かぶれの世界(新)

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暴力(団)許容国

2007-05-21 11:37:34 | 社会・経済

知県長久手町の発砲立てこもり事件は又しても元暴力団員の仕業だった。その後の論調を見ると銃器取り締まりと県警当局の対応に焦点が当たり、暴力団の存在そのものについての議論が少ないことに違和感がある。

バージニア工科大学で起こった乱射事件で誰にでも銃が手に入る社会が米国で最大の問題にならないように、日本では何故か暴力団の起す事件に甘い風潮がある。メディアも世論も盛り上がらない。両方とも先進世界から見ると頭をひねって理解できない特殊な国と思われている。

全国には不法な銃器が5万丁あり、暴力団員一人に1丁あるという。日本は銃を生産していないので全て海外で作られ密輸されたものであるという。従って銃が日本に入る前に抑える水際作戦の強化が重要であるという。

しかし、その銃を手にすることが明々白々な暴力団は町の一等地に堂々と居を構えている。当局は殺人とか大事件にならない限り目を瞑っているので、付近の住民は異論を唱えず首をすくめて近寄らないようにしている。結果として暴力団員が全国に5万もいるという。

これは世界標準から言うと全く異常だ。米国のような銃社会でも所謂組織暴力団はすぐに当局が潰し、日本とは一桁少ない数千が地下にもぐっている程度という。合法的な手段で世を渡っていく経済ヤクザは別にして、明らかに恐怖をカンバンに活動している暴力団の存在を表立って許しているのは日本だけではないだろうか。

今朝方、米国アイダホ州の小さな町の教会と裁判所で銃乱射事件があり3人が亡くなったという。イラク戦争より遥かに多い銃の犠牲者が続いても本当に懲りてない。従来と同様に銃規制の動きは期待できない。

それは正に米国の文化に根ざしているからだ。そして暴力団は日本の文化に根ざしている。こういう言い方は皮肉っぽくて嫌なのだがとても「美しい国」と暴力団は共存するとは思えない。教育を語る時、悪いと分かって放置されているものをもう一度見直したらどうだろうか。■

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