かぶれの世界(新)

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

拡大解釈・国会事故調(速報)

2012-07-06 17:29:16 | 国際・政治

国会の東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)は昨日最終報告書を発表した。報告書の概要は「事故は自然災害ではなく明らかに人災」と断定、東電と規制当局の先送りが深刻な事故を招いたとし、地震で原発が損傷した可能性、官邸・規制当局・東電の危機管理が機能しなかった、官邸の介入が現場を混乱させたが東電に大元の原因がある、と指摘した。

マスコミ的にがっかりした最終報告?

報告書を読んだ訳ではないがテレビニュース及び新聞記事をざっと見の印象では、まずまず良くできた報告だったと私は思う。事前に予想された事故の責任を厳しく追及する内容ではなく、システムとか制度の問題に重点を置いた内容になっていたのは意外と思われたようだ。というのは事前情報でそういったものになると予測されていたからだ。

普段から責任追及に熱心なマスコミはちょっと失望したのではないかと思う。今朝のニュースバラエティ番組はターゲットを失い何時もより静かだった。以下に今朝の朝日新聞を拾い読みすると、「菅氏の責任を厳しく追及した中間報告より、清水氏(当時東電社長)の責任に重点を移した・・・責任の所在を明らかにすることが期待されていた・・・明確になったとは言えない・・・」と指摘している。誤解を恐れずに言うと菅氏の責任を明確にしなかったのが少し残念そうに聞こえる。

朝日はそれだけで終らず、委員の選考が自民党主導でなされたと続けている。黒川委員長は安倍福田内閣の特別顧問、野村委員は安倍政権で年金記録問題の検証役を務めた。選考に当った民主党側は菅氏と対立関係にあった鳩山グループ(松野・川内議員)だったという。黒川委員長は事故調を政治ショー化しないといったが、中間見解で示した菅政権批判がトーンダウンし、東電に厳しい報告となったと伝えている。私にはこの結論の方が理解できるのだが。

「人災」の指摘に胸に手を当ててみよう

最終報告書の最大のハイライトは「事故が東電と経済産業省原子力安全・保安院など規制当局の不作為による安全対策の先送りが深刻な事態を招いた」という指摘だ。つまり事故の根源的原因が3.11の地震発生以前に求められた(日本経済新聞)ことだ。「何回も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局と東電経営陣が安全対策を取らないまま」だったと判断したという。

だとすれば、事故は過去30年間に渡って原子力行政を担当した自民党及び公明党の政権下で育まれた原因による。あれだけ菅首相の責任を追及した自公両党はこの指摘に対し何と答えるのか、是非聞いて見たい。最終報告書では深入りしなかったが、この指摘は政権政党・規制当局・電力会社に原発立地の自治体の所謂「原子力ムラ」(既得権益)の存在と深く関っている。

菅首相に対する当時のバッシングが、3.11以前の原因を隠蔽する目的に利用された印象があった。今回のレポートを見てやはりそうかと思った。その点では30年もこれを見逃していたマスコミと、既得権益の一方の受益者である地方自治体にも是非胸に手を当ててほしいと思う。被害者の立場になっても既得権益の受益者であった事実からは逃れられない。知らなかったのなら、首長でも議員にでも聞けば良い。その反省なしに同情を買う姿は美しいとは言えない。

規制の虜

最終報告書で目を引いた言葉が「規制の虜」だ。規制の虜は始めて聞く言葉だが、規制される側が長年にわたり専門知識を蓄積し、規制する側が教わる立場に転落し規制される側の言いなりになる状況は、強い製造現場に振り回される管理部門の関係など類似する状況が間々ある。だが、その解決法は言うほど簡単ではない。欧米のように政府・企業・学界間の人材の流動性を高めて専門技術を高めること以外に解が無い様に思うがどうだろうか。

訴訟リスク

もう一つの目新しい言葉が、東電と規制当局が訴訟を恐れて新たな安全対策を先送りにしたという、「訴訟リスク」だ。こういう考えがあることすら私は知らなかった。つまり、電力会社が新たに耐震強化をするといえば、今まで安全だといってきたのは嘘だったのかと非難され訴訟に発展する懸念が先送りの原因だという。規制当局も同じ利害関係にあるのは明らかだ。

ここからは私の推測だが、このような「訴訟リスク発想」は我国の原発賛否が常に二項対決になり建設的な議論に発展しなかったことが深く関係しているように感じる。原発推進側は絶対安全といわない限り建設が進まなかった、これが訴訟リスクの落とし穴に落ちた原因になったように感じる。過去も今も反原発運動にはそのような妥協を許さない原理主義的な臭いがプンプンする。

このようなテーマをどう捉えて報じるか、メディアの責任も大きかったように私は感じる。少なくとも報じる側は、「レッサーイーブル」的アプローチ(最近投稿した記事を参照下さい)が出来なければ報道する資格がない位のつもりでやってほしい。「訴訟リスク」責任の一端を感じて欲しい。もう一度ジャーナリストの訓練を受けるべきだ。

孤高の倉本聡氏

昨日深夜のNTVニュースに脚本家の倉本総氏が出演し、ガレキ受入を拒否する自治体住民問題、ガレキを被災地の防波堤に活用する運動などについてインタビューを受けていた。国民の間で発生する受益と負担が逆転した時、私達はどう振舞うべきか深く考えさせられた。

倉本氏は原発が生む電気で豊かな生活か、原発ゼロで安全な生活か、どちらをとるにしても今の国民に覚悟が無いと嘆いた。私も全面的に賛成したい、覚悟が感じられないのだ。ついでに私の判断基準を紹介すると、自分の判断が齎す覚悟はするが、それは美しいかどうかで決めたいと思う。■

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小沢なるものの終焉か | トップ | AKBと幼児願望 »

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事