昨日会社勤め時代の同僚から久しぶりのメールが続々と入ってきた。かつての上司の訃報を知らせるものだった。彼は私のサラリーマン人生の後半を直接間接に‘圧’したと言って良い位密接な関係にあった。突然の訃報に驚き若さを惜しみ同時代に生きた戦友を失ったような悲しい気持ちになった。
管理職としての私のキャリアは彼が評価し、機会を与えてくれ、テストに応え、米国に送り込まれ、共に苦境を戦った気がする。彼はシリコンバレーの最先端ビジネスに人脈があり、新しいタイプの国際派リーダーとして期待されていたが、後年重大な決定を下す場面で悩み逡巡する側面も垣間見られた。
彼はあらゆる情報を集め咀嚼して合議で意思決定するスタイルをとったが、リスクに過敏で意思決定できず堂々巡りで部下が疲弊することもあった。インターネットが普及する直前でまだ情報を持っていること自体が権力の源泉であった頃のことで、急激に大きくなったビジネスを霧の中を全速力で走らなければならない怖さを感じていたのだろうと思う。
知るべきことを知らない部下には厳しかった。好き嫌いのはっきりした我が儘な暴君で部下からは恐れられていた。私も仕事上の意見が合わず罵倒されたことが何度もある。その時は彼の得意のユーモアにも顔が引きつり笑えなかった。しかし、仕事の意見は合わなくとも個人的には妙に良くしてもらった。
特に米国に赴任後は毎月のように様子を見に立ち寄り、幹部を呼んで会食をしてくれ私の顔を立ててくれた。読書家で、空港で買った本を機内で読み、その後私にくれた本が十数冊もある。いつも重いお土産を引きずって米国の田舎まで来てくれた。今から思い出しても心が熱くなる。
彼の部下になるのはとてもつらく厳しい経験だったが、お陰で多くの海外ビジネスマンと知り合い、付き合い方を見習うことが出来た。会議の後は彼らと世界の美味しい食事やワインを楽しむことも教えてくれた。スマートでアメリカナイズされているように見えたが、数年間海外に住んで米国風ビジネススタイルに慣れると、意外に彼は日本的で外人に弱いと感じた時は少し痛みを感じた。
忘れられないのは、98年頃だったと思うが彼が出張先のサクラメントのホテルのバーで暗い顔をして飲んでいるのを見かけた時だ。後からホテルに到着した私が、やけに小さく見える孤独な背中を見つけて彼の人間らしさを共感した。何度も罵倒されたのに何故か憎めないと思う人が多いのは多分彼のそういうところにあるのだろう。
これから私の年代はサヨナラの時代に入る。今までは1-2周り上、つまり父母や遥か上の上司の人達、とのお別れだった。訃報はそろそろより身近な人達との別れが待っている、覚悟せよというサインのようなものを感じた。なるべくなら順番を間違えないようにしたい。こうして書いている間にも色々なことが思い出されるが、とりあえず今日はここまで。心からご冥福をお祈りしたい。■