昨日偶然にNHKテレビBS4Kで新日本紀行「かやぶきの里」を見た。昭和56年の高知県の山間部にある梼原(ゆすはら)町のかやぶき屋根の葺き替えを描いたものだった。3年前に息子家族が四国愛媛県大洲市にある実家を訪ねてくれ、全員で四国カルストに行った時の事を思い出した。
息子が選んだコースは実家から山間部を東に走り、鹿野川ダムから梼原町を経由して四国カルスト高原に行った。途中高知県に入り梼原町で下車し有名な建築家が関わった洒落た街並みを散歩した。それが40年前にどうだったか、番組の題名「かやぶきの里」に惹かれて最後まで見た。
40年前の梼原の山間部にある家々は全てかやぶき屋根だった。30年毎に寿命になった屋根の葺き替えをしたそうで、撮影された大きい家は2年間「かや」を刈り保存し屋根葺き替えに備えた。奈良や大阪に行った息子さん達もこの時ばかりは里帰りし、集落の男性40人と併せ総がかりで(酒を飲みながら、さすが土佐の高知)3日間かけて作業したという。
終わると近隣からの子供達が家の前に集まり、葺きたての屋根から餅撒きをして集落全体で祝った。更に集落の女性陣が準備した昔ながらの料理と大量のお酒(日本酒40本!)で朝まで宴会をした。翌日は帰郷した息子たちが車で都会に帰っていった。正に集落の一大行事だったようだ。
それから40年後の梼原町には記念碑的な家屋を除き、全て瓦屋根でかやぶきの家はなかった。少子高齢化で残っているのは3家族だけ、最早かやぶきの家は人出不足で作れなくなったという。この最後のシーンを見て私の実家のある田舎の集落と同じだと思った。
番組が終わるまで一歩も動かず最後まで見てた。子供の頃の生活や父母と祖母に加えて近所のオジサンやオバサンを思い出した。寂しくなりつい涙ぐんでしまった。その時思い出した人達は殆ど皆亡くなった。私は後に引っ越してきた別姓の長老に次ぐ年配者になった。残っているのは後期高齢者の後家さん達だけ、年上の男達は全員亡くなるか出ていった。思い出を語り合うことも出来ない。
蛇足ながら、第2次世界大戦直後に四国の田舎で父母が結婚し私が生まれたこの集落は変わったところだった。大洲盆地の東側にある日本最小の大名新谷藩の城下町の、山裾にある10軒足らずの農家の集落だった。実家だけ大正年間に建てた瓦屋根で、残りの家は全てかやぶき家の集落だった。
400年前に遡ると先祖が土佐の長曾我部の家臣で伊予(愛媛県)に攻め入った。徳川幕府の世になり主君の長曾我部が滅亡し、先祖一族は留まり大洲藩に許されて農民として山間部に住み、江戸時代の間に平地に下り集落を築いた。この集落は同じ先祖の全戸同一姓で珍しがられた。
60年余り前に近所のかやぶき屋根の葺き替えを見た記憶がある。当時は集落総出の行事ではなく専門の職人の仕事だった。餅撒きもなかった。56年当時は既に私の子供が生まれており、その頃の集落は全て瓦屋根の家だったと思う。多分10-20年ずれて梼原に同じことが起こったのだろう。■
息子が選んだコースは実家から山間部を東に走り、鹿野川ダムから梼原町を経由して四国カルスト高原に行った。途中高知県に入り梼原町で下車し有名な建築家が関わった洒落た街並みを散歩した。それが40年前にどうだったか、番組の題名「かやぶきの里」に惹かれて最後まで見た。
40年前の梼原の山間部にある家々は全てかやぶき屋根だった。30年毎に寿命になった屋根の葺き替えをしたそうで、撮影された大きい家は2年間「かや」を刈り保存し屋根葺き替えに備えた。奈良や大阪に行った息子さん達もこの時ばかりは里帰りし、集落の男性40人と併せ総がかりで(酒を飲みながら、さすが土佐の高知)3日間かけて作業したという。
終わると近隣からの子供達が家の前に集まり、葺きたての屋根から餅撒きをして集落全体で祝った。更に集落の女性陣が準備した昔ながらの料理と大量のお酒(日本酒40本!)で朝まで宴会をした。翌日は帰郷した息子たちが車で都会に帰っていった。正に集落の一大行事だったようだ。
それから40年後の梼原町には記念碑的な家屋を除き、全て瓦屋根でかやぶきの家はなかった。少子高齢化で残っているのは3家族だけ、最早かやぶきの家は人出不足で作れなくなったという。この最後のシーンを見て私の実家のある田舎の集落と同じだと思った。
番組が終わるまで一歩も動かず最後まで見てた。子供の頃の生活や父母と祖母に加えて近所のオジサンやオバサンを思い出した。寂しくなりつい涙ぐんでしまった。その時思い出した人達は殆ど皆亡くなった。私は後に引っ越してきた別姓の長老に次ぐ年配者になった。残っているのは後期高齢者の後家さん達だけ、年上の男達は全員亡くなるか出ていった。思い出を語り合うことも出来ない。
蛇足ながら、第2次世界大戦直後に四国の田舎で父母が結婚し私が生まれたこの集落は変わったところだった。大洲盆地の東側にある日本最小の大名新谷藩の城下町の、山裾にある10軒足らずの農家の集落だった。実家だけ大正年間に建てた瓦屋根で、残りの家は全てかやぶき家の集落だった。
400年前に遡ると先祖が土佐の長曾我部の家臣で伊予(愛媛県)に攻め入った。徳川幕府の世になり主君の長曾我部が滅亡し、先祖一族は留まり大洲藩に許されて農民として山間部に住み、江戸時代の間に平地に下り集落を築いた。この集落は同じ先祖の全戸同一姓で珍しがられた。
60年余り前に近所のかやぶき屋根の葺き替えを見た記憶がある。当時は集落総出の行事ではなく専門の職人の仕事だった。餅撒きもなかった。56年当時は既に私の子供が生まれており、その頃の集落は全て瓦屋根の家だったと思う。多分10-20年ずれて梼原に同じことが起こったのだろう。■