画像は、原発事故があった当時、2号機のことで、市役所からのお知らせ。後日知ったことだが、当時、広報車から聞いたという人もいた。広報車が、走っていたが、なんのことだか、わからなかったという人もいた。結果的には、放射性物質のことは、ほとんど影響はなかった。
その日は、午前中、大津波が、床上20センチ浸水をした取引先を、見舞いに行った。昼近く前、給水場所、ゴミ収集のお知らせなどをコピーして、隣組に配布して歩いていた。午後は、トイレ用の水を、少し離れたところにある古井戸から、汲み上げてきた。近所で、水が不足している家にも、あげた。知り合いに、水はと聞いたが、間に合っていると。もう一軒は、避難をしてしまったという。原発のことが、不安になってきていた。テレビでは、原子炉を水で冷やし続けるようにと、解説をしていた。後日知ったことだが、原発2号機が損傷をして、大量の放射性物質が拡散し、首都圏も避難をせざるを得なくなる事態が想定されたと。放射性物質のことは、「知らぬが仏」だった。実態を知らずに、のほほんとしていた。日常生活の水も、原発事故対応の水も、「水の恩ばかりは、報われぬ」というように、水の恩恵は、計り知れないものだなぁと、思っている。