東京二期会オペラ劇場 「皇帝ティトの慈悲」 4/22

東京二期会オペラ劇場
モーツァルト「皇帝ティトの慈悲」

指揮 ユベール・スダーン
演出 ペーター・コンヴィチュニー
合唱 二期会合唱団
管弦楽 東京交響楽団
キャスト
 ティト 望月哲也
 ヴィテッリア 林正子
 セルヴィーリア 幸田浩子
 セスト 林美智子
 アンニオ 長谷川忍
 プブリオ 谷茂樹

2006/4/22 15:00~ 新国立劇場オペラ劇場 4階

ペーター・コンヴィチュニー演出による「皇帝ティトの慈悲」を新国立劇場で観てきました。二期会とハンブルク州立歌劇場の共同制作による話題の公演です。

コンヴィチュニーの演出を実際の舞台で観たのは今回が初めてですが、劇の本質を抉りとり、さらには剥き出しにしていく演出とはまさにこのことなのでしょうか。ティートという作品が、あれほど人間のドロドロとした愛憎が内包されたドラマだったとは思いもよりません。時代遅れとも言われるオペラセリアが、まるでバロック音楽を古楽器演奏にて鮮烈に甦らしたように生き生きとしている。寛大で啓蒙君主の鏡だったはずのティトの激しい苦しみ。それがクローズアップされることで見えてくるセストやヴィテッリアの心の闇。セストは本当にヴィテッリアを愛していたのだろうか。そしてヴィテッリアは単なる憎しみに燃えた女性なのか。コンヴィチュニーの手にかかると、この劇の暗部が、凄惨なまでに直裁的な表現で示されていきます。ミーハーな私は、面白い演出が観られるのかと期待して行ったのですが、むしろそれは良い意味で完全に裏切られました。表面的な笑いの底に潜んだ鋭く尖った牙。苦しみのあまりに何度も手首を切ろうとするセストや、皇帝であるためにまさに心をスッポリと入れ替えざるを得なかったティト。あのシーンで一体何を笑えというのでしょう。しかもそれがモーツァルトの美しい音楽の調べと共にやってくる。彼らの苦しみを鑑みるとあまりにも残酷です。そして破綻した大円団の後に連なる軽快な序曲。この憎悪劇がエンドレスに繰り返されていることへの告発でしょうか。その時「この有様では、古代ローマと変わらない。」(ZUSTAENDE WIE IM ALTEN ROM)という幕の言葉が重みを持って響いてきます。これほど後味の悪い幕切れもありません。



心に焼き付いたシーンはいくつもありました。まずはクラリネットとバセットホルンを舞台に上げた二つの箇所でしょう。クラリネットがまるで呪文のようにセストにまとわりついてティトへの憎しみを植え付けていく。まさに死神が誘った悪への道。それがヴィテッリアの復讐心と同時に表現されながら演じられていくのです。またバセットホルンも同じようにヴィテッリアをそそのかします。ティトへの憎悪が、次第に権力への願望へと転換されていったのでしょうか。その力をバセットホルンが強く与えること。ここは本来ならティトの許しに対応するヴィテッリアの諦めが示されるかと思うのですが、まさかヴィテッリアが心の動揺を超えて、もはや別人となったティトに成り代わっていく様子が表現されるとは思いませんでした。楽器を舞台にのせる演出にはこれまでにも接したことがありますが、音楽が登場人物の性格を明確に象っていることを示す演出に出会ったのは初めてです。モーツァルトの音楽へ対するコンヴィチュニーの敬慕の念が強く感じられる。彼は確かに音楽を止めたりするなどして舞台を作り上げますが、それが決して独りよがりの自己満足に陥っていない点が実に素晴らしいと思います。

スダーンと東響、さらには二期会の充実したキャストも、皆、このプロダクションに対する熱意が感じられるような力演でした。全体的にはややぎこちない部分もありましたが、セストの林美智子やティトの望月哲也は特に印象に残ります。凹凸なくしっかりと歌手を揃えるのはさすが二期会と言ったところでしょうか。望月の甘く柔らかい美声はまだ心地良く耳に響いています。

コンヴィチュニーは、二期会のインタビューによると「この作品の音楽に、非常にメランコリックな部分が聴こえてくるようになってきました。」と述べていますが、モーツァルトの歌劇から、まさにこれほどメランコリックな感情を与えられたのは初めてです。涙とともに出てくるような物悲しい笑い。演出を観て背筋が凍る経験。あまりにも恐ろしいティトの慈悲。他の演出が全て凡庸に見えてしまうかのような、トラウマにでもなりそうな公演でした。
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