年末年始の、「ながら見」が飽きて、数年ぶりに、VHSのビデオテープを見た。筆文字の迫力に、圧倒された。白黒の映画の時代に、焼却場の煙突から、桃色の煙が上がったのは、びっくりした。筆文字以上に、会社常務と、誘拐犯と、わたりあう警察の迫力の凄さにも、圧倒された。別の事だが、VHSのビデオテープの再生が出来なくなるようだ。DVDに、写し替えなければと考えている。
年末年始は、こたつにもぐりこんで、テレビを「ながら見」していた。「生きる」も、居眠りしながらだった。生きるということは、悲壮感がする。立場は違っても、生きることは、日常生活は、平穏で過ごせる。体に異変が生じると、また、経済的の事情でも、物理的な事情でも、普段通りのことが出来なくなると、生きるという、悲壮感になるのかも。「生き」は、生きる、生きたい、生きたし、生きたかろ、生きたけれ、生きたかったなと゛、様々な状況の中の事を、表しすのだろう。年を重ねると、いろいろと、考えて、その時の場で、対処しなければならないと、覚悟はしている。
今日は、門松を送った。玄関先とばあちゃんの部屋に、供えた重ね餅は、もうちょっと、供えておく。ヘルパーさんや看護師さんが来るので、「今年もよろしくと」書き添えておく。八月の満百四歳の誕生日に向かって、多くの方々に、世話になる。今日も、普段の通りに、元気でいる。別のことだが、今日は、七草粥を食べる日という。旧暦の時代は、七日正月の頃は、野草が採れたのだろう。一月七日は、五節供の一つという。ものの本をぺらぺらめくってみたら、占学で、「人勝節」とか。小林弦彦著「旧暦は、暮らしの羅針盤」から引用すると、「奇数は、中国伝来の易学でいう”陽の数”である」と。奇数が重なった日が、節供という。三月の雛祭り、五月の端午の節供、七月の七夕、九月の菊の節句と呼ばれるとある。寒さは、旧の正月の、二月の十六日頃までになる。まだまだ、寒さは、続く。余談だが、六曜星では、旧暦の一月一日と、七月の一日は、”先勝”と、定められている。