書を著したもと新聞記者が、このような文を書くのかと驚いた次第である。

 

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竹久夢二の展覧会

2024-06-15 21:05:03 | 美術

 私は竹久夢二の絵が好きだ。夢二の絵はがきはたくさんある。ひとと連絡するとき、多くの人はメールをつかうのだろうが、私は絵はがきをつかう。と言っても、最近は交友関係が少なくなっているので、出すことが少なくなっている。

 夢二の絵はがきが登場する機会をうかがっているのに、出番がない。以前、歴史学者の故ひろたまさきさんと交流していたときは、夢二を研究していたひろたさんも夢二の絵はがきをつかっていた。お互い、夢二の絵はがきでやりとりしていた。

 以前、『芸術新潮』を定期購読していた。しかし、個々の画家をとりあげるのではない特集が続いたのでやめてしまった。でも時々、どんな特集かを確認する。そしてその特集によっては購入する。

 7月号を点検したら、夢二を特集するという。東京都庭園美術館で、現在「生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界」が開催されていることから、『芸術新潮』が夢二をとりあげるのだ。早速注文した。私の書棚には、夢二に関する文献が今も並んでいる。

 歴史講座で、「夢二とその時代」をテーマに話したことがある。そのために、夢二の生家や岡山の夢二郷土美術館、夢二がよく行ったという牛窓を訪れ、また夢二が亡くなった長野県富士見の高原療養所あとにも行った。その際につくったレジメやスライドは今も保存している。

 なぜ夢二が好きなのかをみずからに問うと、夢二は近代日本国家にまったくなじめない人間であったということだ。夢二は、近代日本国家の一定の価値観から離れて生きた。その象徴として、彼は、元号を一切使わなかった。

 歴史講座で、私は夢二について、最後にこう語った。

石川啄木や大杉栄らのように、近代日本国家に「違和感」を持った人間ではなく、本来的に近代日本国家に馴染むことがなかった人間、それが夢二であった。夢二の作品が今も尚人々の関心を集める所以は、近代日本国家の価値観に染め上げられていないこと、そうしたものから自立していたからに他ならない。その時代の国家的価値観に寄生し、その価値観を身につけ、当該期にどんなに売れたとしても、その人間はいずれ歴史のくずかごに捨てられるだろう。その理由は、時代を超える普遍性を持たないからである。

 近代日本の価値観とは、天皇制(→「国体」思想)、ナショナリズム(→排外主義)、軍国主義・帝国主義(→植民地帝国)、資本主義(→格差社会)、私有財産の不可侵(財産権=人権の一つ)、自由放任と国家主導の資本育成(殖産興業、富国強兵)、家父長制(→「家」の束縛)、そして立身出世主義である。国家の価値観と合体する者は、国家的秩序の階段を上にあがることが許容され、カネや名誉などが与えられる。

 夢二は、そうした価値観とは無縁であった。

 

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健康保険証をなくすな!!の声を集中させよう!!

2024-06-14 08:48:32 | 政治

 厚労省が健康保険証を廃止することに関するパブリックコメント(パブコメ)を募集している。断固として、廃止するなの声を集中させよう!!

 締め切りは、6月22日。そのサイトで意見を送る場合、PDFファイルを開いて内容を確認しないといけなくなっているので注意。

6月22日〆切「健康保険証なくすな」の声をパブコメで届けよう

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森一三さんのこと

2024-06-13 22:13:26 | 美術

 近所に、石屋さんだけれども、油絵や彫刻、書を描く芸術家がいる。森さんの作品は、何かを描こうとして描いているわけではなく、魂からというか、心の底からというか、あるいは神の意図のままにと言うか、そういう作品ばかりである。

 個々の油絵から、何ともいえないエネルギーを感じるし、書は、書道ではない自由さにあふれ、「薔薇」はトゲのあるバラをそれとして描き、「花」は、たくさん描かれているが、一枚一枚異なるハナが描かれる。

 森さんから書を一枚あげると言われ、たくさんの作品からまず二点を選び出した。「道理」と「草木」である。この二つをわが家に飾るとき、「道理」はどうも押しつけがましいと思い、「草木」を選んだ。今はしっかりとした額に入れてある。

 「草木」を選んだ理由は、その書がまさに素朴な、私たちの廻りにある草木そのものを、字として素直に描いたもので、私自身の生き方を表していると思ったからであった。齢を重ねた私としては、まわりにある草木が自然の移り変わりのままに生まれ、生長し、そして枯れて死んで行くという、そうした死生観を持ち始めているからである。

 昨日、野見山暁冶、窪島誠一郎による『無言館はなぜつくられたのか』(かもがわ出版)を図書館から借りてきて、早速今日、読み終えた。

 先日の長野県上田への旅は、無言館を訪問するものであったが、そこに並んでいた戦没画学生の絵画は、戦時体制の下、生死を分ける戦場にちかい内に行かなければならないという切羽詰まった時期に描かれたもので、それぞれの絵画には、何が何でも描きたい、描かなければならないという意志の結晶としての作品であった。

 その本で窪島は、「・・・絵は描こうという対象を愛していないと描けない。それは事実なんです。夕焼けだろうが花だろうが、人だろうが、憎んでいたら、絵は描けない。文学は、批判する対象も書けるし、権力にはむかう批評も書けるけど、絵は、少なくとも絵を描いている時だけは描く対象を愛していないと、描けない。」(171頁)と語っている。

 なるほど、と思った。だから、彼らは、戦場の場面は描かなかった。愛することができないからだ。妻や妹、風景の絵など、愛するものを描いた。

 そこには、こんな絵を描いたら売れるか・・・などという邪心や欲はない。

 邪心がない、欲がない、という点で、森さんと戦没画学生は共通する。

 森さんは、墓石ももちろんつくっている。

 

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高校の制服

2024-06-11 08:25:27 | 社会

 16時台のしなの鉄道に乗ったら、高校生がたくさん乗っていた。私服の高校生もいた。

 私が高校生だった頃、新一年生のオーバーコートが規制され、男子は「黒か紺」、女子はグレーの一種類(学校指定)に統制されることとなった。私たちは「コート規制反対」の運動を開始した。生徒会で「コート問題小委員会」を組織して、この問題に取り組んだことがあった。私はそのまとめ役であった。

 指定された女子のコートは評判が悪く、その品質も問題となった。指定されたコートを提供したのは遠州鉄道であった。生徒会のメンバーは遠鉄(当時の遠鉄名店ビルの一室)にも足を運び、女子のコートの品質などについて協議をした。結局女子のコートは返品可能となり、コートの規制は撤回された。

 その後、なかなか目立つコートを着た女子生徒を見かけることがあり、感謝してもらいたいと思ったことがある。その後なぜか高校生はコートを着なくなった。今も、である。

 さて、このコート問題を取り上げた際、私はどんな服を着るのかも表現の自由の問題だと考えていたから、制服自由化をも模索した。当時発行されていた旺文社の受験雑誌の投稿欄などから無作為に全国の高校にアンケートを送り、コートだけではなく制服の有無について問い、その報告書も作成した。報告書はもう持っていないが、当時、制服がない高校は全国にあり、北海道や長野県では制服がない高校が多く、東京でも制服自由化の波があった。

 しかしその後、制服が採用されていく流れもあり、制服のない高校は減っていった。また私が大学を卒業して浜松に戻ってきたとき、高校生から制服が好き、といわれたときには「ええっ」と思った。

 昨日、しなの鉄道に乗っていたとき、私服の高校生を多数見て、長野県はがんばっていると思った。

 制服なんかがあるために、生徒は統制されるのである。私は、今も制服は「管理・統制」の手段だと思っている。自由があってもその自由を行使できない高校生、そういう若者をつくることが失策なのである。

なぜ?長野に制服がない高校が多い理由

 

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東京中心の国土

2024-06-11 08:00:17 | 政治

東京一極集中、もうこの動きは止まらない。交通網も、東京を中心として構築されている。

一昨日から信州・上田に行ってきた。行きは東京経由、帰りは名古屋経由とした。行きは、東海道新幹線、北陸新幹線を利用したが、所要時間は3時間半であった。帰りは、4時間半、上田からしなの鉄道で篠ノ井まで、そこでJRの特急しなのに乗り換えて名古屋まで、そして新幹線ひかりを利用して浜松へ。距離は、東京経由の方が約70キロメートル多い。距離は東京経由の方が長いのに、1時間も早く着く。特急しなのは名古屋と長野を結ぶのだが、これがなかなか時間がかかる。篠ノ井から名古屋までほぼ3時間である。

 つくづくと思ったのは、交通機関も東京一極集中で、東京からの新幹線網は整備されていて、東京からはどこにでも行きやすい環境が整備されている、ということである。

 東京中心の新幹線網が増えていく中で、在来線はJRから離れて民営鉄道になる。しなの鉄道の会社概要にはこうある。

 私が乗った16時台の同鉄道は、1時間に二本で、高校生でなかなか混雑していた。もし北陸新幹線がなかったら、本数も多く、地元の人たちにとっては日常的に便利な日々を送ることができただろうに。

 北 陸 新 幹 線 建 設 に 当 た り 、 1990 年 12 月 24 日 政 府 ・ 与 党 申 合 せ に より 並 行 在 来 線 と な る 軽 井 沢・篠 ノ 井 間 は 新 幹 線 開 業 時 に 東 日 本 旅 客 鉄 道株 式 会 社 ( J R 東 日 本 ) か ら 経 営 分 離 さ れ る こ と と な り ま し た 。し か し な が ら 、 同 区 間 は 1888 年 に 開 通 し て 以 来 、 長 野 県 の 東 北 信 地域 と 首 都 圏 及 び 新 潟 県 並 び に 北 陸 地 域 と を 結 ぶ 幹 線 鉄 道 と し て 、 ま た 、沿 線 地 域 住 民 の 生 活 路 線 と し て 地 域 の 発 展 に 大 き く 寄 与 し て お り 、沿 線地 域 に と っ て 必 要 不 可 欠 な 交 通 手 段 と し て 将 来 に わ た り 維 持 発 展 を 図る 必 要 が あ り ま す 。
こ の た め 、 1991 年 6 月 に 長 野 県 、 沿 線 市 町 、 経 済 団 体 等 の 出 資 に よる 第 三 セ ク タ ー に よ り 同 区 間 の 鉄 道 事 業 を 経 営 す る こ と と し て 地 域 の合 意 が な さ れ 、 1996 年 5 月 1 日 に は 第 三 セ ク タ ー 「 し な の 鉄 道 株 式 会社 」が 設 立 さ れ 1997 年 10 月 1 日 北 陸 新 幹 線 の 開 業 と 同 時 に 同 区 間 の 旅客 鉄 道 事 業 を 開 始 し ま し た 。

 

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学費値上げ?

2024-06-07 21:55:19 | 社会

 東京大学が学費を10万円上昇させる、という案を提出した。学費の値上げは、それが少額であっても、学生にとって一大事である。在学しているとき、たしか二度ほど学費値上げ反対闘争があり、私も積極的に参加した。親の仕送りは増えないから、値上げされた分はバイトなどで稼がなければならなくなる。

 私は、夜警と家庭教師のバイトをしていた。夜警は中野文化センターや武蔵野美術大学などでやっていた。前者のほうが楽だった。

 学生だった頃の学費は年間8万円、入学金は10万円だった。国立大学の学費は、もっともっと安かった。12000円ではなかったか。

 新幹線代浜松ー東京間は、1850円、運賃が1050円、特急券が800円だった。学割を利用すれば1640円で、仕送りとアルバイトでなんとか生活はできた。物価もそれなりの水準だった。しかしなかなか書籍代はでなかったので、私は一日の食事代を500円におさえるようにしていた。もちろんそのためには自炊するしかない。同じサークルで、のちに不二家に就職したYくんは、夕食時に食事にありつくため、隣の駅から歩いてよくきていたことを思い出す。

 東大の親の所得は全国の大学生のなかでも最高だといわれる。だが、そういう学生ばかりではないはずだ。経済的に苦しい学生も必ず存在している。「奨学金」という学生ローンもあるが、あれは卒業時にばく大な借金をかかえることになり、その後がたいへんになる。

 OECDの中でも、日本は公教育にカネを出さない国で、確かビリに近いのではないか。

 自民党・公明党政権は、利権に繋がるところにはカネ(もとは税金である)をつぎこむが、そうでないところにはカネを出さない。大学教育は、利権にはつながらない。そこで、自民党・公明党政権は、利権に繋がることが可能となるように、大学改革を進めようとしている。

 嘆かわしい国だ。

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『地平』という雑誌

2024-06-07 20:24:51 | 

 岩波書店の『世界』編集長であった熊谷伸一郎が新しい雑誌を刊行するという情報を得た。その雑誌の名は、『地平』である。その本が今日届いた。一年間は予約して購読してみるつもりだ。

 私が高校生の頃、『世界』を購読していた。『世界』のような雑誌は、『朝日ジャーナル』、『展望』(筑摩書房)、『現代の眼』、『軍事民論』など、いろいろあった。『世界』、『朝日ジャーナル』は購読していたが、それ以外は内容によって買っていた。

 今、批判的精神に満ちた雑誌は『世界』だけだから、『地平』という雑誌には期待したい。どんな雑誌になるのだろうか。

 ずっと前、何度か寄稿したことがある『新地平』という雑誌があった。あの雑誌はどうなったのか。 

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大阪万博の現状

2024-06-07 19:41:42 | 政治

 大阪の夢洲で開催が予定されている大阪万博。なぜこんなところに維新の橋下、松井らは開催しようとしたか。隣接して建設される予定のカジノのため、そのインフラを万博を利用して整備させようとしたのである。

 しかし万博の施設は、メタンが湧きあがり、雨が降ればドロドロになる地盤の上に建てられる。

 まあ、ひどい、ひどい!!

お笑い万博 遠足強要・メタン漏出・たどり着けない無計画

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