秀吉の正月は吉報が舞い込んだ、なんと宇喜多直家が自ら秀吉の居城、姫路城に密かにやってきたのだ
しかも6歳の嫡男八郎を連れてきて人質に差し出した、秀吉は大いに喜び本領安堵を約束した、そして八郎を長浜に送り、ねねに預けて「わが子のように育てよ」と言った。
この八郎は後に岡山60万石の大身となり豊臣5大老の一人となる宇喜多秀家である。
これを聞いた直家は喜び、戦国を逞しく生きた梟雄(きょうゆう=策謀を得意として裏切りや反逆を繰り返して出世した武将)らしくない真顔になって涙を流して
「筑前殿、儂はこのように見えるが実は死病に罹っておるのじゃよ、もってもあと3年が良いところであろう、医師にも見放されたわ、心残りは八郎が幼いことである、儂が死ねばこの戦国の中で生き抜くのは難しいであろう、儂の兄弟は儂と違い真面目なものばかりじゃよ、だが岡山30万石を守るには力が足りませぬ、八郎を筑前殿のお子として育てていただければ、そして元服の暁には宇喜多を継がせてもらい後援してもらえば安心して死ぬることができる、儂は織田家と筑前殿に我が家の命運をお任せしたい」と言った
秀吉は直家の手をしっかり握りしめて「お任せくだされ、安心してくだされ、儂が必ず八郎を立派な宇喜多の後継ぎといたしますぞ」
「かたじけない、儂もこれでいつ死んでも良い」
「バカなことを申すではない、気力でござるよ、気力を持てばそなたなら100までも生きられよう」
こうして備前の半分が織田家の勢力範囲に入った、しかも宇喜多は1万近く動員できる強力な味方となる、信長にとっても良いお年玉になったのだ。
宇喜多軍は5月に美作の毛利方の城を攻め落として秀吉に献上した、これで明らかに毛利との手切れを宣言したことになる。
そんな頃、徳川家康の嫡男信康に嫁いでいた信長の娘、徳姫が帰って来た
すでに理由は家康から信長に伝えられていた
摂津に出向いていた信長は秀吉と佐久間信盛に「家康め、思い切ったことをしたものじゃ」と独り言のように言った
「何事でございますか?」佐久間が訪ねると
「うーむ うーむ、わしに気兼ねをしたのか?」とわからぬ言葉をつぶやく
「どうされました? 何があったので」佐久間が再度聞いた
「三河(家康)が徳姫を返してよこした」
「なんですと、裏切りですか!」
「違う 違う違う! その反対じゃ、せがれの信康を殺したそうじゃ」
「うえー」素っ頓狂な声を上げた「これ! 慎め!」信長が諌めた
「文によれば、『信康に謀反の疑いあり』とのことである」
「それはまた、何故に?」「知らぬ」
その後の使いで全容がわかって来た
徳川家康は少年時代から今川の人質となって駿府で暮らし、そこで元服して今川の武将となった
そして今川の重臣、関口某(なにがし)の娘を娶ったが、これが我儘で気位が高く、いつでも家康を下に見ていた、それは家康が独立して大名となった後でも続いたので、家康もうっとおしくなって岡崎城を嫡男信康に渡し、ついでに妻の築山も岡崎城に置いて、自分は浜松城に入ったのだった。
やがて信康は信長の娘、徳姫を娶った、夫婦仲は良かったが、築山はいつもの調子で徳姫に何かとつらく当たる
そのため徳姫と警固の武士が、築山に一泡吹かせようと粗さがしを心掛けていた
築山は主家の今川が、織田に滅ぼされたことで、その娘につらく当たることで腹いせしていた
折も折、武田勝頼の密命を受けて岡崎城に信康の家臣となって潜入していた武士が築山に近づいた。
すぐに築山のお気に入りになって、言われるままに男に徳川の秘密を漏らすようになっていた
信康は、それに気づいたがもう築山がしでかした罪は死を免れないほどになっていた、信康は悩んだが、夫に去られた女の無念にも同情したし、信康にとって母はかけがいのない人だった、それで信康は目をつぶった
そこを間者の男に付け込まれてしまった、だが徳姫と取り巻きはそれを見逃さなかった、時間をかけて調べ上げ、やがて男も捕えて口を割らせた
そして徳姫の名で、信長にありのままを知らせた
信長は直ちに浜松城に遣いを出して、家康に事実を調べるように申し渡した
家康は寝耳に水のこの一件を知らなかったことを恥じ、激怒した
生真面目なことを言えば、家康の右に出る者はいないほどである
直ちに岡崎に遣いを出し「信長公に言われる前に自裁せよ」と切腹をほのめかした、築山には浜松に出てくるよう申し渡した
己を恥じた信康は潔く腹を切った、まだ20歳であった、築山は道中の途中で家康に命じられた刺客によって惨殺された。
そして始末が終わった旨を信長に知らせてきたのだった
落ち度のない嫡男、家中でも評判が良く、家康の後継者として不足がない資質を持っていた、それを失うことになった家康の胸中は誰にも計り知れない。
世間では「信長が自分の息子の信忠よりも、家康の息子の信康の方が優れていたために、後ち後ちを危ぶんで難癖付けて切腹させたとか、家康が北条と手を結んで織田に反抗するのでは」という噂が立った。
事実、越後の争乱で、武田と北条の同盟が敗れたため、北条は徳川と同盟を結んで、武田、佐竹に対抗する姿勢を見せた。
武田は佐竹、上杉と同盟を結び、関東甲信の相関図は大きく様変わりした。
ついに安土城の天守閣が完成した、全体の城郭は壮大過ぎてまだまだ工事中の個所はあちらこちらにある
天守は、この頃にはあちこちの城にもあるが、それは天守館といった方が良い、本丸に建てた三階か四階の建造物の最上階を天守というが、それは一階、二階の延長で物見やぐらの役目だ
安土城の天守は物見もできるが、それ自体が美術品と言って良い、とても戦のための物見櫓ではない
そもそも形状が筒形に似せてユーロペの城に似ている、しかもそれは黄金色に輝き反射しているのだ、高さも国内随一である
五層七階の天守なのだそうだ、室内は豪華な狩野派の絵師によってさまざまな空想の珍獣や松竹梅が襖に描かれているとか
信長は盛大に式典を開催した、今や織田領内深くまで攻め寄せる大名はいない、多くの兵士を敵の前に置いておけば信長がいる京、安土、岐阜は安全地帯である
主だった織田家の重臣、武将、それに朝廷からも帝の代理として関白などが招かれてきた
南蛮商人のロドリゲスやイエズス会の代表者も招かれた、しかしここに招かれた日本の僧侶は信長が特に目をかけた少数しかいない。
大手門から二の丸に続く石畳の参道の左右は広く、主だった武将のための安土屋敷が建てられた、柴田、丹羽、佐久間、明智、林らの宿老、秀吉、滝川、池田、森、堀、前田、徳川家康の屋敷もある
天守下には信長の屋敷、信忠、信雄、信孝ら一門衆の大きな屋敷がある
招かれた者たちは信長の御殿大広間に集められた。
「天主様のおなり~」小姓頭の森蘭丸の甲高い声で居並ぶ50数名は平伏した
(天主様?)誰もが不審に思った
「おもてをあげよ」信長の声も高く野太い、顔を上げた皆が一斉に驚きの声を上げた「おー 何じゃあれは」
「驚いたか」信長が満足そうに言った