かぶれの世界(新)

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私は誰でしょう?

2024-05-15 16:33:05 | 日記・エッセイ・コラム
昨日コンビニで青色申告会の会費を振り込んで、正式に事業所得者となった。色々な場面で記入が求められる職業欄に無職から不動産業と記入することになる。田舎で先祖が製材所に貯木場として貸してた田んぼを私が相続し、今年の確定申告時に青色申告に変更するよう勧められたからだ。貯木場と言っても年数十万円の地代だけ、孫の教育費の一部として利用して来た。

似た話が他にもある。20年以上前に退職して老いた母をケアする為毎年帰郷するようになり、母が面倒見ていた帳簿上は私の相続資産を徐々に私が直接対応するようになった。田畑や山林も相続していた私は、既に農協組合員と水利組合員であり、森林組合員でもあった。更には自治会の長老でもあった。お寺の檀家かつ神社も我が家の名前があり何かあると顔を出した。

実態は何も変わらないが、見かけ上は後期高齢者になって正式に不動産業の事業主になった。税務署で毎年の確定申告が少し楽になると聞いたのだが果たしてどうなるか来年2月の次回申告時に分かる。比べると先祖が繋いで来た田舎との関わりの方が圧倒的に多い。土砂崩れで立て直した集会所の資金も分担する。田舎に住みたい若者が減っていくのはやむを得ないかもしれない。

「私は誰でしょう?」というのが率直な感想だ。孫の教育費を地代で賄うことでせめてもの先祖からの繋がりを子孫に残してやれる。それにしてもいかにも細い紐で繋がっている。私が実家に住んだのは15歳までの子供の時だけだ。それでも後期高齢者まで生き残ったから今ここにいる。一方、青色申告会に加入してやっと東京の繋がりもできたという感じだ。■
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私的・円安進行を待つ事情

2024-05-14 20:54:51 | 社会・経済
最近の円安進行は悪者のように報じられている。私が会社勤めをしていた頃は円安は救いの神、円高は悪魔だった。円高の進行はかつて受験を控える子供と家内を置いたまま、私一人で海外赴任して仕事をする羽目になった。逆に、円安と聞けば無意識にホッとするものがある。

今年になり正月明けると一旦ドル141円台に円高が進んだが、2月半ばには一気に150円台に、4月後半に更に円安が進み一時160円台になり、マスコミは連日円高で大騒ぎした。私が会社勤めを始めた頃はドル360円に固定された時代で、70年代末初めて米国出張した時ホテル代は16ドルだった。会社の経理からトラベラーズチェックを渡され、現地で現金に両替した。

それが、240円、160円になり、80年代後半の高度経済成長時代は70円台にまで上昇し驚いた記憶がある。私の職場では海外向け商品を開発生産し輸出を担当していたが、この為替レートでは事業が成り立たないと深刻な事態になった。当時、私は平の技術者で経営云々より開発した製品が高性能でキチンと動くことが責任だった。

競争会社はどこも円高対応で海外子会社で生産するか、内外の生産会社にOEM生産委託するかの選択を強いられた。私の勤める会社は米国東海岸の販売子会社の下に、西海岸に工場を作り生産する決定をし、私は工場責任者として赴任するよう指示された。国内の生産責任者は英語を話せず家庭の事情も考慮して、英語が使える技術者の私が生産に素人なのに米国に派遣された。

そんな経験からいまだに私にとって円安は救いだ、単純に天邪鬼だからではない。今年の為替市場の円安大騒ぎは当時大騒ぎした円高とは全く逆だが、私が米国工場に突然赴任することになった時のことを思い出した。今回だって、トヨタ自動車をはじめ多くの企業は円安の追い風を受けて巨額の利益を記録した。マスコミは海外から購入する食料等の消費財が極端に高値になり、物価高を嘆く消費者の声ばかり報じた。マスコミは都合が悪いことばかり集中的に報じると感じる。

田舎で一人暮らしする私はなるべく経済的な買い物をし、家計が苦しいとは思わない生活をしてる。顔見知りのスーパーのレジの女性と情報交換すると、彼女は時期や種類によって野菜に限らず乳製品や卵など食品の値段が高騰したと明言した。だが、同時によく調べると安定した価格の食料品もある。どう工夫しながら生活していくか、やり方は色々あると彼女は言いたいようだ。

実は私には私の事情がある。先に投稿したように、円安で海外出向したおかげでドルベースの金融資産がある。主力のドル以外にもインドやブラジルベースの資産投資があり、儲けることもあれば損することもある。一方的に円安が進んで損するばかりではなく、儲けたり損したりする投資が私を救ってくれている。それが私が海外で働いた経験から生まれた知恵だと思う。今だからこそ、私は円安進行を待つ事情がある。円安も悪くはない。■
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田舎暮らし雑感2024(6)

2024-05-12 11:40:09 | 日記・エッセイ・コラム
この1週間は日中の寒暖差が大きくなり、その調整に苦労した。一方でテレビが流す天気予報が大袈裟で私が反応した為かもしれない。何につけこの頃のマスコミの報道の仕方が大袈裟すぎる気がする。だが、気温の変化については老化した私の調整能力が劣化したせいもあると思う。

気温の変化に体が敏感に対応し、就寝中に布団の選択をころころ変えてしまう。就寝時から温度が若干上下しただけで目が覚め毛布を剥がしたり掛けたする。更には頻尿で目が覚めてトイレに行く。情けないけど、まさに後期高齢者の生活だと認めざるを得ない。

帰郷後は当然ながら100%自分のペースで生活をしている。午前中は起床後血圧測定し、テレビの朝ドラとニュースを見ながら朝食し、書斎に上がってパソコンのメールをチェック、体調と市場+家計を複合して記録する。そのあと新聞を読み時間があればブログ記事を作成する。

私は午前中の私はルーチンワークのように時間を決めてやることを粛々と進める。テレビか新聞が薦めるのを見て、今年から午前中は集中してデスクワークをすることにした。午後はその時その時の必要に応じて何でもやる。MLB中継を見たりやりすぎ運動をする。

家の中の臭みは改善したと思う。カメムシの残した臭いに慣れたのかもしれないが、コーヒーの出し殻を部屋のあちこちに臭い消し用に置いた効果かもしれない。家内に勧められたセブンイレブンのコーヒー出し殻もある。セブンイレブンのモカは何時焙煎し挽いたのかわからない。香りも味もブラジルチョコより薄いが、不味いと言うほどではなく飲み続けている。

帰郷後20日間を振り返ると、私は実家の庭の手入れもお墓掃除も殆どやってない。帰郷翌日に生活に最低限の台所と居間書斎寝室だけ掃除し、庭の背の高くて目立つ雑草を引っこ抜いただけだ。昨年は偽痛風で入院して大変だったが、今年は医者に通うこともなく十分時間がある。

では何をやっているか、殆どは「やりすぎ運動」に時間を使っている。実は昨日これまで無理だと思っていた私的には長い距離のジョギングをやった。走れるところまで走り、歩き、また走る、の繰り返し。五郎橋を折り返し肱川両岸を必死で走った。

18千歩13キロの距離で、その内5キロ弱は走り、トータル2時間余りかかった。2年前までは楽に走れた距離だった。途中で火事のサイレンがけたたましく鳴り何台か消防車が走るのを見て驚かされた。私の復活を祝ってくれたかもと走りながら思った。■
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認知症のやりすぎ男が行く(結果編1)

2024-05-11 21:36:01 | 健康・病気
私のやりすぎが翌日の血圧測定に反映された。以前からハードな運動をすると翌日血圧が正常化する傾向があった。それが私がやりすぎと言われるほどサイクリング等にハマる理由の一つだった、勿論若い頃から野球とかバドミントンなどのスポーツが大好きだったのだが。

加えて高齢者になって高血圧の治療を受けるようになって、ますます運動をする強い動機付けになった。途中でギブアップするような平野の激坂を自転車で走ったと投稿したが、翌日の血圧が若干下がった。今回もっと明確に素人判断ながら効果的な高血圧対策を見つけた。

それは、先週強い雨の中をリュックで重い荷物を背負って買い物から帰った時だ。多分10キロ以上は重負荷を背負って歩いたと思う。翌朝測定した血圧は驚くなかれ標準的な120-75だった。これは一時的な血圧であり、特別に健康になった前兆ではなかったかもしれないが。

だが、そんなことを言えば薬を飲んだら血圧が下がるのと違いはないように思う。いずれにしろやり過ぎた結果だったと思う。必ずしもハードな運動をした結果ではなかったと思う。農業にしろ家事にしろ体(心臓)に適切な負荷をかければ血圧が下がりそうだ。■
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認知症のやりすぎ男が行く(実践編)

2024-05-10 21:21:32 | 日記・エッセイ・コラム
二日前に自転車で大洲市の最西端にある平野地区に行った。平野といっても殆どの市民は町の外れの集落程度にしか思わないだろうが、実は後方に広い山々を控えこの地で最大の出石寺に続く道がある。早期退職後に長浜の手前の川沿いの出石(いづし)駅から、母が買ってくれたマウンテンバイクで上った経験がある。だが、昨秋そのルートをロードバイクで挑戦して途中退却した。

二日前の午後4時頃に例によって突然思い付いて、自転車で平野から出石寺に行けるところまで行ってみようと再挑戦した。以前平野から挑戦した時は山腹の集落の途中で道路工事中で引き返した。引き返した地点の先に急坂が控えてたのでその時は都合良く諦めた。今回は工事が終わり障害がなかった。だが、必死で集落沿いの急坂を乗り越えたところで5時を過ぎていた。

これ以上は行くも帰るも危険な薄暗い山道を走ることになりそうだった。それにしても集落の最後の立派な家を通り過ぎた所から見た谷間に続く遠景はとても美しかった。次の機会にもっと時間に余裕をもって再挑戦したいと思った。帰りは急坂を下ったはずなのに家に戻ると6時10分を過ぎていた。これが二日前の無計画なサイクリングの結末だ。楽しかった。

そして、昨日はそれなりに覚悟してジョギングをトライした。昨年4月に退院して以来山裾歩きやサイクリングで徐々に脚力を回復させてきた。上記のようについついやりすぎたこともあった。だが、走るのだけは無理だと自ら諦めていた。たった10m走っても足が動かなくなった。

二日前の激坂挑戦は成功しなかったものの、挑戦を続けてやっていけばいつか脚力を回復するかもしれないと元気づけられた。ギブアップしたのは時間切れで、まだ続けられると感じたからだ。そして、昨日は一応ショートパンツで走れる格好をして腹をくくって家を出た。

夕方4時過ぎに表通りまで歩き矢落川沿いの散歩道から走り始めた。始めると想定通り直ぐに足が動かなくなった。特別足が痛くなった訳ではないのだが、何しろ足が動かないのだ。今まではそこでギブアップしていたが、昨日はそれでも走り続けた。多分、老人が足をもつれさせてよれよれ歩いているように見えたのではないだろうか。しかし、どう見えようと構わず走った。

長浜からの国道とすれ違う橋のたもとで少し休んだが走り続けた。3キロくらいよれよれ走りして足が続かなくなり、そのあとは歩いて帰宅した。多分、走りと歩きで使う筋肉に違いがあるのだろう。ともあれ、見るからに恥ずかしい走り方だったが続けて走った。

昨日はジョギング再開のきっかけを作れたと思う。これからは得意の「やりすぎ」を続けたいと思う、まだ不安だけど。1年前に退院後10日目にブログ記事「痛みが良くなり始めると体を動かしたくなりやり過ぎてしまう」と投稿した。先日、友人に「やりすぎ男」だと言い放されたが、私は元々そういう男だ。その結果ダメならそれでもいい。■
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