「此度の武田との戦は肝をつぶしたのう、武田の騎馬隊の恐ろしさを見せつけられたぞ、勝頼を討ち漏らしたのは残念だが、もう遠江には攻め込めまい、
大将首をあれだけ置いて行ったのだからのう、しかも山県昌景、馬場信春、内藤昌豊などは天下一の大将だ、それを倒された武田はもはや終わったも同然じゃ、
これから美濃の秋山郷や高天神城を攻めて見れば武田の力も測れるというものよ」
久しぶりに飲めない酒を秀吉は飲んで良い気分で小一郎と話している。
「これで、しばらく戦は休みかのう、ずっと戦が続いたからのう兄者」
「そうはいくまい、まだ越前の坊主退治が残っておるわ、
お屋形様はどうも坊主が嫌いなようじゃ、その点南蛮坊主には優しい、儂も一度は南蛮坊主に会って、奴らの正体を見たいと思っておるのじゃ」
日本は飛鳥時代から現在の朝鮮半島や中国との関係は深く、交易したり、仏教僧の交換や留学、時には朝鮮半島への出兵もおこなった。
この信長の時代より200年ほど前の足利3代将軍、金閣寺建立で有名な足利義満は当時の大陸国家「明国」との交易をおこなった、
それは明国皇帝の臣下的立場を受け入れた朝貢(ちょうこう)外交であったが、義満は一向に気にせず莫大な貿易利益を得る現実を優先した。
そんな風に東アジアとのつながりは深かったが欧州とのつながりはなかった。
しかし欧州ではすでにアジアに向けて世界征服を企むスペインはインドに向けて進出した、
そんな中、スペイン貴族のフランシスコ.ザビエルは仲間とイエズス会を作り、自らインド、中国へ渡り、1549年に薩摩(鹿児島県)に上陸した。
そしてキリスト教布教を島津氏に願い出たが、純日本人的である薩摩人は仏教を信じ、キリスト教を排他する様子なのであきらめて
肥前(佐賀県)平戸や周防(山口県)などで紆余曲折を重ねながらも布教の許しを得て教会を建てた、
豊後(大分県)の大友氏をはじめ領主や土豪たちまでもが信者となり、長崎の大村氏などは日本古来の神社仏閣を破壊するほどキリスト教に傾倒した。
これが僅か20年ばかり前のことで、すでに九州、中国では南蛮人との交易が始まっていた。
1543年にも薩摩の種子島(たねがしま)に漂着した欧州人から鉄砲が伝来して「種子島」と呼ばれていた
先見的貿易商人の町、堺にもすでにフィリピン、ルソンを拠点とする南蛮商人から珍しい輸入品が入っていた。
京に進出して信長は初めてヨーロッパ人に出会った、
そして先見性を持つ信長は堺の重要性を知ると、直ちにそこの代官の地位を交易に無知な足利義昭将軍から得たのであった。
スペイン人は当時ヨーロッパで最強の海軍を持ち、インドのゴア、中国の広東、マカオ、タイやルソン島(フィリピン)、インドネシアを拠点にして黄金の国ジャパンへの足掛かりにした。
もちろん日本が軍事的に弱ければたちまち植民地化するつもりだったが、日本は戦国時代の真っ盛りで数万人単位で各地で戦争をしている世界でも最も危険な国だったのだ、しかもこの国の人間は一般庶民でさえ文化的で文字の読み書きができる者も少なくなかった、思ったよりも文明人だったのだ
植民地化どころか下手をすれば皆殺しに会う恐れさえあった。
それで方針を貿易に切り替え、地ならしのためイエズス会が上陸して布教をして日本人を洗脳する、
同時にその土地を足掛かりに領主に取り入って貿易を開始する、戦国時代であるから鉄砲は一番の輸出品になった。
九州や中国、近畿は鉄砲の最先端国だったが、京で信長が南蛮人を重用するようになると信長は火薬原料と弾丸の独占を始めた、
近江以北は鉄砲後進地域になった
鉄砲はどこでも、それなりに手に入るし、器用な日本人は鍛冶屋にそれを作らせることもできた、
しかし火薬は国内になく輸入に頼らざるを得ない、九州や大坂から遠いほど火薬は少ししか手に入らない
だから屈強な武田、上杉、北条、あるいは浅井、朝倉にも火薬はわずかしか行き渡らず、鉄砲合戦では織田軍に圧倒的に負けたのである。
弾丸も織田は鉛を輸入して作った、鉛は加工しやすいのですぐに大量に作れる、
しかし武田軍には鉛が手に入らないので銅や鉄の弾丸を作った、これは加工しにくいので大きさもまちまち、量産もできず、重いから飛距離もでない
とても即効性がある織田の鉄砲にはかなわなかったのである。
地理的に優位な本願寺や畿内の大名たちは鉄砲も火薬も弾も手に入れやすかったが、信長が京を占領して以降、京での布教を許す代わりに貿易の独占を求めた、
完全とはならないが、敵対勢力への提供量を減らす効果はあっただろう。
イエズス会は当時の仏教界と同様に布教だけでなく利を求める集団でもあった、本国からの支援もあったが、ほとんど日本での稼ぎに頼った、
その大きな収入源は生糸などの日本製品、鉄砲など武器の販売、そして信長の耳に入ったかどうかはわからないが九州からは日本人奴隷の海外輸出までもしていたのだ。
奴隷の多くは戦で負けた地域の男女や子供、兵士がほとんどで戦利品であった
関東などでは奴隷の多くは、勝利者の奴隷になるか、親戚が買い戻したという
だが西国の奴隷は外国に売られた、
スペインの奴隷船に乗せられて東南アジアから遠くヨーロッパにまで売られていったという、じゃぱゆきさん。
ともあれ信長は大いにスペイン人、イエズス会を利用し、お互いにうまくやっていたのである。
秀吉が予想した通り、信長は7月になるとまた諸将を岐阜に集めた
「いよいよ越前の坊主どもを全滅させる機会ができた、一気に攻め落とすぞ、欲の皮が張った者同士で仲間割れをはじめたわ
柴田、佐久間を左右の大将に先陣2万で、海沿いの街道を杉津砦から攻めあがれ、その間に明智、羽柴は先陣から離れて各々5千を率いて府中を攻め落とせ、伊勢海賊衆は海より先鋒軍を援護しながら進め、大将は滝川、副将は九鬼
儂は2万を率いて木の芽峠の周りの小城を攻め落としてから府中にむかうぞ」
加賀の一揆の仲間割れは、加賀から入ってきた本願寺一揆の頭目、七里頼周の横暴が目につき始めたのだ
もともとある越前の在地寺を下に見た発言が相次ぎ、命令したりするものだから地元僧侶は面白くない、ついに喧嘩が始まった
それだけにとどまらず、一揆の主力になった門徒百姓の暮らしは武家政治と何ら変わらなかった、農民の自由を求めて戦ったのに、武家が寺に変わっただけで相変わらず高い税(年貢米)を寺にとられる)
「そんなはずじゃなかったに」、農民に不満がたまって、これまた僧侶との対立になったのだ。