窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

御所ヶ谷神籠石の謎①

2012年02月07日 | 史跡めぐり


  一昨年は水城大宰府政庁跡、昨年は大野城をご紹介しましたが、3年目の今回は、福岡県行橋市津積にある、御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)に行ってきました。



  御所ヶ谷神籠石は古代に築かれた山城で、大野城と同様、御所ヶ岳(ホトギ山)の尾根に沿って土塁をめぐらし、弱点の谷間を石塁で固めた、周囲3kmに及ぶ壮大な城です。周囲8kmの大野城には及びませんが、当時の山城としては大きなものです。



  東門跡。



  建物礎石跡。目見当ですが、1辺6~7mほどの礎石跡です。大きさと位置から考えて物見櫓の跡ではないかと思いました。

 

  写真左は中門跡です。御所ヶ谷神籠石は『日本書紀』や『続日本紀』などの文献にその存在が記載されておらず、謎の多い城ではあるのですが、定説は大野城と同様、白村江の敗戦(663年)の後、外敵からの防御を目的に築かれたであろうということになっています。

  しかし、この中門の石垣を見た瞬間、僕はその定説は違うのではないかと思いました。以下は素人である僕の推測であることをお断りした上で、お話させていただきたいと思います。

  一見して感じた疑問とは、この中門の石垣の完成度の高さです(写真をクリックすると拡大します)。見てお分かりかと思いますが、ひとつひとつ成形された石が積み上げられています。いわゆる切り込みハギと呼ばれる石垣です。切り込みハギは石同士が密着している分、排水に難があるため、写真のように排水溝が必要になります。

  一方、写真右は大野城の太宰府口城門跡です。こちらは自然石に見える不揃いの石をかみ合わせて築かれています。野面積みと呼ばれる石垣です。野面積みが原始的であるという訳では決してないのですが、一般に石垣は時代の変遷順でいうと野面積み→打ち込みハギ→切り込みハギという順で技術進歩が見られます。

  例えば、乱世に加え鉄砲戦の時代になり、築城技術が飛躍的に進歩を遂げた戦国時代、打ち込みハギの登場は安土城(1580年)が最初と言われています。切り込みハギが登場するのは1600年頃のことで、その間には20年の開きがあります。しかも1600年以降になっても近世城郭の石垣は相変わらず野面積みが主流だったのです。

<つづく>

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
  ブログをご覧いただいたすべての皆様に感謝を込めて。

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