「藤田嗣治 本のしごと 文字を装う絵の世界」 目黒区美術館

目黒区美術館
「没後50年 藤田嗣治 本のしごと 文字を装う絵の世界」 
4/14~6/10



目黒区美術館で開催中の「没後50年 藤田嗣治 本のしごと 文字を装う絵の世界」を見てきました。

日本からフランスへ渡り、エコール・ド・パリの代表的な画家として知られる藤田嗣治は、1920年以降、戦後にかけても数多くの挿絵本を制作しました。


「詩数篇」 1919年 ラ・ベル・エディション社

藤田の挿絵本のデビュー作は、1919年に描かれた「詩数篇」でした。早くも同じ年、サロン・ドートンヌに出展した6点が全て入選し、画家としての高い評価を得ていました。またこの頃のヨーロッパは、挿絵本の隆盛の時代で、「稀少性の高い挿絵本は愛書家らの収集の対象」(解説より)と化していました。結果的に1920年代に、藤田の挿絵本は30冊以上も出版されました。

その「詩数篇」も冒頭に出展されていました。作者はフランス文学者の小牧近江で、藤田とはパリで交友を持っていました。全16ページの作品で、藤田は12の挿絵を提供し、210部のエディションで制作されました。

「ポーゾル王の冒険」に目が引かれました。フランスの耽美派の詩人、ピエール・ルイスによる作品で、古代ギリシャの架空の国を舞台としていました。藤田は本作に、馬に乗る王や妖艶な女性など、28点の挿絵を描きました。

挿絵は木版に銅版を問いません。猫を背に自画像を示したのが、「スペードの犬」で、何やら得意気に頬へ指を当てては、ポーズを構える自身の姿を表していました。また小説家のジッドの批評や論文などを収録した「アンドレ・ジッド」では、険しい様子でやや横を向く小説家の姿を描いていました。

その名も「フジタ」は、初の本格的な作品集で、藤田は作品図版とともに、女性の肖像などの5点のエッチングを描きました。またキキの自伝である「キキ回顧録」では、マン・レイが表紙にキキの姿を写し、キスリングや藤田も絵を提供しました。あわせて藤田がキキの全身像を鉛筆で描いた、「裸婦(キキ・ド・モンパルナス)」も出展されていました。

1929年に刊行された「中毒に就いて」が力作でした。アヘンを題材とした作品で、著者のジュール・ボワシエールはインドシナへ渡り、同作を著しました。藤田は、中国風の服を着た男や、仏像の前にいる僧侶など、東洋的なモチーフの挿絵を描きましたが、実際に同地へ行ったことはありませんでした。既存の図版などを援用して制作したのかもしれません。

日本を題材とした挿絵もありました。その1つが「芸者のうた」で、座敷で唄う俗謡を、フランス語に翻訳していました。ここに藤田は三味線を弾く芸者など、28の挿絵を描きました。


「日本昔噺」 1923年 アベイユ・ドール社

「日本昔噺」は挿絵だけでなく、編集や翻訳も藤田が手がけました。元は、江戸後期から明治に刊行された菊池容斎の「前賢故実」で、古代から南北朝へと至る600名弱もの人物を時代を追って肖像化し、略伝を付けた作品でした。また、芭蕉と9名の俳人の句をフランス語に訳した、「芭蕉とその弟子のハイカイ」にも、藤田は挿絵を描きました。ともかくフランス時代の藤田は、人気を反映していたのか、実に旺盛に挿絵を制作していました。

1933年に帰国すると、日本でも挿絵の仕事を多数に引き受けました。初の国内でのエッセイ集として知られるのが、「巴里の横顔」で、パリでの風景や生活について記していました。なお本作では、執筆と挿絵の全てを藤田が務めました。

1935年には「婦人之友」の1年間の表紙を担当しました。フランスの1年を描いた作品で、ピレネーやノルマンディー、さらには雪のモンマルトルなどを色彩豊かに描きました。その一方で、当時の内閣情報部による国策グラフ誌、「写真週報」では、基地に爆撃機が並ぶ光景などを表していました。かの時代の状況もあるのか、戦時色の濃い作品も少なくありませんでした。


藤田嗣治「書簡(フランク・シャーマン宛て)1949年3月31日」 目黒区美術館
(旧シャーマン・コレクション)


戦後、1949年に日本を去った藤田は、一時、ニューヨークに滞在していたことがありました。その時の様子を伝える貴重な資料であるのが、GHQの民政官であり、コレクターでもあったフランク・シャーマンに宛てた書簡集でした。シャーマンは、先立つ1946年に画家を訪問し、交友を深め、渡米にも尽力した人物でもありました。

書簡には多数のスケッチとともに、日常の様子を記したテキストが付されていて、ニューヨークでの生活の光景を垣間見ることが出来ました。手紙だけに、かなりプライベートな記述で、中にはアイロンを購入したことや、フランス絵画のコレクションを観覧したこと、またメトロポリタン美術館で声をかけられたことなどが記されていました。

1950年に再び渡仏し、1955年にフランス国籍を取得したのちも、挿絵本の制作をやめることはありませんでした。ジャン・コクトの「海龍」は、戦前にコクトーが世界一周旅行に出た際、日本でのエピソードをまとめた作品で、そもそも藤田はコクトーの来日時に、ともに夜の歓楽街を歩いたり、相撲を観戦するなどして案内しました。そして戦後、出版された同作においても、25点の挿絵をつけました。ともかく流麗な線描が目を引く作品で、中でも和装の女性の黒髪の美しさには見惚れました。

アルベール・フルニエの小噺集、「しがない職業と少ない稼ぎ」も目立っていたかもしれません。子どもたちが床屋や仕立屋、それに左官に帽子職人など、パリの様々な職人を演じていて、藤田が晩年に多く取り上げたモチーフを挿絵に取り込んでいました。

「藤田嗣治 本のしごと/集英社新書」

なお目黒区美術館は、コレクションの形成に際し、シャーマンの旧蔵品をまとめて収蔵していたそうです。よって一部に、旧蔵品である、藤田の油彩や陶芸も出展されています。シャーマンと目黒の縁があってからこその、藤田展と言えるかもしれません。

今年、没後50周年を迎えた藤田嗣治に関しては、7月末より東京都美術館でも大規模な回顧展が予定されています。

「没後50年 藤田嗣治展」(東京都美術館)
会期:7月31日(火)~10月8日(月・祝)
http://foujita2018.jp


挿絵本や資料の数は膨大で、想像以上にボリュームのある展覧会でした。時間に余裕をもってお出かけ下さい。



間もなく会期末です。6月10日まで開催されています。なお目黒展終了後、ベルナール・ビュフェ美術館(6/23〜10/30)、および東京富士美術館(2019/1/19〜3/24)へと巡回します。

「没後50年 藤田嗣治 本のしごと 文字を装う絵の世界」 目黒区美術館@mmatinside
会期:4月14日(土)~6月10日(日)
休館:月曜日。
時間:10:00~18:00
 *入館は17時半まで。
料金:一般1000(800)円、大高生・65歳以上800(600)円、小中生無料。
 *( )内は20名以上の団体料金。
住所:目黒区目黒2-4-36
交通:JR線、東京メトロ南北線、都営三田線、東急目黒線目黒駅より徒歩10分。
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