都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「石井林響展-千葉に出づる風雲児」 千葉市美術館
千葉市美術館
「生誕135年 石井林響展−千葉に出づる風雲児」
2018/11/23~2019/1/14

千葉市美術館で開催中の「生誕135年 石井林響展-千葉に出づる風雲児」を見てきました。
明治17年に千葉の土気本郷町(現在の千葉市)に生まれた日本画家、石井林響(1884~1930)は、修善寺や品川に移るも、大正末期には大網に画房を築き、歴史画から風景画、風俗画、さらに文人画と画風を変えながら、多くの作品を残しました。
石井林響、本名毅三郎は、千葉の中学時代に画才を見出され、卒業後に上京し、美術を学びました。当初は洋画を志していたものの、途中で日本画へ転向し、明治34年に橋本雅邦に師事しました。
21歳の時、二葉会で銀賞賞を受賞したのが、チラシ表紙を飾る「童女の姿となりて」で、少女に扮装して、熊曾建(くまそたける)を討とうする、ヤマトタケルの姿を描いていました。その表情は凛々しく、右手を開きながら、左手で銅鏡を持っていて、足元には短刀が置かれていました。淡い色彩や細い線など、大変に緻密に描かれた作品で、特に透けた着衣が見事に表現されていました。このように初期の林響は、当時流行していた歴史画を制作しては、評価を得ました。

石井林響「木華開耶姫」 明治39年 千葉県立美術館
明治40年末から約2年間、修善寺温泉の旅館に滞在した林響は、同地で絵の修養に励みました。その頃の一枚が、「弘法大師」で、右手で五鈷杵を持ち、左に念珠を持っては、堂々とした様で座る大師の全身を捉えていました。また背景には、大きな後光が円く広がっていますが、当初は岩窟の中の姿を描くべく、下絵で岩や樹木を表していたそうです。展示では、本画と下絵を見比べることも出来ました。
林響は各方面に活動の場を広げた画家でした。明治42年には安田靫彦や今村紫紅らによる紅児会に参加すると、大正には日本美術院の院友となり、のちに帝展へと移りました。東京の南品川に居を構え、多くの画人らと交流しながら、絵を制作していたそうです。
「漁撈」に目を奪われました。六曲一双の画面に、波が打ち寄せる岩場の中、一人の男が小舟に乗る様子を描いていて、人物を大きく引き延ばすように表していました。また寒山拾得も得意とした画題の1つで、「寒山子」では、爪を伸ばし、不気味な笑みを浮かべる寒山の姿を描いていました。
縦横2メートルは超える「王者の瑞」も目立っていたかもしれません。二曲一双の屏風で、右に聖帝、そして左には背を曲げた麒麟の姿がありましたが、林響は実際のキリンの剥製を写生してから、本画の制作に取り掛かったそうです。

石井林響「総南の旅から 砂丘の夕」 大正10年 山種美術館 (展示期間:11月23日~12月20日)
大正に入って、号を天風から林響へと改めると、それまでの歴史画ではなく、中国風俗画や、南画風の作品を多く描くようになりました。大正期は「カラリスト」と呼ばれるほど色を多用した一方、南画に傾倒すると、モノクロームを基調とした、軽妙な作風へと変化しました。ともかく林響は変わる画家で、ともすると最初期と晩期の作品が、同一の人物によるとは思えないかもしれません。
林響は古画のコレクターでもありました。中でも中国・清の画家、石濤の「黄山八勝画冊」を大正末に購入し、一時期、所有していました。のちに林響の手から離れ、住友家へ移り、現在は泉屋博古館に所蔵され、重要文化財にも指定されています。

石濤「黄山八勝画冊」 中国・清時代 泉屋博古館 (重要文化財)
この「黄山八勝画冊」が絶品でした。画冊ゆえに、一辺は20~26センチほどの小さな作品ですが、細かい線が震えるように広がり、淡い色彩を伴いながら風景を築いていて、覗き込むと、場の空気や臨場感が伝わるかのようでした。(会期中は場面替えで展示されます。)
大正15年に千葉の大網宮谷に画房「白閑亭」を築いて移住すると、さながら南画を極めべく、さらに絵画を描き始めました。またアトリエは自然に囲まれていて、林響も草花を育てつつ、多くの鳥を飼いながら、日々の生活を送っていました。林響は部類の鳥好きでも知られ、実際に作品にも多くの鳥が描かれていました。

石井林響「野趣二題(池中の舞)(枝間の歌)」から「池中の舞」 昭和2年 東京国立近代美術館
この頃を代表するのが、「野趣二題 枝間の歌・池中の舞」ではないでしょうか。2幅の画面には、墨と淡い色彩で、水中の魚や樹木を描いていて、筆は大変に素早く、なおかつ密でもあり、まるで大気が空間を満たすように広がっていました。玉堂の世界を思わせる面があるかもしれません。
こうして再び郷里の千葉で活動していた林響ですが、昭和5年、突然、脳溢血にて亡くなってしまいます。時に48歳でした。

石井林響「薄暮」 大正末期 佐野市立吉澤記念美術館
今でこそ林響は知る人ぞ知る存在かもしれませんが、当時は「西に関雪あり、東に林響あり」と称されるほど、高く評価されていました。言い換えれば「千葉に林響あり」とも呼べるかもしれません。
展示替えの情報です。会期中に一度、一部の作品が入れ替わります。
「生誕135年 石井林響展−千葉に出づる風雲児」出品リスト(PDF)
前期:11月23日(金・祝)~12月20日(木)
後期:12月21日(金)~2019年1月14日(月・祝)
なお林響展に続く、所蔵作品展「林響の周辺」では、林響と関係のあった画家や弟子、それに玉堂の作品などを丹念に紹介していました。もちろん林響展のチケットで観覧出来ます。お見逃しなきようおすすめします。
出品は約130点です。千葉県内の美術館はもとより、伊豆市のほか、個人蔵の作品も多くやって来ています。おおよそ28年ぶりとなる大規模な回顧展です。千葉単独の開催で、巡回はありません。

2019年1月14日まで開催されています。
「生誕135年 石井林響展−千葉に出づる風雲児」 千葉市美術館(@ccma_jp)
会期:2018年11月23日(金・祝)~2019年1月14日(月・祝)
休館:12月3日(月)、12月29日(土)~1月3日(木)
時間:10:00~18:00。金・土曜日は20時まで開館。
料金:一般1200(960)円、大学生700(560)円、高校生以下無料。
*( )内は20名以上の団体料金。
*おなまえ割引:姓が「石井」あるいは名前に「天」「風」「林」「響」がつく方は観覧料2割引。(要証明書)
住所:千葉市中央区中央3-10-8
交通:千葉都市モノレールよしかわ公園駅下車徒歩5分。京成千葉中央駅東口より徒歩約10分。JR千葉駅東口より徒歩約15分。JR千葉駅東口よりC-bus(バスのりば16)にて「中央区役所・千葉市美術館前」下車。JR千葉駅東口より京成バス(バスのりば7)より大学病院行または南矢作行にて「中央3丁目」下車徒歩2分。
「生誕135年 石井林響展−千葉に出づる風雲児」
2018/11/23~2019/1/14

千葉市美術館で開催中の「生誕135年 石井林響展-千葉に出づる風雲児」を見てきました。
明治17年に千葉の土気本郷町(現在の千葉市)に生まれた日本画家、石井林響(1884~1930)は、修善寺や品川に移るも、大正末期には大網に画房を築き、歴史画から風景画、風俗画、さらに文人画と画風を変えながら、多くの作品を残しました。
石井林響、本名毅三郎は、千葉の中学時代に画才を見出され、卒業後に上京し、美術を学びました。当初は洋画を志していたものの、途中で日本画へ転向し、明治34年に橋本雅邦に師事しました。
21歳の時、二葉会で銀賞賞を受賞したのが、チラシ表紙を飾る「童女の姿となりて」で、少女に扮装して、熊曾建(くまそたける)を討とうする、ヤマトタケルの姿を描いていました。その表情は凛々しく、右手を開きながら、左手で銅鏡を持っていて、足元には短刀が置かれていました。淡い色彩や細い線など、大変に緻密に描かれた作品で、特に透けた着衣が見事に表現されていました。このように初期の林響は、当時流行していた歴史画を制作しては、評価を得ました。

石井林響「木華開耶姫」 明治39年 千葉県立美術館
明治40年末から約2年間、修善寺温泉の旅館に滞在した林響は、同地で絵の修養に励みました。その頃の一枚が、「弘法大師」で、右手で五鈷杵を持ち、左に念珠を持っては、堂々とした様で座る大師の全身を捉えていました。また背景には、大きな後光が円く広がっていますが、当初は岩窟の中の姿を描くべく、下絵で岩や樹木を表していたそうです。展示では、本画と下絵を見比べることも出来ました。
林響は各方面に活動の場を広げた画家でした。明治42年には安田靫彦や今村紫紅らによる紅児会に参加すると、大正には日本美術院の院友となり、のちに帝展へと移りました。東京の南品川に居を構え、多くの画人らと交流しながら、絵を制作していたそうです。
「漁撈」に目を奪われました。六曲一双の画面に、波が打ち寄せる岩場の中、一人の男が小舟に乗る様子を描いていて、人物を大きく引き延ばすように表していました。また寒山拾得も得意とした画題の1つで、「寒山子」では、爪を伸ばし、不気味な笑みを浮かべる寒山の姿を描いていました。
縦横2メートルは超える「王者の瑞」も目立っていたかもしれません。二曲一双の屏風で、右に聖帝、そして左には背を曲げた麒麟の姿がありましたが、林響は実際のキリンの剥製を写生してから、本画の制作に取り掛かったそうです。

石井林響「総南の旅から 砂丘の夕」 大正10年 山種美術館 (展示期間:11月23日~12月20日)
大正に入って、号を天風から林響へと改めると、それまでの歴史画ではなく、中国風俗画や、南画風の作品を多く描くようになりました。大正期は「カラリスト」と呼ばれるほど色を多用した一方、南画に傾倒すると、モノクロームを基調とした、軽妙な作風へと変化しました。ともかく林響は変わる画家で、ともすると最初期と晩期の作品が、同一の人物によるとは思えないかもしれません。
林響は古画のコレクターでもありました。中でも中国・清の画家、石濤の「黄山八勝画冊」を大正末に購入し、一時期、所有していました。のちに林響の手から離れ、住友家へ移り、現在は泉屋博古館に所蔵され、重要文化財にも指定されています。

石濤「黄山八勝画冊」 中国・清時代 泉屋博古館 (重要文化財)
この「黄山八勝画冊」が絶品でした。画冊ゆえに、一辺は20~26センチほどの小さな作品ですが、細かい線が震えるように広がり、淡い色彩を伴いながら風景を築いていて、覗き込むと、場の空気や臨場感が伝わるかのようでした。(会期中は場面替えで展示されます。)
大正15年に千葉の大網宮谷に画房「白閑亭」を築いて移住すると、さながら南画を極めべく、さらに絵画を描き始めました。またアトリエは自然に囲まれていて、林響も草花を育てつつ、多くの鳥を飼いながら、日々の生活を送っていました。林響は部類の鳥好きでも知られ、実際に作品にも多くの鳥が描かれていました。

石井林響「野趣二題(池中の舞)(枝間の歌)」から「池中の舞」 昭和2年 東京国立近代美術館
この頃を代表するのが、「野趣二題 枝間の歌・池中の舞」ではないでしょうか。2幅の画面には、墨と淡い色彩で、水中の魚や樹木を描いていて、筆は大変に素早く、なおかつ密でもあり、まるで大気が空間を満たすように広がっていました。玉堂の世界を思わせる面があるかもしれません。
こうして再び郷里の千葉で活動していた林響ですが、昭和5年、突然、脳溢血にて亡くなってしまいます。時に48歳でした。

石井林響「薄暮」 大正末期 佐野市立吉澤記念美術館
今でこそ林響は知る人ぞ知る存在かもしれませんが、当時は「西に関雪あり、東に林響あり」と称されるほど、高く評価されていました。言い換えれば「千葉に林響あり」とも呼べるかもしれません。
展示替えの情報です。会期中に一度、一部の作品が入れ替わります。
「生誕135年 石井林響展−千葉に出づる風雲児」出品リスト(PDF)
前期:11月23日(金・祝)~12月20日(木)
後期:12月21日(金)~2019年1月14日(月・祝)
なお林響展に続く、所蔵作品展「林響の周辺」では、林響と関係のあった画家や弟子、それに玉堂の作品などを丹念に紹介していました。もちろん林響展のチケットで観覧出来ます。お見逃しなきようおすすめします。
そして田中一村に続く⁉︎千葉ゆかりの絵師は石井林響…!この秋11/23から「生誕135年 石井林響展 千葉に出づる風雲児」を単独開催します。明治大正の時代を駆け抜けた熱血漢の日本画家・林響の全貌に刮目せよ! pic.twitter.com/bxGJFEhf8K
— 千葉市美術館 (@ccma_jp) 2018年6月22日
出品は約130点です。千葉県内の美術館はもとより、伊豆市のほか、個人蔵の作品も多くやって来ています。おおよそ28年ぶりとなる大規模な回顧展です。千葉単独の開催で、巡回はありません。

2019年1月14日まで開催されています。
「生誕135年 石井林響展−千葉に出づる風雲児」 千葉市美術館(@ccma_jp)
会期:2018年11月23日(金・祝)~2019年1月14日(月・祝)
休館:12月3日(月)、12月29日(土)~1月3日(木)
時間:10:00~18:00。金・土曜日は20時まで開館。
料金:一般1200(960)円、大学生700(560)円、高校生以下無料。
*( )内は20名以上の団体料金。
*おなまえ割引:姓が「石井」あるいは名前に「天」「風」「林」「響」がつく方は観覧料2割引。(要証明書)
住所:千葉市中央区中央3-10-8
交通:千葉都市モノレールよしかわ公園駅下車徒歩5分。京成千葉中央駅東口より徒歩約10分。JR千葉駅東口より徒歩約15分。JR千葉駅東口よりC-bus(バスのりば16)にて「中央区役所・千葉市美術館前」下車。JR千葉駅東口より京成バス(バスのりば7)より大学病院行または南矢作行にて「中央3丁目」下車徒歩2分。
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