かぶれの世界(新)

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函館家族旅行(2)

2024-03-06 18:25:33 | 旅行記
週末の函館旅行は正に雪と強風の嵐の中の行軍だった。二日目(日)のローカル紙「函館新聞」の1面では、「3月なのに…道南大雪、函館積雪27㌢で今季最深」「江差町で最大風速28メ-トル」「真冬並みの大雪、駅周辺で強い風雪の中を歩く観光客」などと報じていた。

二日目の午前中は前日の雪は残ってたが風は治まり雪もチラつく程度になり、函館市内の朝市やレンガ街を散策した。朝市のオバちゃんによると金曜日までは殆ど雪は降らなかったのに、昨日になって大雪になったという。皮肉にも我々が東京に戻った翌日の北海道は快晴と報じていた!

まるで我が家の函館旅行を狙ったような天候だったが、それはそれで記憶に残る旅行だったと家内も息子も強調した。凄い前向きなコメントで、そういえば私もそう感じて反論しなかった。旅行記と言いながら、まだ本論に入っていない。我が家の変わった旅行記を紹介したい。

1日目午後にロープウェイ乗り場でツアーに合流する前に、ツアー本隊はトラピスチヌ修道院(日本初の女性修道院)と函館八幡宮の見学を終えていた。乗り場はかなりの坂上で、隣のバス停車場に行く途中の坂で別のタクシー2台がスリップして接触しパトカーが出動していた。

雪国でプロの運転手がミスる現場を見学した。生の迫力ある事故現場を見たと同時に、我々が乗ったタクシーも同じ坂を上り、更にこれから観光バスに乗って同じような道を走ると思うといささか怖かった。私の目には雪上を走る車は東京で見かける車と変わらぬ速度に見えた。

その後、時折先が見えなくなる猛烈な吹雪の中地元ガイドに案内され元町八幡坂にある仏ロ米英の大きく立派な教会を見て回った。国(或いはキリスト教)によって教会の造りは異なった。私の好みは仏の石造り教会で、ロシアの威圧するような教会は好きになれなかった。

だが、正直なところ記憶に残っているのはガイドの説明ではなく、吹雪の中で足を滑らせない様気をつけて歩いたことだ。零下6度の低温下で横殴りの粉雪の中を歩くと雪がまとわりついて全身が真っ白になった。最後に公開されていた元英国領事館内を歩きバスに戻り一息ついた。

夕方5時前からレストランで早めの夕食をとり(函館ならではの海鮮グルメという謳い文句は期待外れだった)、乗り場に戻りロープウェイで函館山に登り有名な夜景を鑑賞した。と言っても吹雪の中の函館の街は見通しが悪く、それはそれで珍しい風景を楽しんだといえる。

30分後に函館山を下りバスでホテルに到着した。急に思いついたツアー参加だったせいか、我々家族は三人部屋を予約できず夫々別の個室に宿泊した。最上階の風呂は大風呂、源泉、サウナ等を楽しみ函館の街の夜景を見た後、家内の部屋に集まりお酒をたしなんだ。■
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函館家族旅行(1)

2024-03-04 20:42:17 | 旅行記
週末に家族3人で函館に行ってきた。家内と息子が相談して函館ツアーを提案された時は、真冬の北海道なんて真っ平だと思った。しかし、私も津軽海峡を新幹線で渡る旅には興味があった。というのも、18才の時に親友との北海道一周旅行以来、何度か旅行したが新幹線は一度もない。最初の旅行は青函連絡船でそれ以降は飛行機、一度は新幹線で北海道に行ってみたかった。

冬の北海道の天候は心配で気が進まなかったが、旅行会社が面倒見てくれるツアーなら殆どは乗り物とホテルの中で何とかなると思って了解した。最近ツアーの旅費が高くなっていると聞いていたが、いつも後期高齢者の私の面倒をみてくれる家族に礼をしたい気持ちもあり、ケチな私だが彼等の行きたい所に費用を負担して一緒に行こうと決めた。

だが、今回は次から次へと想定外の難航の連続だった。二日の強行日程なので土曜日の早朝7時過ぎに家を出て、武蔵野線に乗った時から事件(我々にとっては)が起こった。ツアーは東京発だが我々は少しでも時間を節約しようと大宮からツアーに参加予定だった。だが、大宮宇都宮間の在来線で事故発生し、我々の乗った後続電車が大宮駅の手前で足止めされ新幹線に乗り遅れた。

東京から新幹線に乗った添乗員に私や息子が連絡を取ったが、旅行キャンセルの払い戻しは限定されていた。私は元々余り乗り気でなかったのでキャンセルしても良いと思ったが、家内や息子は遅れても旅行に参加したいと主張した。最終的に大宮駅で遅延証明を受け、次発の新幹線切符を購入しツアーを追いかけ合流することに決めた。一人2万円余りの予定外支出になった。

後続する新幹線は全席指定でお客が多く、我々3人は3人掛け席の真ん中に分かれて座らざるを得なかった。だが、大宮の次の停車駅の仙台で空席が増えた。家内の両側の客が下車したので様子を見て、家内が窓際に移り私は後列から彼女と同じ列の通路側に移動した。私の後ろの列に座った息子も両側の客が下車し、旅行の後半は普通の新幹線の旅になった。

仙台を過ぎた頃から所々の田畑や林に積雪が見られるようになり、盛岡を過ぎると窓から見える景色は一面真っ白に変わった。最初はまだ「雪だ!雪だ!」と気楽に言っていたが、八戸から青森に近づいた頃から単なる雪景色から雪の嵐に変わり遠方の景色が真っ白になり、津軽海峡のトンネルを抜けると終点の函館北斗まで猛吹雪が続いた。

この間も添乗員と息子は合流点を何時何処にするか電話連絡が続いた。最終的に新幹線駅から在来線で函館駅に戻り、函館山のロープウェイ乗り場に行き待ち合わせすることになった。在来線の切符を家内が買ってくれ改札を通って電車に乗ろうとしてポケットを探ると切符がなかった。息子に言われ改札口まで通路を逆に辿ったが見つからず、「もういい、電車に乗れ」と急かされて従った。

函館駅に着いて改札口の駅員に切符を無くしたと申告すると、彼は事情を理解してくれ改札を通してくれた。「エッ、いいの?」と驚くと彼は私が正直に申告したので見逃すといってくれた。それにしても、息子と家内は私のボケぶりに呆れた様子で驚いたと言われてしまった。恥ずかしながら全くその通りです、と言わざるを得なかった。マジで情けなかった。

函館駅前広場は積雪で真っ白になっていた。寒さで粉雪まみれの広場を歩くとサクサクした感触だった。私は登山靴を履き、息子と家内は防水加工の靴に簡易の滑り止めをつけ問題なく歩けた。駅構内にいる時、二人はロープウェイ乗り場までタクシーで行くと決めた。私には相談なく信用を失ったようだ。山頂までタクシーで行くのかと最初不安だったが、乗り場までと聞き安心した。■
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飛行機旅行の思い出

2024-01-05 21:19:58 | 旅行記
羽田空港で日本航空機と海保庁機が衝突し、乗客乗員が奇跡的に全員避難したが、海保庁の職員5人が亡くなったのは本当に悲惨な事故だった。一方で羽田から発着するフライトがキャンセルされ、今も200便以上が欠航して3万人以上の乗客が取り残されたという。

40年以上前にフライトがキャンセルされ米国の空港に取り残されたことを思い出した。70年代後半に初めて米国に海外出張をし、数年後には毎月のように米国両海岸に出張した。その頃真冬のボストン郊外の支社に出張し、マイナス15度の大雪のなか帰国することになった。

その日は128号線の外にあるボストン郊外のホテルに泊まり帰国予定だった。ボストンの空港が大雪で閉鎖と再開を繰り返していたが、取り敢えずタクシーで空港に向かった。マサチューセッツ州は雪が降ると道路に塩を撒いて特別なタイヤでなくともほぼ予定通りに空港に着いた。

だが、空港はクローズされており多くの乗客が再開されるのを待っていた。私はボストンからニューアークに国内便で行き、そこから国際便に乗り換え成田に飛ぶ予定だった。小一時間経過後に空港が再開しニューアークに行くフライトの案内があり、あっという間に乗客の長い列ができた。

だが、悲しいかな私は英語を聞き取れず列の後方に並ぶのが精一杯で、その1時間後発のフライトに乗るしかなかった。ニューアークに到着したした時には日本行きのフライトはもう出た後、翌日朝一番のフライトに乗るしかなかった。となると、その日の夜をどう過ごすか問題だった。

だが私のような乗り遅れたお客は沢山いたはずで、案内の放送後すぐに空港の窓口に行き近くのマリオットを予約した。ホテル行きのバスが手配され、ビジネスホテル程度の値段で一泊した。取り敢えずボストン支社に電話を入れ日本の担当部門に連絡するようお願いした。

広大な米国での飛行機旅行は日本と違って直行便より1-2回の乗り換えて目的地に行くのが普通で、フライトが翌日になる事態はよくあることで簡単な手続きで対応できる仕掛けがあった。私のような未熟なレベルの英語でも何とかなり助かった経験が何度かあった。

ボストンでの経験だけではない。仕事で南部の会社を訪問した時は乗換機の不具合で一本後のフライトに乗ったことがある。息子とカナダのバンクーバーに登山に行った時は9.11直後で、入国審査を待つ長い列で手間取り予定のフライトに遅れ、半日遅れたこともある。

特に乗換機の航空会社が同じ時は優先して面倒をみてくれることがあったが、異なった航空会社の時は自分が対応するしかない。例えば上記のボストン空港の場合、ボストンからニューアークは米国内航空会社のフライト、ニューアークから成田までは米国の国際線だった。ある意味、面倒見の良い日本のパック旅行に比べると、自己解決を求められる海外旅行はいい勉強になるかも。

羽田空港の事故に戻ると乗員乗客全員が助かった日本航空は普段からトレーニングをして素晴らしい結果を出したと思う。私が海外出張した頃は日米で飛行機事故が続発し、無事空港に着陸した時は乗客は拍手したのを思い出す。今回の事故対応を各国が褒め称えたのは当然だと思う。■
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名古屋・日間賀島の気まま旅(終)

2023-12-08 10:59:44 | 旅行記
今回の旅行はゆったりしたスケジュールで美味しい魚料理を食べるのが最大の目的で、その舞台として南知多町の日間賀島を選んだ。訪問した名古屋城・水族館・トヨタ記念館はその時々の旅の空き時間を使って選んだだけだった。

家内と息子はその趣旨を説明して旅行会社の助言を受け、新幹線とホテルを予約して貰った。従来のパック旅行は黙っていても予め決められたプランに従いで観光バスなどの移動手段やホテルと食事がガイドの説明付きで提供されたが、今回は全て我々の判断で行動した。

特に家内は大きなホテルでのバイキング形式の食事が美味しくないと不満だったようだ。私自身は食事は不味くなければ十分、何もせず座ったまま観光地を巡り知識豊富なガイドの説明を聞けたら良いと思ってた。私が田舎にいる間に彼等が旅行プランを練り、説明を受け私はそれに従った。

それ以前、特に90年代米国駐在時は全て自分で計画を立てホテルを選んで泊まり食事をするのが当たり前の旅行スタイルだったので、帰国後何をしなくても面倒をみてくれる日本式のパック旅行が気に入ってた。豊富な知識(そうじゃない場合もあるが)のガイドの解説が好きだった。

逆説的に言うと、旅の途中で空いた時間が出来るとその場で判断して行先や交通機関等を決め次の行動を決めた。極端に言うと、今回の旅行は一日中脳を働かせて判断することになった。私は高齢者になってからそんな経験をせずのんべんだらりの生活で脳が遊んでいたようだ。

もう一つ物理的な要因があった。今回は観光バス等の移動手段を使わなかったので、天候変化に対応する雨具や衣類とか早朝出発の食事・飲料水等を詰め込んだリュックで移動した。リュックの重量は5キロ程度あったはずで、長い時間担いで歩くと夕方には疲労感というか倦怠感が出た。

日間賀島を一周する積りでいたが、歩き始めると半周したところで疲れを感じ引き返した。よく考えれば半周して戻るなら一周しても距離は同じだったはずと今頃になって後悔している。息子は倍程度の重量を担いだはずで、珍しく疲れたと口に出して最初私と一緒に歩くのを躊躇った。

今回の旅行は1日目から精神と肉体と両方で微妙に倦怠感が生じた。気まま旅に出てとても楽しんだ積りだったが、微妙な疲れが出たというのが本音だ。翌日私の血圧は140台半ば、2日目は140台弱と高めで推移し、4日目の今朝はやっと130台前半に落ち着いた。

今迄にこんな倦怠感の経験は記憶に無いが、後期高齢者になった私が緊張感のない生活に慣れたせいかもしれない。だが、こういう旅行スタイルも悪くないとお勧めしたい。■
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名古屋・日間賀島の気まま旅(4)

2023-12-07 16:50:28 | 旅行記
朝焼けの三河湾は小型の漁船で溢れていた。朝日が昇り始めた頃に西港側に見えた小型漁船は、家内と散歩道で合流してホテルに戻った頃には三河湾全体に展開していた。送迎車で港に向かうう途中で聞くと、ホテルのマスターは小型漁船の殆どは釣り人達が借りた釣り船だという。日間賀島の常連さんは「美しい夕焼けを見て頂く魚料理」より、「三河湾で釣る魚」なのだと思った。

朝食後の高速艇の乗客は前日の半分にも足りなかったが、西港で待っている10分余りの間に別ルートの高速艇3隻が港に出入りした。周囲5キロの小さな島に1800人も住む人口密度最大の離島だそうで、パンフレットの地図には小学校があったので若い人達も沢山住んでいるのだろうと思った。だが、私が歩いた遊歩道からは一人の子供の姿も見かけなかった。

往路と同じ経路をたどって名古屋に戻ったが、変わらなかったのは名古屋駅周辺の異常ともいえる人の多さだった。駅の広い通路を道幅一杯の人達が行き来していた。大きいはずの名古屋駅なのにこの混雑状況はあり得ない程の、最近よく聞く「オーバーツーリズム」状態だった。

しかも、その原因を作っていた半分近くが特有のファッションの若い女性「名古屋ギャル」(私が名付親!)だった。その典型的なスタイルが寒さに負けないショートスカートに厚底の靴を履き、長い足でキャリーケースをゴロゴロ引っ張って歩く女性達だった。様子から見て名古屋近辺に住む若い女性達のような印象を受けた。だが、私には妙に画一的なファッションのように感じた。

私は最近滅多に都心に行かないが、東京近辺でこんな風景は見た記憶がない。やはり名古屋特有のギャルだと思った。新横浜で下車して東横線に乗り換えて「名古屋ギャル」スタイルの女性がいないか捜してみた。ミニスカート姿は皆無で厚底靴を数人見かけただけだった。夜7時過ぎという時間のせいかも知れないが、日曜日なので仕事帰りということも無いはずだ。場所が違ったか?

8時過ぎに自宅に戻るとたった二日留守にしただけで家の中は冷たくなっていた。風呂に浸かって体を温め、家内と好みの廉価な赤ワイン1本を明けていつもより早くベッドにもぐりこんだ。頻尿の私が翌朝までにたった一度しかトイレに立たなかった。ドッと疲れが出た感じだ■。
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