都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
読響定期 「ショスタコーヴィチ:交響曲第11番」他
読売日本交響楽団 第467回定期演奏会
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」
指揮 ヒュー・ウルフ
ピアノ アンティ・シーララ
管弦楽 読売日本交響楽団
2007/1/15 19:00~ サントリーホール2階

元々、予定していませんでしたが、チケットにかなり余裕があるとのことで当日券で行ってきました。かつてフランクフルト放送響の常任指揮者としても活躍した俊英、ヒュー・ウルフによる読響の定期公演です。直前になって怪我をされたのか、何と松葉杖をついてのご登場となりましたが、椅子に座っての指揮より生み出される音楽は、颯爽とした、ダイナミズムにも優れた力強いものでした。
前半のバルトークはスロースタートです。アレグロ楽章こそ快活に、また冴えたリズムでぐいぐいと曲を引っ張っていましたが、それ以前、特に第一楽章などは指揮もオーケストラもエンジンのかかっていない、随分と冷めた演奏になっていました。ただその状態が、怜悧でかつ寒々しい響きが魅力的なシーララのピアノをより効果的にサポートすることに繋がっていたかもしれません。彼のピアノは中音域の厚みと、今触れた通り高音での透き通った音色の美しさに特筆すべき点がありますが、それが主に読響の切れ味鋭い音を奏でる弦セクションと良く合っていたのではないかと思います。ただあと一歩、バルトークの複層的な音楽を整理する見通しの広さがあれば、より良い演奏にもなっていたかもしれません。ちなみにシーララのアンコール曲、ショパンの前奏曲(24の前奏曲から第4番)は見事でした。聞き惚れます。
タコ11番はおそらくは名演です。ちなみに「おそらく」というのは、この曲に「血の日曜日事件」ならぬストーリー性と、表現に暗さなどを求めるのであれば物足りなさも残る演奏であったからではないかと思うことに因んでいます。第1楽章こそその後の盛り上がりを予感させる、抑制された音楽が滔々と流れていきましたが、太鼓とトランペットの合図の元に始まる惨劇のフガートでは、何やらR.シュトラウスの管弦楽曲でも聴いているような音のパノラマが眼前に繰り広げられ、また革命歌もどこか健康的に、快活に紡がれていきました。ともかく、迫力あるオーケストレーションが次々と生み出されながらも、それが決して重々しすぎることがないという、非常に稀有な演奏であったとも思います。そしてこの名演を支えたのは、今度は完全にアクセルの入った読響の地力です。何故かモゴモゴいうようなティンパニをのぞけば非常に力強い打楽器群、アダージョのコーダでも朗々と美音を奏でたイングリッシュホルンなどの木管、そして全体をしっかりと支えるコントラバスなどの低弦群から、ウルフの躍動的な指揮によく反応して立ち回るヴァイオリン群など、まず要所は外すことのない、優れた合奏を聴かせてくれました。また鮮烈であったのはラストに鳴り響く鐘です。まさに「警鐘」を鳴らさんと言わんばかりに強く、そして消えるまでに約20秒ほどはあろうかと言うほど実に長く打ち鳴らされていました。またもう一つ付け加えれば、会場では、幸いなことにその響きが完全に消えてから拍手が起りました。サントリーの長い残響によって鐘が静かに消えゆくのを、最後までじっくりと味わうことが出来たというわけです。
少なくともメインのショスタコーヴィチに関して言うなら、一昨年のカンブルランの指揮によるトゥーランガリラの名演に近い出来だったのではないでしょうか。あまり主観的でない、音楽自体の持つ面白さをショスタコーヴィチから巧みに引き出したウルフに改めて拍手を送りたいと思います。
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」
指揮 ヒュー・ウルフ
ピアノ アンティ・シーララ
管弦楽 読売日本交響楽団
2007/1/15 19:00~ サントリーホール2階

元々、予定していませんでしたが、チケットにかなり余裕があるとのことで当日券で行ってきました。かつてフランクフルト放送響の常任指揮者としても活躍した俊英、ヒュー・ウルフによる読響の定期公演です。直前になって怪我をされたのか、何と松葉杖をついてのご登場となりましたが、椅子に座っての指揮より生み出される音楽は、颯爽とした、ダイナミズムにも優れた力強いものでした。
前半のバルトークはスロースタートです。アレグロ楽章こそ快活に、また冴えたリズムでぐいぐいと曲を引っ張っていましたが、それ以前、特に第一楽章などは指揮もオーケストラもエンジンのかかっていない、随分と冷めた演奏になっていました。ただその状態が、怜悧でかつ寒々しい響きが魅力的なシーララのピアノをより効果的にサポートすることに繋がっていたかもしれません。彼のピアノは中音域の厚みと、今触れた通り高音での透き通った音色の美しさに特筆すべき点がありますが、それが主に読響の切れ味鋭い音を奏でる弦セクションと良く合っていたのではないかと思います。ただあと一歩、バルトークの複層的な音楽を整理する見通しの広さがあれば、より良い演奏にもなっていたかもしれません。ちなみにシーララのアンコール曲、ショパンの前奏曲(24の前奏曲から第4番)は見事でした。聞き惚れます。
タコ11番はおそらくは名演です。ちなみに「おそらく」というのは、この曲に「血の日曜日事件」ならぬストーリー性と、表現に暗さなどを求めるのであれば物足りなさも残る演奏であったからではないかと思うことに因んでいます。第1楽章こそその後の盛り上がりを予感させる、抑制された音楽が滔々と流れていきましたが、太鼓とトランペットの合図の元に始まる惨劇のフガートでは、何やらR.シュトラウスの管弦楽曲でも聴いているような音のパノラマが眼前に繰り広げられ、また革命歌もどこか健康的に、快活に紡がれていきました。ともかく、迫力あるオーケストレーションが次々と生み出されながらも、それが決して重々しすぎることがないという、非常に稀有な演奏であったとも思います。そしてこの名演を支えたのは、今度は完全にアクセルの入った読響の地力です。何故かモゴモゴいうようなティンパニをのぞけば非常に力強い打楽器群、アダージョのコーダでも朗々と美音を奏でたイングリッシュホルンなどの木管、そして全体をしっかりと支えるコントラバスなどの低弦群から、ウルフの躍動的な指揮によく反応して立ち回るヴァイオリン群など、まず要所は外すことのない、優れた合奏を聴かせてくれました。また鮮烈であったのはラストに鳴り響く鐘です。まさに「警鐘」を鳴らさんと言わんばかりに強く、そして消えるまでに約20秒ほどはあろうかと言うほど実に長く打ち鳴らされていました。またもう一つ付け加えれば、会場では、幸いなことにその響きが完全に消えてから拍手が起りました。サントリーの長い残響によって鐘が静かに消えゆくのを、最後までじっくりと味わうことが出来たというわけです。
少なくともメインのショスタコーヴィチに関して言うなら、一昨年のカンブルランの指揮によるトゥーランガリラの名演に近い出来だったのではないでしょうか。あまり主観的でない、音楽自体の持つ面白さをショスタコーヴィチから巧みに引き出したウルフに改めて拍手を送りたいと思います。
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