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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記51 浅井長政の最期

2022年11月02日 18時46分12秒 | 貧乏太閤記
「ははは、ようもゆうたのう、叡山で女子供を数万も虐殺しながら、まあ良い、しばし考えさせてくれ、そこで待て、そなたが屍となって戻るかどうか考える」
「待ちまする、お気遣いご無用」
小半時過ぎた、長政が再び顔を出した
「そなたの話した通りである、戦場に女子供は無用じゃ、今から支度をして城外に出すゆえしばし待て」
「ははあ、ありがたき幸せ、われらも準備があります故、今からわが陣に向けて空砲を3発放ちます故、驚かれぬよう。
供の足軽に空砲を撃たせると、城内からも答えるように銃声が一発鳴り響いた秀吉は、それを聞くとニンマリとした
陣内から籠が4丁上ってきた、同時に酒肴を担いだ足軽が続々と続いてきた。
城門の前に、それらを置き、兵はまた陣へと戻っていき、秀吉と4丁の籠と担ぎ手、警護の武士8名だけを残した
「われらは明日明け方より総攻撃いたす故、今宵は戦闘は致しませぬ、浅井の皆様にも今宵はこの酒肴を最後の晩餐と思い、楽しんでいただきたい
嘘は申しませぬ、酒肴に毒なども入れてはありませぬ、命のやり取りは正々堂々、刀と弓矢にて」そう言って、秀吉は自ら酒を飲み、肴を食べて見せた。
「よいよい、よおわかった、置いてゆくがよい、木下秀吉か覚えておこう、織田殿は良い家臣を持たれた」

3人の姫と市が城門から出て籠に乗った、嫁入りの時織田家から付けられた侍、侍女たちも付き従う、望楼で見送っていた長政も城内に消えた。
長女茶々姫は数え5歳、初姫は4歳、末子の江姫はまだ生まれて間もないので乳母に抱かれて籠に乗った、長男万福丸は城に残った
市は何度も城を振り返った、だがその眼には涙はなかった、決意が固まったのであろう。わずか6年の結婚生活であった。

「小谷城本丸は長政と久政の二つの丸が左右に分かれている、あの廓の真ん中を占領すれば個別に攻撃できる、ゆえに大勢は正面から力攻めし、弓鉄砲を撃ち駆けよ、そのすきに裏手から蜂須賀、前野、堀尾、小一郎の手のもので攻め込め、そして大手門を開けよ」
そして激しい攻防の末、計画通り奇襲は成功して大手門が開いた、本丸を分断された浅井勢はひとたまりもなかった、まずは隠居の久政が自害して落ちた、
なおも長政の丸は抵抗を激しく続けた、火の手が上がり、ついに長政も自害して果てた。
浅井家の小谷城も三代にして滅びた。

織田家は北近江、越前、若狭の3国を得たのである。
一番の功労者秀吉に小谷城17万石を与え、近江の土豪たちを与力に付けた、越前は国人である前波と朝倉一族に任せたことは前述のとおり、加賀一揆と隣り合わせの不安定な土地は任せておいた方が良い、様子を見て地固めが出来たら家臣に与えるつもりなのだ。

秀吉は信長に「不便な山城の小谷では、いざというとき間に合いませぬ故、湖畔の今浜に変えていただきたいのですが」と申し出た
並みの武将がこのような具申を信長にすればたちまち雲行きが変わり、下手をすれば高野山に蟄居となるかもしれない
しかし秀吉にはなぜか甘い信長だ、快く受け入れられた、何といっても市姫と3人の姫を命がけで救い出したのが大きかったのだろう
その上21万石に加増された。
秀吉は喜び、「今浜」を信長の一字をもらい受けて「長浜」と変えた
そして自分の姓「木下」も老臣丹羽長秀、柴田勝家から一字ずつもらい「羽柴」と変えた、信長より筑前守もいただき、「羽柴筑前守秀吉(はしばちくぜんのかみひでよし)」となった。
喜んだ秀吉は小六に1万石、半兵衛と前野と小一郎に5000石、堀尾に3000石を分け与えた、姉のともの夫、木下弥助を取り立て士分にして、ねねの妹を浅野家に嫁がせ、浅野にも高禄を与えた。(赤穂浪士の浅野家の祖先である)
母ナカと妻ねねも岐阜から長浜城に呼び寄せて侍女をつけたので、ナカは「夢のようじゃと大はしゃぎした」
問題は京に置いたままの「ふじ」と子の若松丸であった。 この件を知るものは三蔵(三右衛門)だけである、三蔵も今や500石の大身になっている。
もはや隠し通すことはできない、21万石の大名ともなれば京の一軒家に忍んでいくなどできない。
そこで弟の小一郎についに打ち明けた
「実はのう・・・」さすがの秀吉でも初めての妾と子のことは言葉が詰まって出てこない。
「兄様どうされた、なにか悩みでもあるのか」
「う~ん、うむ・・・そのなあ・・」
「どうした、おかしいぞ、兄様らしゅうないのう」
「それが、実は、ええい言ってしまおう、実は妾がおるのじゃ」
「ほほう、良いではないか、大名なら当たり前のことじゃ、お屋形様など10人は下るまい」
「それがのう・・・」「うん?」
「それがのう、子もおるのじゃ」「なんじゃと、子がおるか、子ができるのか兄様は」
「できてしもうた、子種があったのじゃ」
「いくつじゃ、男か女か」
「三つかのう、四つかのお、男じゃ、名前は若松丸とした」
「儂に会わせろ、どこにおる」「今は都におる、その前にお屋形様に報告せにゃなるまい、後のちではへそを曲げられては大変じゃ、ねねとずっと子が出来なば、跡取りになるかもしれぬ子でもあるからの、お屋形様には知らせておかねばならぬ」「うん、それが良い」

秀吉は破格の扱いのお礼を兼ねて、信長に報告と相談を恐る恐る切り出した。
「実は子がおりまして」
「なんと申した」
「子が出来ました」「うん?ねねにそのような兆しがあるとは聞いておらぬ」
「実は、ねねの子ではありませぬ」「そなた・・・まさか」
「へへ~申し訳ござりませぬ、4年前にちょっとありまして、それがなにで子が出来ました」
「なんと! めでたいではないか、よおやった」
「ところが、ねねには言ってありませぬので」「ふむ」
「どうすればよいか?」「ははは、おまえにも困ることがあるのか」
「そこで、ご相談をば」「あいわかった、ねねが納得して城に迎え入れればよいのであろう」
「いかにも、その通りでございます、波風立たぬように」
「どんな女で、どんな経緯なのか話してみよ」
秀吉は駿府の松下家のことからすべて信長に語った
「そうか、そうであったか、ではふじという女も卑しき身分ではなく親は今川の武家であったのだな」「はい」
「それならば、まずは松下嘉兵衛を探せ、おぬしと同年なら戦死しない限りはどこぞで生きているであろう、元は城持ちの家系ならば役に立つ」



日常に溶け込んだコロナ

2022年11月02日 08時54分04秒 |  コロナ騒動
もう友達などに会っても「コロナ感染」という言葉は出なくなってきた
「コロナ」などと言うと、「まだ?」とあざけられる気がするから私も言わない
ネット上の「コロナ」については今は感染者数や副反応よりも、ワクチン接種の有効性と危険性の方に変わってきた、もはや何人感染したかなど気にする人はいない
初めの頃は、どこどこの店で感染者が出て営業停止、しばらくあの店にはいかない、とか東京は感染者が多いから、東京にはいかない方が良い
映画館や美容院やパチンコ店も密だから危険だ」などという話ばかりだった

ハロウィンは感染防止策に積極的な韓国、日本でも繁華街はたいへんな人出だった、京都、浅草なども観光客それも外国人で賑わいが戻ってきた
スポーツ観戦も2万3万と入るようになったし、飲食店は列をなして待つ人がコロナが始まる前より多いくらいだ

だが面白いのは、こんな田舎町で人が前後に全くいなくてもマスクをして歩いている人は10人中9人
車を一人で運転している人を見てもだいたい3分の2はマスクをして運転している
それなのに食堂ではマスクを外して友達と話している、なんかこれはルールではなく、日常の姿で定着してしまった感がある
実際、テレビインタビューでは若者でもマスクしない派と感染が下火になってもマスクしている派では、している方が多い
感染防止と言うより、安心感を得られる気分が定着したのではないか
欧米人に比べると日中韓の東アジア人は正反対で面白い
かくいう私は接種は3回終わって、4回目の接種券が来たがしばらく様子見だ
ともだちの突然脳梗塞死が気になって仕方ない、そして打っても打っても一向に感染者が減らないのはどういうわけなのか?だ
とりあえず二度感染しているインフルエンザワクチンを打ってくるつもり、これは年一回、コロナワクチンも年一回で有効性が出るなら打っても良いと思っている。